ドキドキ、新生活 4
風呂から上がると美月は、混乱をきたさないように今後できうる限り志郎のことは美月と表記する、桂の愛用しているパジャマを借りた。この姿になったから纏い続けていたコスプレの衣装は汚れが目立ち所々破れていた。それ以前に羽織るだけのものをいつまで纏っているわけにはいかない。
桂のパジャマは美月にはサイズはかなり大きいので上着だけの着用。
「明日は美月ちゃんの服を買いに行こうか」
先程までの悲しみをどこに捨て去ったのか、明るく朗らかな声がバスルームからした。記憶の操作のおかげか、元気を取り戻していたようだった。
一瞬、しまったと思う。モゲタンが記憶を書き換えてくれたのならば一緒にこの姿になった経緯も桂の脳内に伝えてもらえばよかった。
すぐに考えを変えた。そんなことをしなくて良かったと。上手く言い表すことはできないが桂には知られたくなかった。伊庭美月が稲葉志郎であることは秘密にしておきたかった。隠しておきたかった。
「いいよ、別に」
服なんて着られれば何でもいい。姿は変わってその思考には変化は無い。
「駄目だよ。だって美月ちゃんの着られるような服は一着も無いんだから」
バスタオル一枚を巻いて出てきた桂が強い口調で言う。たしかに美月には持ち物は無い。
記憶は変えられても現実は変えられない。無から有は生み出せない。人間の知恵からみれば万能に近い能力を持ったモゲタンでもこれは不可能であった。
「それにしても不幸だったわね。持っていた鞄をここに来る途中で全部失くしてしまうなんて。でも心配しなくてもいいからね、お姉さんに任せなさい」
大きな胸をどんと叩いて言った。勢いがありすぎたのか、その後咳き込む。
その後、着替えた桂は部屋から出て行き、数分後両手にコンビ二の袋を持って帰ってきた。
コンビ二で買ってきたお弁当で二人は胃を満たした。そして一緒のベッドに入る。抱き合って眠りについた。布越しに伝わる桂の体温が美月に懐かしい安らぎを与えた。この姿になったから自分でも気付かぬままに気を張り続けていたのだろう。安心感で瞼が重たくなってくる。桂も泣き疲れていた。すぐに寝息に変わる。
二人はあっという間の仲良く夢の世界へと旅立った。
久し振りにぐっすりと眠った気がした。
まだ半分脳が眠っているような状態だったが美月は桂と一緒にいるベッドから起こさないように一人こっそりと抜け出す。
自然が呼んでいたから。
トイレに入り、便座のふたを上げる。お弁当と共に買ってきて貰ったパンツの中から自分のものを取り出そうとした。
ない。
まだ半分眠ったままだった美月の脳が完全に目覚めた。
そうだった。
男の身体じゃない、今は少女の身体になっていた。
ないものをいつまでも嘆いていても仕方がない。身体が尿意を訴えているのだから早く放尿しないと。このままの状態を続けていたら、そのうちに我慢できなくなり、ついには決壊。
その結果多大な迷惑をかけてしまう。
以前、立って用を足していたら飛沫が飛ぶと文句を言われたことを思い出す。
それはともかく、このままでは用は足せないので上げた便座を下ろし、パンツも下ろし、便座の上に腰を下ろす。
体内に溜まっていた余計な水分が一気に外へと放出した。
「なあ、そういえば今までは排泄行為をしていなかったよな。それがどうして今日は突然したくなったんだ」
完全に目覚めた脳内に浮かんできた疑問を口に出す。左手の小さな身体には不釣り合いなクロノグラフ、モゲタンに質問する。
秋葉原から桂の家に来るまでそれなりの時間がかかった。
その間一度も尿意をもよおした記憶はない。
〈何だ? そのことか。その説明は簡単だ。今までは栄養事情が悪かった。君は食料はおろか、水分もまったく摂取しなかった。君を生かしておくためには体内のエネルギーを無駄遣いできない。そのためにこれまでは一切排泄という行為が必要ではなかった。しかし事情が変わった。これからは適切なエネルギー補給が可能だ。余計で過剰なエネルギーをいつまでも体内に留めておくのは害悪でしかない。それに君がどうか分からないが、こういう行為にある種の快楽を得ることができる人間がいるという情報もあるし〉
「……理解した」
たしかに食べていないし、水分も摂っていなかった。
出すものを出したのだから、もうこれ以上トイレにいる必要性はない。
なのに、美月はまだ便座の上に。
気になることが頭の中に浮かんできたからだった。
男であった時にはあったものが今はなくなっている、その代わりに男にはない器官がある。
少しだけ興味が。
その部分を触れれば自動的に気持ち良くなるものだと思っていた。が、実際に桂のその大事な箇所に触れた時「痛い、強すぎる、もっと優しく」と怒られた過去が。
加減が分からずに指先で強く擦りつけた結果だったが、それ以来優しく触れるように、デリケートに扱うようにしていた。
その部分がある。
触れたらどんな感じなのだろうか? 気持ち良いのか、それとも痛いのか?
