ハラハラ、二人の関係 4
朝、美月は教室で美人が登校するのを待った。昨日の件を謝罪するためだった。
幾度となく教室の出入口を確認する。ソワソワとして落ち着かない心理状態だった。
桂のアドバイスに従って素直に謝罪するとは決めたものの、美人は許してくれるのか。どんなに言葉を並べても、気持ちをこめても、肝心の相手が受け入れてくれなければ、それは成立しない。独りよがりの意味の無いものになってしまう。
謝罪したという自己満足では終わらせたくなかった。許してもらいたかった。
自分がもうすぐ死ぬという事実は分かっている。それならば関係がこじれたままでも問題は無い。しかし、美月は悪い印象を持たれたままで消えていくのが嫌だった。奇妙な縁でできた幼い友人達の中でできうるのなら、いつまでも好印象で彼女達の記憶の中に留まっていたかった。彼女達の中学時代の楽しい思い出の一部として残りたかった。
鋭敏になっている聴覚が三人組の声をとらえた。音感は悪いが、人の声の聞き分けには自信がある。いつも傍で聞いている声は間違えない。
美月は立ち上がって三人が来るのを待ち構えた。
知恵と文が教室内に入ってくる。遅れて美人の顔が見えた。
良好な関係を継続するための一歩を美月は踏み出そうとした。自分の席から離れて三人へと近付こうとした。
けれで、その一歩が踏み出せなかった。
心は前へと進もうとしているのに、身体が動かない。椅子から立ち上がったものの、その場に立って留まったまま。一歩を踏み出せない。
重たい身体に、さらに重石がつけられたように動かなかった。
一回り以上も離れた年下に謝罪する、プライドが邪魔したわけではない。そんなものは男であった頃から無い。それなのに固まってしまっている。
「おはよー、美月ちゃん」
「おはよう」
知恵と文が挨拶をする。いつもなら言葉で挨拶をきちんと返すのだが美月は声ではなく、肯いて返した。
「ほら、美人。……あんな話があるんやて」
知恵に背中を押されて後ろにいた美人が二人の間を割って前へと出る。美月と美人の距離が縮まる。
身長差のある美月と美人、両者の視線は合わさらなかった。
「……あの」
関係を修復するための言葉を、勇気を出して美月は言おうとした。しかし、言葉が出てこない。
「……ごめんなさい」
「……どうして? 謝らなくちゃいけないのは僕の方なのに」
突然の美人の謝罪に美月は驚いた。
「……昨日怒られた時は、すごく落ち込んだの。それで家でも泣いて。その時にお父さんと話してたら、美月ちゃんは一生懸命にやってるんだって言われたの。どうでもいいようなことなら怒ったりしない、無関心だって。本気で指導してくれてる証拠だって。……だから、もう泣いたりしないからこれからも指導して下さい。お願いします」
ようやく両者の視線が絡まった。
美人の目は機能の涙の後かのように、少し赤かった。
年上の自分ができないことを、年下の少女がした。子供とばかり思っていた存在が、存外大人であった。
美月の胸に熱いものがこみ上げてくる。視界が微かに歪んで見えた。
「うん」
雨は降ったが、地は固まった。
「なんや美月ちゃん、泣いとるんか」
「泣いてないよ」
「目赤いで」
「ほらほら、二人とも仲直りの握手でもしたら。でも、それじゃ、せっかくの感動の場面が盛り上がらないから抱き合いなよ」
「そら、ええ考えやな」
知恵が美月の背中を、文が美人の背中を押して両者をくっつけようとした。
「いいよ、そんなの」
「ええから、ええから」
恥ずかしさはあったが、しないと場は治まらない。照れながら抱擁する。
「これからもビシビシ行くからね」
「うん。よろしくお願いします」
密着した状態で互いにしか聞こえないくらいの小さな声で言い合った。
「ああー、どうして美人さんが私の美月ちゃんと抱き合ってるのよ」
教室に入ってきた靖子が抱擁の光景を見て絶叫を上げた。
「つくづく残念なやつやな、アイツは」
「そう、上手くいったんだ。良かったわね」
夕食時に桂に美人との仲直りを報告をする。自分のことでは無いのにホッとしたような表情をする。本当に美月のことを心配していた証であろう。
「うん。ありがとう」
素直に感謝の言葉を告げる。
「いいのよ。だって美月ちゃんは大事な家族なんだから」
「でも、僕の心配をしてくれるのは本当に嬉しいけど、少しは自分の幸せも考えてみたら」
「なに?」
「毎日、仕事が終わったら真っ直ぐに帰ってこないで、偶には遊びにいったり、新しい彼でも作ったら」
死に行く前にしておきたいこと。もう一つは桂の幸せだった。
二度と桂の前に稲葉志郎として現れることは叶わない。そればかりか伊庭美月という仮初の少女ももうじき消えなくはいけない。だから桂には、もう不幸のどん底に落ちるのではなく、幸せになってほしかった。
「いいよ、そんなの。それにね、稲葉くんはちゃんと私の前に帰ってきてくれるから。……そう、信じてるから。だから新しい人なんて必要無いのよ。それに美月ちゃんもいるから寂しくないし」
「でも、……」
いるだけで笑顔になってくれるのなら、いくらでも居たい。けれど、その大切な時間は限られている。もう明日には無いかもしれない。言いかけたが止める。それを桂に面と向って告げることはできなかった。
美月が言葉に詰まるとほぼ同時にテレビの画面にニュース速報のテロップが流れた。
「またなの。最近多くなったわね。美月ちゃんも気をつけないと」
繁華街での謎の爆発が最近多発していた。美月にはその原因が分かっていた。
あの少年が暴れている証拠だと考えていた。
「……うん」
力のない返事を返す。
もう自分とは関係のないことだ。そう思いながら。
「もう入院なんてしないでね」
これ以上は桂に心配をかけたくない。