ハラハラ、二人の関係 5
夜、一本の電話があった。受話器の向うに美月は懐かしい声を聞いた。それは弟の声だった。この弟は地元で就職したが何度か上京して遊びに来ていた。その時に桂とも顔見知りになっていた。
電話を代わる。桂の表情が暗くなっていくのが分かった。
「どうしたの?」
「……稲葉くんのお葬式をあげたって」
その声は小さく、震えていた。全てを聞き取れずに聞き返す。
「えっ?」
聞き出したいが泣き出してしまった桂から応えは返ってこなかった。それでも辛抱強く宥めて真相を聞く。どうやら行方不明扱いであったのが死亡になったらしい。秋葉原で所持品が発見され、両親は生存を諦めた。そして身内だけで葬式をあげた。その報告だった。
分かっていたことだった。いずれは訪れる報告だった。美月は十分に理解していた。
「その人のことを忘れて新しい恋人を作ったら」
桂には幸せになってほしい。以前にも一度告げた言葉をもう一度美月は桂に言った。もう忘れて、新しい幸せを掴んでほしかった。
偽らざる本心だった。だが、タイミングが悪かった。
「そんなことできるわけないよ。……忘れて新しい人なんて無理よ。……私の気持ちも分からないのに勝手なことを言わないで」
それは一緒に生活し始めてから初めて見せた表情だった。
桂には稲葉志郎のことを忘れて幸せになってほしかった。このまま縛り続けていては永遠に彼女のもとに幸福な未来はやって来ない。それは偽りのない美月の本心だった。
死亡の報告が来たのは良い機会だととらえて、言った。
だがそれは逆効果になった。
元気付けるどころか、反対に悲しみの深さを進行させてしまった。
良かれと思った発言が傷付けてしまう。
あれから二人の間に会話は無かった。いつもは楽しい声があふれる部屋が静まり返っていた。
同じ部屋で、同じベッドで横になったのに一言も話さなかった。
ここでも焦りすぎてしまった。過ぎたことを後悔をした。
美人の時も、そうだった。残された時間が少ないと悟り焦って指導をした。そのことで険悪になりかけた。最悪の結果は回避され、結果的には仲は前より良くなったが。
どうすれば桂との関係を修復できるのか。
授業にも身が入らずに美月は考える。その思考を傷みが遮断した。
残された時間の少ない身体が悲鳴を上げていた。傷みと苦しみが美月に襲いかかる。声を出して喚いて周囲に知らせるわけにいかない。これは絶対に他人には知られてはいけないこと。奥歯を噛み締めて傷みに耐えていた。
教科書を衝立の代わりにして顔を下に向ける。傷みが過ぎ去るのを耐えて待っていた。
「美月ちゃん、今日はどこか調子でも悪いの?」
休み時間に靖子が心配そうに声をかけてくれる。
「そんなことないよ。どうして?」
声を一段明るくして応える。そうしないと傷みが声を通して外に出てしまう。
「授業中なんだか辛そうでしたから」
噓は通じなかった。余計に心配される。
「そやな。ホンマに辛そうにしとったもん」
「うん」
「……痛そうにしていた」
知恵と文と美人も美月の席に集まってくる。
「大丈夫だから。そんなに心配してくれなくても平気だよ」
身体の異変ことは知られたくないから噓をつく。
「噓ですわ。授業中の美月ちゃんの背中はいつもよりも小さかったですわ。なにか心配なことでもあるんじゃ?」
「靖子ちゃん、本当に美月ちゃんのことよく見てるよね」
「うん、そう思う」
「そんなことないですわ。そりゃ黒板越しに偶に見たりしてはいますけど。ずっとということはありません」
「それを見てるって言うんや。そやけど、美月ちゃんホンマに大丈夫か? なんや悩みごとでもあったら相談しいや。上手いアドバイスができるとは思えへんけど。ほら、三人寄れば文殊の知恵言うやろ。なんかの助けになるかもしれへんから」
