名古屋注意報
今回はメタネタが含まれています。
どうかそこはご了承下さい。
引っ越しの準備で忙しいはずなのに、美人の父は美月のための料理教室を開いてくれていた。
本日はいつもより遅い時間に開催だったため、いつものメンバーは付いて来ておらず、代わりに桂が同行していた。
料理及び夕飯を兼ねた試食会を終えた後は、美人の両親それから桂はワインを片手に歓談し、本当はそちらに参加したいがどう考えても吞めるような肉体ではないので美月は内心で泣きながら我慢し、美人に芝居の講義をしていた。
レクチャーしていたのはスタニスラフスキーのメソード。
役者としてこの演技論は大変勉強になった。しかし美人が目指しているのは声優。これが役に立つのかどうか判断に迷ったが、学んでおいて損はないはず。そう考え、古本屋で本を仕入れてきて指導を。
時折、大人組の声が聞こえてくる。
どうやら向うの話題は名古屋について。
大学入学で上京するまで桂は美人一家が引っ越す名古屋から西に三十キロ程離れた隣県の市で暮らしていた。
どんな街なのか生の声の情報を仕入れておきたかったのだろう。
しかし、桂はあまりよく分からないのが実情だった。こちらに出てきてから十年近いということもあるし、それに向うにいた頃もたまに遊びに行く場所、それか高校三年生の時に夏期講習で予備校に通ったぐらいの記憶しかない。
「すいません。あんまり詳しくなくて」
「いやコチラこそ申し訳ない。冷静に考えてみれば、隣の県のことなんかよく知らないよな。俺も千葉とか埼玉のことは全然知らないし」
「……ああ、でも交通状況は酷いって、お兄、……じゃなくて兄がよくこぼしていました」
桂の兄は進学も名古屋、就職先も名古屋だった。
「ああ、その話はよく聞くね。そういえばこないだ研修で行ったんだけどウインカーを出さずに車線変更が多かったよな。それから有名な名古屋走りをこの目で見た時は知識としては知っていてもメチャクチャ驚いたよ」
「名古屋は危ないのね、気を付けないと」
美人の母がのほほんと言う。
名古屋、危険。
この二つの言葉が美月の耳を通し脳内に入ってきた瞬間、美人に伝えないといけない大事なことを思い出す。
「名古屋弁に気を付けて」
美月の言葉は大人組のところにまで響いた。
「やだもー、今どき名古屋弁を話す人なんかあの有名な市長さんくらいしかいないから。確かにこっちでは通用しないような言葉とかもあるけど」
桂が笑いながら大げさだと言う。
「例えば? 向うでのコミュニケーションに必要かもしれないし」
言葉は仕事をするうえで重要だ。美人の父が桂に聞く。
「えっとですね。疲れた時なんか、えらいっていったりします」
「ああ、知ってる。関西の出身の子なんかも使っているよ」
「他にはお金を壊してとか」
「壊すの? お金を?」
「両替って意味で使用するんですけど。あ、後は学校で教えるようになって知ったんですけど、向うでは机を運ぶのを吊って、て言うんです」
「そうなんだ、面白い」
美人が楽しそうに感想をのべる。
「……違う、そんなんじゃない。あの土地の言葉の恐ろしさはそんなものじゃない」
「どういうことなの美月ちゃん?」
ついさっきまで楽しさが吹き飛び、恐る恐る美人が訊く。
「い、……美月ちゃんそんな怖がらせなくても。美人さん、大丈夫だから。私の住んでいたところだと関西の言葉が混じっている人もけっこういたけど、名古屋にはほとんどいないから。古い人なんかはきつい名古屋弁で話すけど、大半の人はほとんど標準語だから」
「違う。確かに文字で書くと標準語になるけど、アクセントが微妙に違うんだ」
「そうだっけ」
「そうだ。ある有名女優の有名な話だけど、靴のアクセントがおかしくて何回も撮り直しをした。周囲のスタッフは笑っているけど、自分がどうして笑われているのは分からないという逸話があるんだ」
「そうなの?」
「そうかな」
「へー」
「アクセントが微妙というか多いというか、……そういえばこんなことを言っていた知り合いの役者がいたな。名古屋の人と話していた時、普通の言葉だと思って聞いていたら突然おかしなアクセントが出てきて頭がおかしくなりそうだって。関西弁ではそんなことないのに。名古屋のアクセントは気持ち悪いって」
「……大丈夫かな私。……やっていけるのかな」
不安そうな声で美人が呟く。
「だ、大丈夫よ。……美月ちゃんもそんな不安になるようなこと言わなくても。平気よ、それに心配ならさテレビとラジオで標準語のアクセントを忘れないように勉強すればいいんだから」
桂が教育者らしくフォローする。
「テレビやラジオも危ないんだ、あの土地は」
「……えっ?」
「NHKはまだ比較的まともかもしれないけど、民放放送局が酷いんだ。日本初の民間放送局と自慢している局があるけど、そこのアナウンサーのレベルが低すぎる。言葉のプロなんて自称しているけど、おかしな日本語を使用するし、さっき言ったような変なアクセントを平気で放送に流すし。まあ、中にはちゃんとした人もいるけど、……ああ思い出した。その局の役職についているベテランが放送中に新人アナウンサーに鼻濁音と無声化が甘いって駄目だししていたけど、お前の方ができていないわ。自分が下手な癖に新人いびりをするなよ。言い返せない立場の人間からしたらパワハラだろ。それを電波に乗せて世間に流すなんてどんな神経しているんだろ。ああ、そんなおかしな思考や思想の持ち主だから、自分とは考えが違う人間をあしざまに馬鹿にしたりするんだろうな。視聴者からすれば、そっちの方がはるかに愚かな行為なのに、それに気が付かず、悦に入っているんだ。そもそも自分たちが一般の市民を簡単に操れると思い込んでいるから、嘘を垂れ流し、そして責任を全然取らない。本来ならば……」
美月の言葉はまだまだ続きそうだった。
「駄目だよ。ねえ、美月ちゃん。ちょっと落ち着こうよ」
中学生とは思えないような言葉というか怨念というか、繰り言を垂れ流しつづける美月を桂は心配声をかけた。
新井一家はその突然の成り行きでぽかんと見ている。
〈桂の言う通り、落ち着け。このままでは精神は黒く澱んで汚染されてしまう。今、君の口から出ている言葉は君自身の考えではなく、作者にハッキングされて出ているだけで。落ち着いて、そのおかしな回線を一刻も早く遮断するんだ〉
桂の呼びかけ、モゲタンのアドバイスが功を奏したのか美月は冷静さを取り戻した。
「……ごめんなさい」
冷静になった脳で和気あいあいとしていた団欒を壊してしまったことを素直に謝罪する。
「……美月ちゃんってこんな一面もあったんだ」
教室とは全然違う美月の一面を見て美人がぽつりとこぼした。