ハラハラ、二人の関係 3
いつ訪れるかは分からない死に美月は恐怖を感じていた。
生きている存在がいずれ死を迎える。それは抗うことのできない現実。頭の中では理解しているつもりなのに、怖かった。
死という現実はもっと遠い未来のことだと思っていたのに。
しかし、目の前にまで迫っている。もしかしたら明日にでも、いやこの瞬間にも訪れるかもしれない。死の恐怖が襲い掛かってくる。
ベッドの中に入っても寝付けなかった。目を瞑ると、そのまま死へと旅立ってしまうのではないのか。そんな思考が脳裏をよぎる。そう考えると、お腹の底が冷たくなる。手足が震える。首筋が凍りつく。虚無という暗闇に飲み込まれそうな感覚になった。
恐怖から逃げたい一心で隣で寝ている桂の顔を見た、無意識に救いを求めた。そこにはまた苦悶の表情を浮かべた顔があった。また悪い夢を見ているのだろうか。美月は自分が怖いのを忘れてそっと手を伸ばし桂の頭を優しく撫でた。自らのことより、桂のことが心配だった。険しい顔が、幾分か和らいでいく。可愛い寝息が聞こえた。
目前に迫っている死から逃れる術を美月は知っている。けれど、それを行使するつもりは無かった。使えば、あの時の決意が無駄になってしまう。そしてもっと酷いことが周囲に起きるだろう。
怖いが残された時間の中で自分に何ができるのかを必死に考えた。
考えることによって恐怖を紛らわそうとした。
カーテンの隙間から朝日が差し込む。美月は一睡もできずにいた。それでも眠らずに考えた末に自分にできることをいくつか思いつく。それを実行しようと心に決めた。
伊庭美月という身体で生きていくと決めた時にもう一度、美人と一緒に役者を目指そうかとも考えた。稲葉志郎であった頃は成功しなかったが、この容姿でならば上手くいくかもしれない。大きな役を得られるかもしれない。
その夢も儚く散った。それどころか咲きさえもしなかった。
そこで残された時間で自分ができることを、残せることを考えた時に浮かんだのが美人への演技の指導だった。
指導自体は以前から行っていたが、まだ発声の基本しか教えていない。彼女の夢を叶えるためには入口でしかなかった。
「それじゃ駄目。もっと全身を使って声を出して。それから下半身がフラフラしてるから声が安定してない。自信が無さそうに聞こえる。鼻濁音はできてるけど、無声化がおろそかになってる。関東圏生まれだから訛りのハンデはないけど気をつけないと」
放課後の練習に熱が入る。
普段はあまり口うるさく言わなかったことまで指導してしまう。
「……うん。気をつける」
美月の熱心な指導は逆効果だった。気の弱い美人を萎縮させた。いつもはできていることが、できなくなっていた。
未熟な相手に多くのことを要求してもこなすことはできない。少しづつ改善すればいい、以前はそう考えていた。しかし、肝心の時間が無い。美月がいつまで指導できるか分からない。もしかしたら明日は来ないかもしれない。
「それじゃ、もう一回読んでみて」
熱心な言葉はマイナスに働いてしまう。空回りをする。
「それじゃ駄目だって。もっと柔らかい声を。大きな音を出そうと意識しすぎてるからまた声が固くなってる。せっかくの声の特徴を自分で消してる。それから上半身だけで出そうとしない。前も言った通りに全身を使って。今度は鼻濁音が綺麗に出てない箇所があるから気をつけて」
「なんや、最近の美月ちゃんの指導は厳しいな」
「うん、昔のマンガの熱血コーチみたい」
外野では関係の無い知恵と文が気楽な喋っていた。
普段ならまったく気にならないのに気が散った。少し邪魔だと思った。煩わしかった。
「すこし静かにしててくれないかな」
抑えていったつもりなのに言葉の裏には棘がハッキリと見えていた。それは美月本人にも分かっていたことだった。
気をつけないといけない、分かっていても感情を上手く制御できなかった。
教室の、四人の雰囲気が少し悪くなる。
「そんな言い方しなくていいじゃん」
文が美月の言い方に反感を持った。当然の反応ともいえた。
「まあ、まあ、うるさいのは事実やし。それに怒るいうのは、それだけ美月ちゃんが真剣にやっとる証拠やろ。ウチらは外野なんやから黙って見てよ」
知恵がフォローの言葉を出して場を治めようとしたが手遅れであった。悪い流れというのは簡単に断ち切れるものではなかった。
「それじゃ続けるよ。はい……」
この一連のやり取りが気の弱い美人をますます萎縮させた。できていたこともできなくなっている。声も小さいのに戻った。指導していたことがまったく反映されていない。
「なんで、こんな簡単なことができないんだ」
美人の不出来が美月のイライラを増大させた。禁句が口から出てしまう。演劇の勉強中に何度も言われて立腹した言葉。将来指導する立場になったら絶対に使用しない、そう決めていたのに。言葉に出してしまった。
怒られたことにショックを受けたのか、厳しい指導に耐え切れなくなったのか、それとも自分ができないことに不甲斐なさを感じたのか、それは分からないが美人は泣き出してしまった。
焦るあまりに間違ったことをしてしまった。後悔をしたが時間を元には戻せない。美月は泣いている美人を見ながら立ち尽くしてしまった。
「……ごめん。……今日はもう終わり。先に帰るから」
知恵と文の二人が美人を慰めているのを見て居た堪れなくなった。そして鞄を手にして教室から逃げ出した。
一人、家に帰っても落ち込んでいた。
時間が無いのは十分に承知している。けれど、それはコチラの事情であって美人には関係の無い話だ。それを一方的に押し付けても彼女は迷惑するだけだろう。事実泣かせてしまった。もしかたら、やる気を削いでしまったかもしれない。
いくら反省しようが時を逆流させることは不可能。一度出した言葉を撤回することはできない。口は災いの元だった。
「どうしたの、そんな顔をして?」
帰宅した桂に聞かれる。学校での問題なので、仕事で疲れている桂の手を煩わせたくはなかった。話すつもりはまったく無かった。
「……なんでもないから」
「噓。美月ちゃん、稲葉くんと同じで隠しごとをすると怖い顔になるんだから。ほら、先生に話してみなさい」
その言葉に美月は、あの一件を吐露した。一気にではなく、ポツリポツリ自分のしたことを反省するかのように。けれど、一番肝心な箇所は秘密のままにしておいた。
「そうだったんだ。たしかに美月ちゃんは言いすぎだったかもしれないね。でもさ、それは美人ちゃんのことを思ってたからだよね。良かれと思ったことが、ちょっとだけ裏目になっただけだから。明日、ごめん、昨日は少し言い過ぎたって謝れば大丈夫だから。そんなに心配しなくても」
「……うん」
言われなくとも分かっている内容だった。けれど、美月は素直に桂の言葉を聞き肯いた。
「それじゃ、ご飯食べよ。もうお腹ペコペコだから」
「うん、準備はできてるから。早く着替えてきて」
「分かった。先に食べたら駄目だからね。ちゃんと待っててね」
桂はそう言うと洗面台のある脱衣所へと向おうとした。が、すぐに足を止めた。
「……あのね、美月ちゃん」
「なに?」
「ううん。……なんでもないから。それより、絶対に先に食べたら駄目だからね。一緒にご飯を食べるんだからね」
なにかを言いかけたが止めて脱衣所の中へと桂は入った。




