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これからについて


 喉の渇きと僅かばかりの気持ち悪さとそれと頭痛、さらには腰の痛みと一寸した倦怠感。

 この症状の原因に稲穂はすぐに気が付いた。

 ここ数年それを味わうことはなかったが、それ以前にはよく経験したもの。

 二日酔い。

 まだまだ未成熟、成長段階の身体であった伊庭美月の頃にも極偶にアルコールを摂取していた。成瀬稲穂の肉体になってからも法的にまだ飲酒の許可されていない年齢であったが家で飲酒をしていた。が、モゲタンのサポートによって二日酔いの苦しみというものとは無縁であった。

 それなのに、今自身の身に起きている。一見不可思議のようにも思えるが、その理由にもすぐ稲穂は思い当たる。

 昨夜からモゲタンのサポートがないからであった。

 だが、そこに不安はなかった。

 かつて幾度となく経験した二日酔いの苦しみは厳然として稲穂の内部にあったもののそれはモゲタンのサポートを再開すれば消えるものであり、この一寸した苦痛でさえ今は少し愛おしい気が。だがそれ以上に妙な幸せな気分、多幸感があったからであった。

 それは目を瞑っていても肌を通して感じる柔らかさと温もり。

 そして双丘の上に感じる重みと、お腹に当たる柔らかい感触。

 甘い残り香。

 甘美な一夜の記憶。

 これらが二日酔いの苦しみ痛みを緩和してくれている。

 この幸せな時間にいつまでも浸っていたい。

 継続するために昨夜のというか、朝方のことを反芻する。

 途端に、さっきまであった稲穂の幸福感が一気に消滅。ついでに血の気が引く。

「か……桂……」

 稲穂の小さな、やや狼狽(うろた)えた声で、桂は微睡の中から目覚める。

「うん……おはよ……稲葉くん」

 しかしまだ完全には起きていない。その証拠に声が寝ていた。

「あ、えっと……昨日……」

 それを理解した上で敢えて稲穂は自分の中に生じている不安の素、つまり疑いのようなものを確認しようとした。

「うーん、何……ちょっと待ってね。……あ、たれてきちゃった。稲葉くんティッシュ取って」

 質問をする前に稲穂の求める回答が桂の口から。

 その瞬間、それまであった二日酔いが稲穂の中から完全に吹き飛んだ。

 おぼろげであった昨夜のことが、正確には今朝がたなのだが、鮮明に蘇ってきた。

 血の気が一瞬で引く。

 別に何か悪いことをしたわけではない。同意であったし、行為自体も楽しんだ。

 が、楽しみ過ぎてしまった結果、モゲタンのサポートがないことを忘れて没頭してしまい、すべきことをしなかった。

 しかしながらそれは悪いことではない。桂はそれを望んでいるし、そう遠くない未来には叶えたいことである。

 だが、それは今ではない。

 元男の故の狼狽(ろうばい)なのか、それとも責任をとるつもりであるがいざとなったら急に腰が引けてしまったのか、稲穂自身にもよく分からないが動転しかけ、狼狽(うろた)えてしまいそうに。

 悪いことではないはずなのに。

 しかし急に突き付けられてしまった現実に稲穂は覚悟がなかなか決まらない。

 不安と問題が頭の中を目まぐるしい速度で駆け巡る。

 経営は軌道に乗っているとはいえまだまだ桂の力が必要である。それが妊娠出産ということになればすぐにではないが一年近く先に一時的には仕事を休業しなければならない。それにもまして問題になるのは桂が会社の顔であるということである。世間的に認知度は有名人のそれに比べればかなり低いが、財界、政界、そして一部のマスメディアには新進気鋭の女性経営者として知られており、そして戸籍上は未婚ということになっているが同性のパートナーが、稲穂のこと、いることを知られていること。そんな桂のお腹が目立ち始めたら好奇の目で世間から見られ、それが風評になり、それを跳ね除けたとしても今度は変な団体の看板に祭り上げられてしまうかもしれない。しかしながらそれらの問題は稲穂が考え過ぎているだけかもしれない。会社の顔ではあるが、彼女がいなくても仕事が回る、業務に支障がないくらいに優秀なスタッフが揃っている。昔とは違い最近ではその辺りの事情に社会はある程度は寛容になっている。モゲタンと相談し世間が納得するような上手いカバーストーリーを創り、それを公表することで醜聞になってしまうかもしれない危険性を美談に変えてしまうこともできるはずだし、変な人間を極力近付けさせないことも十分に可能。これらの問題は一見大きな危険性を孕んでいるようにおもえるかもしれないが、いずれも対処、処理できるはずの些末な問題の範疇である。

出産子育ても大変なことであるが、頼れる家族がいる。

 それらの問題は問題ではないはず。

 なのに、稲穂はまだ。

 その理由は自身の身体のことであった。

 見た目は長身の女性であるが、中身は成人男性。

 産むのは桂であるから母にはなれない、しかし父親になれるのであろうか。

 産まれたばかり、まだ自我がはっきりと芽生えていない段階では問題ないが、将来成長した時に父親として振舞うことが果たしてできるのであろうか。

 考える、悩む。

「大丈夫、多分安全日のはずだから……安心していいから」

 そんな稲穂の様子から察したのか桂がポツリと言う。

 その言葉に少しばかりホッとした、安堵した気分になるがすぐに思い直す。

 言葉にしなくとも不安にすぐに気付いてくれ、自分のことよりも相手を気遣い安心するように言ってくれるこの大好きな人の願いを叶えてあげたい。

 それに稲穂自身も欲しくないわけではない。

 だが、こんな姿で父親になるということについての自信のようなものがもてない。

 こんな姿で良い父親になれるのだろうか。

 不安がまた。

 考え過ぎて頭が混乱しそうになってくる。

 桂の顔が目に入る。

 不安が反転する。

 そもそも、良い父親になる必要があるのだろうか。

 経験したことないことをするのだ、最初から満点のデキなんていうのはまず不可能だ。

 子供の成長と一緒に父親として、いや親として一緒に成長していけばいい。

 きっと色んなことがあるだろうが二人だけじゃない。頼り? になる麻実と実里、それからモゲタンという家族がいる。

 それに普通の家族じゃない。父親になれなかった時には母親が三人四人いる家庭になるだけだ。

 問題が起きても何となく上手く解決できるような気がしてきた。

 そう考えると気が楽になってくる。

 自然と覚悟のようなものが決まる。

「桂」

 正面から愛する人を見ながら。

「はい」

 その真剣な声に反応し桂は居住まいを正し、但し一糸まとわぬ姿で、稲穂と向き合う。

「真剣に子供のこと考えてみようか」

「うん」 




                               完



ご愛読ありがとうございました。

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