「ちょっと。どうして私だけ除け者にするの。私も美月ちゃんの力になるんだから」
「三人言うたけど、誰もアンタ含まへんなんて言ってないやろ。勝手に被害妄想しとるな」
「それじゃさ、含まれていない一人は一体誰なのよ?」
「そりゃ、もちろん靖子に決まっとるやろ」
「やっぱしー」
この一連の流れに固かった美月の表情が緩む。
「おお、やっと笑ったな」
「……本当になにもなかったの?」
「たいした力にはなれませんけど、私は絶対に美月ちゃんの力になりますから」
「そやで、一人で抱えてても落ち込んでしまうだけやで」
たしかに話すことで気が楽になる。
「……実は桂さんと喧嘩した」
抱えている問題の一つを吐露した。
「なんや、ただの痴話喧嘩か。心配して損したわ」
「えっ?」
「そうだね」
「そうですわ。喧嘩の原因はあえて聞きませんけど、美月ちゃんと桂さんの仲ならばそんなに深刻に考えなくてもすぐに仲直りできますわ」
「うん、そう思う」
「でも、僕は酷いことを言っちゃったんだ。桂さんの気持ちも考えずに」
彼女達の言うとおりに簡単に解決するような喧嘩ならば、こんなにも悩まない。あの時の桂の顔を思い出すと美月は辛かった。
「……あやまればいいと思う」
一言ポツリと言ったのは美人だった。
そう簡単なことなのだ。事態をあれこれと思索するうちに、もっとも単純な行いに思考が働かなかった。
「うん。……ありがとう」
素直に感謝の言葉を述べた。それは美人にだけではなく、この場に集まってくれた幼い友人四人全員にだった。
「それにしても意外やったな」
「なにが?」
「僕と桂さんの喧嘩のこと?」
「ちゃう。靖子がや」
「どうして私のが美月ちゃんの心配をするのが意外なのよ」
「それと違う。ウチはてっきり美月ちゃんが桂さんと喧嘩してと聞いてチャンス言うんやないかと内心ハラハラしたんやで」
「そんなこと言いませんわ。たしかに桂さんと別れてくれるのなら私にとって絶好のチャンスかもしれません。でも、私は正々堂々と美月ちゃんの愛を勝ち取ると決めたんですから。ズルして勝っても嬉しくありませんから」
重たく暗い気持ちのまま桂は出勤した。
昨日の夜の電話以降の記憶が曖昧だった。
彼の葬式の報告を受けて頭の中が真っ白になった。呆然となった。絶対に帰って来てくれる。そう信じていたのに。その希望が脆くも崩れ去った。
それが根拠の無い希望であることは桂は頭の一部で理解していた。けれど、それにすがらないと生きていく灯火が無い。あの時のように無気力で死を望む自分になってしまう。
おぼろげな記憶の中で桂は思い出した。自分が酷いことを言ったことを。
幼い同居人は悲しみに沈みかけている自分に励ましのつもりで、あの言葉をかけたのであろう。少し冷静に考えれば分かることなのに。あの時は逆上してしまった。
幼心の親切心を傷つけたかもしれない。
今朝だってなにも言わずに家を出てしまった。
昨日の夜から美月と全然会話をしてない。
声が聞きたかった。あの鈴のような軽やかな可愛い声を。それだけで元気になれる。
悲嘆にくれるのではなく前向きな思考へと移そうとした。そんな時は楽しいことを考えるのが一番だった。油断をすると悲しみの感情が心を支配しようとする。それを振り払って明るい未来を想像した。
もうすぐ夏休みに入る。美月を連れてどこに行こう。大切な家族が笑顔を見せてくれるのは、どんな場所だろう。思索を巡らさすと靄が晴れていくような気分になる。
けど、そこまで待てない。もっと簡単にできること。
そうだ、今日はケーキを買って早く帰ろう。二人で食べよう。美味しい物を二人で食べればきっと幸せな気分になる。元通りの仲良くなれるはず。
そう信じて。