一学期終業式
明日からは夏休み。普通なら大喜びしたような心境になるのだろうが、美月の中には寂しい気持ちで一杯だった。
というのも、同級生だけど年下の友達というか、芝居の教え子である新井美人が今日を持って名古屋に転校するからである。
引っ越しはもう少し後ではあるが、七月中には今の家を引き払い、一家で名古屋へと。
指導した期間は短く、また優秀な演者ではなかったが、それでもひねくれたところは一切なく真面目に、そして熱心に美月の教えを受けていた。
その姿にはすごく好感を持てた。
もっともっと自分が、稲葉志郎がこれまで演劇人生で学んだこと、経験したことを教えたいと、伝えたいと思ったが、ひとまずこれで終了。
東京から名古屋。距離にすれば約400㎞。それこそ新幹線に乗車すればおおよそ二時間で到着する距離。
しかし、中学生にとってはその距離は大きなものだった。
稼ぎのある身ならともかく、お小遣いをもらっている義務教育期間中の学生にとっては往復二万円強という金額は大金である。
ならば、深夜バス、もしくは青春十八キップを使用しての移動という手もあるが、未成年の女の子を一人深夜にバスに乗せるのは道義上どうかとも思うし、第一親御さんは許可しないだろう。もう一つの手段は費用をかなり抑えられるが時間の浪費という観点で、やはりこれもお薦めできない。
しかしまあ、考えようによっては良い機会でもあるかもしれない。若い彼女にとって一人の売れなかった役者の指導で凝り固まってしまうよりも、多くの演劇人達と接し、教えを乞うのはこれからの人生でプラスになるはず。中には合わないような人間と出会うかもしれないが、それもまた糧になるはず。
そんなことを考えていた美月の頭の中に、ある言葉が急に浮かんでくる。
「……あ、中学生日記」
「どうしたんや突然?」
美月の前の席で、美人の送別会の予定について話し合っていた知恵が声をかける。
「教育テレビのあれかしら」
これは靖子の言葉。
「うん、そう。その中学生日記」
「ああ、あの地味な番組。でもさ、それって今全然関係ないよね」
「うん」
文の後に、美人が続く。
「えっと、……ゴメン。突然頭の中に浮かんできたから声に出しちゃった。それよりどこに行くのか決まった?」
「それはまだ決まってないけど。それより何で、そんな言葉が急に出てきたんや。なんかそっちの方が興味あるわ」
「そうね、決まらない相談事よりも美月ちゃんの考えていることのほうが重要だわ」
「別にアンタは相談に必要ないんやけど。そもそも誘うかどうか検討中やし」
「参加するに決まっているじゃないの。大切なクラスメイトだし、それに……友達にもなれたと思っているし」
「……あ、ありがとう」
思いがけない靖子の言葉に美人が照れながら返す。
「ねえねえそれよりもさ、どうして中学生日記という言葉が出てきたの?」
青春の一ページという雰囲気を文の一言で日常へと戻される。
「そうそれや。さ、話してもらおうかな」
「名古屋で中学生日記のオーディションを受けてみたらどうかなと思ったんだ」
「そういうのって劇団の子役とかがうけるんじゃないの? ねえ、どっかに入る予定でもあるの?」
大きく首を何度も振って美人は否定した。引っ込み思案な性質である。そんな予定はない。でなければ、美月に教えを乞う前にどこかの児童劇団なり養成所に所属していただろう。
「たしか名古屋市内、および近隣の市町村の中学生くらいの年齢なら誰でも受けられたはずだったと思う」
詳しいことは知らない。が、知識としてあるのはこの番組は長い歴史があり、さらに美月というか稲葉志郎が名古屋出身の先輩役者達との交流で色々と情報を得ていたから。
「……でも、受かるはずないし」
ネガティブな発言が美人の口から。
「そんな弱気でどうすんねん、やってみな分からんやろ」
「そうですわ。挑戦しないと」
普段は仲が悪そうな二人の意見が見事に一致する。
「……でも」
「別に受かる必要なんかないよ」
「そうなの?」
「オーディションなんかなかなか受からないよ。けど、そういうのを経験しておくのは悪いことじゃないと思うんだ。声優というか、役者という職業にとってオーディションというのは絶対に切れないものだし。慣れるためには場数を踏まないと。まあ、慣れすぎて緊張感を失うのは駄目だけど」
