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メイク事情


 一夜明け、四人の朝は、といってももう昼近くなのだが、慌ただしかった。

 本日の予定も詰まっている、何よりもチェックアウトの時間が迫っていた。

 そんな中で稲穂は一人、身支度、メイクを手早く済ませる。それをまだ少し眠たい目で見ながら実里が、

「しかし、稲穂は元男だというのにメイクをするのが上手いし早いな」

 という感想をやや嗄れた声で。

「まあ、慣れているというか……」

「うん? 稲穂は男の頃から化粧をする男子だったのか?」

「いや、そういうわけじゃなくて。舞台では自分でメイクをするのが基本だったから」

「そうなのか。私はそういうのは専属の人がするものだと思っていたのだが」

「お金のある映画とかテレビとか大きな舞台なんかはいるけど、弱小の万年金欠の劇団にはそんなはいないからね。だから自分でしているうちにまあ慣れていって」

「なるほどな」

「後はこの姿になってから、桂と麻実さんの特訓を受けたからね。メイク自体は経験あるけど、普段のお化粧とは違うから」

 メイク、化粧、文字にすると同じであるし、顔に施すという行為も同じであるが、その目的は全然違うために、道具も仕方もやや違うことが。

 それで一度、麻実に大笑いされた経験が過去に。

「ああー稲葉くん、もう化粧を終わらせてるー」

 朝風呂を堪能していた桂がバスローブ一枚でスッピンのままで叫ぶ。

「桂も早く支度しろよ」

「準備するけど、そうじゃなくって。今日は稲葉くんには甘めのメイクをしてもらおうと思っていたのに」

「どういうこと?」

 いつも通りのメイクをした、本音を言えば別にすっぴんでも何の問題もないくらいに思っているのだが、なのに何故非難、というか軽く責められてしまうのか、やや理不尽さのようなものを覚えながらも内心に仕舞い込んで質問を。

「今日はね、稲葉くんにはいつもしないような甘めの服を、持ってきた白のマキシスカートにパステルブルーのノースリーブのサマーニットを合わせてもらおうと思っていたの、なのにいつもと同じメイクじゃそのコーデに合わないから」

 そう言いながら桂は持ってきたバッグの中から稲穂に着せる予定の服を引っ張り出す。

「なんか荷物が多いと思ったらそういうことか」

「そういうことだから、今のを落としてきて」

「けどさ、桂……」

「もしかしたら嫌なの?」

「別に嫌じゃないけどさ……。けど……」

 これまで桂、と麻実、の要求に応えるために恥ずかしい格好をしてきた。そこで耐性のようなものが培われていた。この程度の服ならば別段問題なく着れるし、それに桂のセンスにも全幅とまでは流石にいかないが、それでもある程度は置いていた。おかしな、変なことにはならないだろうという信頼があった。

 しかし、即座に稲穂が了解しなかったのは、

「あの靴にそれは合わないだろ」

 昨日まで稲穂は岩国へと出張していて、その帰り道に三人と合流。その時の服装は紺系のオーダーメイドの特注のメンズスーツに、動きやすさを重視して少しだけ女性的な体型を反映させたもの、靴は一見普通のブラウン系の革靴なのだがこれまた改良が、とくにソール部分に施された一品。

 甘めのコーデには合わないことはファッションセンスがあまりない稲穂にも容易に想像できることであった。

「…………」

「それとも服のほかに靴も一緒に持ってきたのか?」

 この稲穂の問いに、桂は静かに、そして悲しそうに首を振る。

 持ってきていない。

 服にばかり気が行き過ぎて、ファッションの、お洒落の基本、足元のことをすっかりと失念していた。

 失望のあまりその場にへたり込む。

「……だったらさ、途中で買おうよ」

 失望から立ち上がり思いついた案を提案。

「難しいんじゃないか」

 稲穂の足は普通の成人女性よりも遥かに大きい。

 店頭でサイズの合う靴を探すのは、それも今回合うような靴、サンダルとかミュールのようなもの、ちょっとしたどころか大した手間であった。

「え、でもさ、名古屋なら、栄とか大須だったら探せば見つかると思うの」

 栄は繁華街で、大須は隣にある地域でサブカル、オタクカルチャー、そして古着などのファッションの街。

「けどそれだと、今日の予定が大幅に狂うだろ」

 本日の予定は山登り、比喩、であった。そこで変わり種のパスタに挑戦することに。これは特に麻実が楽しみにしているもの。

「うーん」

「東京に戻ったら、その服着てやるから。今日の所は諦めろ」

 妥協案を提示。

「絶対だよ、約束だよ」

 念を押すように強く言う。

「うん、了解」

「ほんとにだよ」

 さらに桂は念を押す。

「ああ、じゃあその時は桂がメイクをしてくれよな。俺じゃいつも通りになってしまって桂の選んだ服には合わないと思うから」

 メイクするのには慣れたけど、かわいい風のには若干の抵抗のようなものが。

「あっ、だったらさメイクの練習をもっとしてみるのはどう?」

「それは遠慮しておくよ」

 断りの言葉だけで理由は語らなかったが、それを桂も追及するようなこともなかった。

 心情をくみ取ったという理由もあるにはあるのだが、それよりも、

「シロ、早く出発するわよー」

 という昨夜騒ぎすぎてちょっと酷い声になっている麻実の出発を催促する声が聞こえたからであった。

「えっ、私まだ着替えのメイクもセット全然してないのに」

 桂はまだスッピンでバスローブの下は裸。

「とりあえず服だけは着ろよ。セットとメイクは車の中でもできるだろ」

 四人で移動するのには大きめの車を借りてあった。車内でメイクと簡単なセット位ならば可能。

「うん、分かった」

「桂ー、まだー」

 又も催促の声が。

「急げ桂。これ以上麻実さんの喉に負担はかけられない」

「……うん」

 返事をすると桂はさっとバスローブを脱ぎ捨て、大慌てで着替えを開始した。



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