好奇心が大きくなっていく。
この姿でいる間に、どんなものか知ることができたらならば、男に戻った時にもしかしたら役立つんじゃないのか。
そんなことを考えてしまう。
手が自然に、勝手に伸びていく。
もう少しで指先が当たる、寸でのところで止まった。
ここで触れてしまったら、想像した通りの、それ以上の気持ち良さがあったら、後戻りできなくなってしまうんじゃ。
そんな危惧が動きを止めた。
男に、稲葉志郎に戻ると目標が瓦解してしまのでは。
〈君の望むような快楽は得られる。しかし、君の身体はワタシがその姿を再構築したが脳は以前の男のままだ。だから、完全に女性化してしまうんじゃないのかという君の心配は不要だ〉
好奇心が美月の中から消えた、というか萎えてしまった。
下ろしていたパンツを上げてトイレから出た。
リビングでストレッチを行う。
稲葉志郎であった頃からの日課。ある程度柔らかくなったら、今度は発声、および活舌。もっとも隣の部屋ではまだ桂が眠っているから大きな声を出さずに活舌中心で。最後は外郎売で〆た。
「おはよう」
まだ目覚めきっていない寝ぼけた声で挨拶をした。起こさないようにと思っていたのに。
「……ごめん」
素直に起こしたことを謝った。
「ううん。それより今の? 稲葉くんがしていたみたい。美月ちゃんもお芝居しているの?」
静かに首を振った。正直に話せないもどかしさのようなものがあった。
「いいよ、続けて。まだ終わりまでしてないでしょ」
まだ終了していない外郎売の続きを桂が促した。
「いい、もう終わりだから」
いつものように答えてしまったら気付かれてしまうかもしれない。どのような口調で話せばいいか考えたが上手く纏まらずに少しぶっきら棒な口調に。
朝食を食べる。
桂の服は全て美月には大きかった。それでも何か着ないと。
選んだのはオーバーオール。
肩から掛けるからウエストサイズやヒップサイズが大きくてもなんとか着られる。長い裾は曲げれば問題なし。
美月はシャツを脱ぎ素肌でオーバーオールを着用しようとしたが、桂に慌てて止められる。
「個人的にはセクシーだと思うけど、そのかっこで外に出るのは」
この後買い物に外に出ることになっていた。
美月個人としては別の問題なんかないと考えているが、さほどの膨らみもない胸を他人に見られても構わないのだが、桂が止めるので従うことに。
これまたサイズの大きなTシャツを借り着る。その上からオーバーオール。
それから長い前髪をヘアピンで留めてもらう。これで狭かった視界が広がった。
「ねえねえ、一回くるりと回ってみて」
桂のリクエストに応える。
「いいな。美月ちゃんお尻小さくて」
羨ましそうに言う。そうだろうか? 男の視線からすれば大きな桂の方が魅力的なのに。これが男女の考えの違いか。少女の身体になっても中身まで変化したわけではなかった。
こんな姿ではあっても中身はれっきとした二十代後半の男である。