アクション
車外へと出た稲穂はまずトラックを運転していた男のほうへと静かに歩み出した。
ドアをこじ開けようとしていた、実里曰く不気味な男ではなく、自身の位置よりも遠い場所にいる男へとどうして近付いていくのかというと、それはSの安全を確保するためであった。稲穂の命令を遵守し、時間を稼いだ、その結果現在エアバックと格闘中、そこにその男は襲い掛かろうとしていた。責務を全うしたその上で無傷であったのに、これはモゲタンのサーチによって確認済み、ここで負傷させてしまうのは忍びない、ということでまずはこの男の動きを止めるという選択を稲穂とモゲタンは。
クラウンの運手席へと、つまりSへと向かおうとしていた男は稲穂の接近に気付き、ターゲットを変更、稲穂に狙いを定め走ってくる。
互いにその存在を認識し狙いを定める。
まずは男が先手を、走っている速度を保ちつつ、右手を大きく挙げその拳を稲穂目がけて振り下ろそうとした。
何の訓練も受けていないような人間ならば、暴力の勢いのようなものに飲まれてその拳を体の一部に喰らい行動不能に陥ってしまうような事態もあるだろうが、稲穂は訓練をしている上にさらには常人離れした能力の持ち主。
素人よりはましだが、それでも無駄の多いその拳を簡単に避ける、躱しながら背後へと回り込み首筋に軽い手刀を。
膝が崩れ落ち、男はアスファルト舗装の道路とキス。
フィクションでよくあるような手刀を首筋に叩きこみ、相手を気絶させる。傍から見ればそう映るだろうが、実際には全然違うことを稲穂はしていた。手刀は男の身体に触れるための手段であって、別に人差し指一本でもよかったし、首根っこを掴むのでもよかった、肝心なのは先にも書いたが触ること、直接男の肌に、できれば脳に近い部分に自身の身体の一部を接触させることであった。これによってナノマシンを体内へと、血管へと潜り込ませ、血中の酸素を一時的に低下させて失神させてしまう。これを行っていたのだった。
倒れた男の向こうから例の不気味な男が襲い掛かってきた。
稲穂が蹴飛ばしたドアと一緒に吹き飛んで行った男が。
速かった。
パチンコの筐体を片手で軽々と投げつけることができるような力だけではなく、その動きも俊敏そのものであった。
瞬く間に稲穂との距離を詰める。
稲穂もまたこの動きを避けるような行動を採らず、真正面から受けて立つような姿勢を。
勝負は、あっと言う間もなく決着を。
立っているのは稲穂一人だけ、男は左胸とわき腹の間を両手で押さえながら悶絶し、そのまま両ひざから崩れ落ちた。
交差するわずかの間に、稲穂は男の攻撃を避け、それから左の肋骨を膝蹴りで砕いた。
フィクションではよく「あばらが折れたか」という言葉を吐きながらもなお戦闘を継続するというシーンがよく見受けられるが、実際に肋骨が折れると強い痛みを発し息をするのも苦しくなる。それに加えて稲穂は的確に相手の肋骨を砕いた。折れた骨が内臓、肺に突き刺さるようにコントロールを。
勝負が一瞬でケリがついたのは、これまでに重ねてきた経験の差であった。
かつてこの世界にはデーモンと呼ばれる人を遥かに凌駕した力を有する者達がいた。彼らはデータと呼称される存在を狩っていた。稲穂は、その中でも最古参であった。それに対し、あの不気味な男はデーモン同士が戦い、月を目指した以降に力に目覚めた者。積み重ねてきた実績、経験が雲泥の差であった。それに加えて、稲穂はカーチェイスの間、後部座席でお弁当を食べながらエネルギー補給をしながらも、モゲタンと一緒に男のことを観察していた。一方男は、稲穂の容姿を見て軽くひねることができる相手と油断した。ドアが吹き飛んだのも自分が力加減を間違えただけで中から力があったなんていうことを微塵も考えていなかったし、そしてこれまで自分よりも強い存在と相対したことがなかった。経験の少ないものが経験豊富な者に油断しながら挑む、これでは万の一つも勝ち目があるはずがない。
稲穂が勝つのは実に当然のことであった。
が、現状を認識できない男は悶絶しながらも何が自身の身に起きたのか分からないという表情を浮かべていた。
先の男は失神させた、だがこの男は失神させなかった。意識を失わせなかった。
それはとある理由が稲穂にあったからだった。
それを行うために悶絶している男の身体を無理やり引き起す。
男は稲穂の顔を見、まだ悶絶した、脂汗を浮かべながらも、一言。
この言葉、言語は稲穂に馴染みのないものであった。が、モゲタンという頼もしい存在が。男の放った言葉を通訳。
『残念だったな、俺を倒しても今頃別の奴があの女を追いかけているはずだ』
これが男の言葉を日本語にしたもの。
この言葉、というかモゲタンの通訳したものを脳内で聞き稲穂の表情が変わる。
追跡者を確保したことによって実里の安全は確保されたと完全に思い込んでしまっていた。この後この男に対し尋問のようなことを行う予定だった。だからこっちは失神させなかった。
実里の研究が将来のエネルギー事情に大きな影響をもしかしたら与えるかもしれない可能性があることは十分に理解しているが、それはあくまで可能性であって確実な話ではない。にもかかわらず国家がこんな強引な手段を用いてまで拉致する真意が分からなかった。だからこそケリがついたところでそれを聞き出そうとした。
だが、まだ追跡の手を完全に振り切ったわけではなかった。
実里と同行しているRも優秀な人間であるが、それは対人ということが前提。人外の存在、人の力を遥かに凌駕したような存在に準備も武器もほとんどないような状態では手も足も出ないことは十分に予想できる。
「どういうことだ?」
もしかしたらこれは単なるブラフかもしれない。そんなことを思いながらも、実情としては稲穂はやや動揺しており日本語で訊いてしまう。
また男が何かを言う。
別に稲穂の日本語を理解したわけではないが偶然、その答えのような言葉を。
『俺は何も話さないぞ』
この言葉もモゲタンが通訳。
モゲタンの通訳の言葉が脳内で流れている稲穂の目の前で男が自分で舌を噛みきった。
何も話さないという意思を行動で示す。
このまま放置すれば、情報を聞き出すことが不可能なのはもちろん、最悪死を迎えてしまう。
敵対した男であったが目の前で死なれるのは。
稲穂はとっさに救命を。
口の中に手を強引に突っ込み切れた舌に触れる。ナノマシンを急遽注入して止血を。ついでに傷付けた肺も少し修復しておく。
そして脳内にもナノマシンを送り込む。
そこから情報を全て抜きとる。
本来ならばこんな強引な、敵対する相手であってもプライバシーをまるで無視するような手段を採りたくなかったが背に腹は代えられない、向こうには話すような意思もなし、おまけに時間もない、急いで実里のもとへと行かないと。
抜きとった情報の大半、大部分は稲穂にとって必要のないものであった。この男の半生を知ったところで意味がない。膨大な情報の中からモゲタンは実里の関するもの、それから実里を狙う真の理由、そしてこの男がいる組織についてピックアップし稲穂に伝えた。
次話は説明回、短い話の予定。