自身の経験をつい語ってしまう。映像の仕事へと移行し始めた当初、慣れなくて戸惑いまくっていた。
「ホンマ、この子は。そういう知識をどこから手にしてるんや」
語りすぎてしまった。後悔するけど、後の祭り。
「桂さんの知り合いの役者さんから聞いたんだ」
咄嗟の言葉。
「ああ、そういえばそんなこと言ってよね」
「それにもし合格したら、それこそ掛け替えのない財産になると思うよ」
撮影で使うカメラのレンズが向けられているという独特の緊張感、強烈で思いのほか暑い照明の光、現場の雰囲気。日常では味わえないもの。
さらに言えば、これは伝聞ではあるが中学生日記の撮影現場は厳しいものらしい。それを肌で感じ経験するのは今後の人生においてプラスになるはず。しかし、とある教師役の役者の箸の使い方がおかしかったために、その後台詞がなくなったという話を聞いている。が、こんなことを口に出そうものなら絶対に美人が怯えてしまい、せっかくの決意も水の泡と消えてしまいそうだから、絶対に秘密だけど。
「……うん、受けてみるよ」
「ヨッシャ、その意気や。けど、最初から落ちるの前提でいったらアカンで」
「テレビに新井さんの姿が映るのを楽しみに待っていますわ」
「うん、がんばる」
「良い方向でまとまったから、話を戻そうよ。どこに行く?」
脱線していた話を文が元へと戻す。
「それなら水族館なんてどうかしら?」
以前、靖子は池袋に赴いた際に美月と水族館デートがしたいという願望を漏らしたことがあった。その願いは叶わなかったから、リベンジという意味も込めて提案する。
「却下や」
「どうしてよ」
即座に意見を知恵に否定され、少し憤慨しながら靖子が言う。
「それはアンタが美月ちゃんと一緒に行きたいという願望やろ。今回の主役は美人や。水族館は、自力で美月ちゃんを口説いて実現してくれ」
「言われなくてそのうち実現してみせますわ」
「まあ無理やと思うけどな。なんせ、美月ちゃんには桂さんという人がおるんやさかい」
好意を持ってもらうのは嬉しいけど、知恵の言う通り美月には桂がいる。
この少女に姿になってから一線を越えてはいないけど、以前よりもはるかに強い想いで結ばれているという実感があった。
が、それを口に出すことはしない。そんなことを言ってしまえば事態がおかしな方向に進んでいくのは明白であったから。
「そんでさ、美人はどこか行きたい場所あるの?」
「……やっぱり、ここかな」
そう言いながら美人が指さしたのは某夢の国が表紙の雑誌。
「まあ、定番やな」
「そうなんだ。やっぱりこっちじゃ、ここが定番スポットなんだ」
「うん、そうだよ。でも高いんだよね」
「美月ちゃんが前にいた所では、どんなスポットが人気でしたの?」
「長島温泉かな」
一応東海地区からの転校という設定になっていた。
「温泉なの?」
「なんか年寄臭くない?」
「まあ、温泉もいいですわね。美月ちゃんと裸の付き合いをしたいですわ」
美人が驚き、文が感想をのべ、靖子が願望を口に。
「ああ、ちゃうちゃう。あんたらが想像するような温泉とちゃう。めっちゃ有名な遊園地なんやけどな。なあ、美月ちゃん」
頷く。
長島温泉という通称で呼ばれているが、遊園地施設の正式名称はナガシマスパーランド。輪中の最南端にあり、広大な敷地面積の中には日本有数の絶叫マシンをはじめ、巨大プール、アウトレットモール、ホテル、そしてもちろん温泉を備えている。
東海地方はもとより、関西圏からも来園者の多い遊園地。
にもかかわらず、女子中学生三名がその名を知らなかったのは理由があった。関東圏では東の雄、富士急ハイランドの存在があり。また、某夢の国の存在があまりにも大きいため。
「すごいで、ギネスに載るような絶叫マシンがぎょうさんあるし」
「知らなかった」
「ええ、まったく」
「……向うに行ったら、お父さんに頼んで連れて行ってもらおうかな」
三人がそれぞれの感想を。
「ともかく、また脱線してもうた。今度こそちゃんと決めんで」
再度、軌道修正。
しかし、またまた話は紆余曲折して一向に決まる様子を見せない。
そんな様子を美月は黙ってみていた。
自らの意見なんか全然ない。どこに決まろうとも参加するつもりだった。
一回り以上離れた年下の友人達の話し合いをほほえましく思いながら楽しそうな光景を見ていた。