イントロダクション 2
一仕事を終えて、といっても仕事じゃないけど、後部座席にゆったりと腰かけていた実里は思わずつんのめりそうになり、それから大事なものを落としそうになった。
その要因は車の速度が突然変わったことに体がついていかなかったから。
行きの運転は正直ちょっと荒かった。まあ急いでいるということもあるけど、リラックスして安心しながら座ってはいられずに絶えずシートベルトを握りしめ続けていた。
だからこそ稲穂謹製のお弁当を食べずにいた。まあこれはもっとも、家族に説明が上手くできるかどうかという不安に少々苛まれており、食べ物が喉を通らない緊張状態であったというのも理由であるのだが、帰りは運転が交代され、行きとは反転、スムーズな安全な運転に。
そんな状況下で玉子焼きを口へと運ぼうとした瞬間に車は速度を急激に落とし、それからまた加速した。
落としそうになったと先に書いたが、正確には箸から落とした、しかしながら床下にではなく膝の上であったのでセーフと実里はみなし、素早く拾い上げ口の中へと持っていき、口中で堪能した。そして咀嚼して嚥下し、まだ舌の上に残る甘さを味わいつくした後で、口を開き、拙い英語で前にいる二人に、何かあったのかと訊ねた。
この実里の問いに運転しているRが英語で答える。
英語で尋ねたのであるから英語で返ってくるのは道理である。前に座る二人共に日本国籍の人間ではなかった。
実里の英語能力は読むという分野においては、学術論文に目を通すことによってそれなりに身に付き、ほぼ問題ないのだが、話すと聞く、つまり会話となると覚束ないような有様。
そんな実里にRはゆっくりと事情を説明。
これには最初助手席のSが答えようとしたのだが、行きの段階で彼のやや南部訛りの英語が実里には通じないと判断して、運転中のRが答えることに。
所々の単語は聞き覚えがなく、全てを完全に理解することは叶わなかったが、それでも怪しい黒い車が猛スピードで接近してきたから警戒のため、一時速度を落とし先行させ、それから待ち伏せていないかを確認するために速度を上げた。お弁当を食べるのを一時中断し、訊くことに集中した実里はなんとなくだけど把握。
補足の情報であるが、実里が聞き取れなかったこと、彼が黒の国産車に警戒した理由はそれが猛スピードというのはもちろんのこと、それ以外にも理由が。それは件の車のナンバーが一般のものとは異なるもの、外交官ナンバーと呼ばれる特別なものであったからであった。
そんなナンバーの車はリーさんの母国のものではなく、隣接する友好国のものであった。直接的な拉致ではなく友好国を使っての作戦かもしれないという警戒であった。
もっともこの警戒は杞憂であった。第三者の視点で、車内の人間には絶対にわからないことなのだが、この外交官ナンバーの車は私用で使われており、その特権を利用してかなりの速度超過で走行していただけであった。
気を取り直し、実里は再びお弁当を。
そんな後部座席とはやや対照的に前の二人は警戒をしたままで相談を。
その後車は高速を降り一般道、蛇行する山道へと。
ハンドル、ステアリングを握るRは時折ルームミラーに目を配り、後ろの様子、実里のことを観察。これは彼女のことに興味があるとかいう色っぽい理由なんか全くもってなく、お弁当を楽しんでいる実里が再び玉子焼きを落としてしまわないように訊く罵詈をするための観察であった。ほぼ直線で構成されている高速道路ならばそんな気遣いをする必要はないのだが曲がりくねった道。足回りが改良されて快適な乗り心地を実現しているこの車でも油断をすると搭乗者の身体が左右に大きく揺さぶられてしまう、そんな状況ではおいそれと食事もできない、そのために安全にかつ快適な空間になるように絶えずチェックを行いながら走行していた。
そんな横、助手席ではSも昼食を。
しかしながらこれは実里が食べているものとは別物であった。稲穂が作ったお弁当は一人分であった。三人での行動が事前に決定していたのであるから三人分作るべきであり、稲穂は薄情である、もしくは従業員の待遇について冷淡すぎるのではと思われる方もいると思うので補足を。三人分のお弁当を作らなかったのにはちゃんとした理由が。まだまだ寒い季節であるけど人のすることだからどれだけ気を使っても絶対に完璧とはいかない。食品である。万が一の、それこそ宝くじに当たるよりも遥かに確率は低いだろうが食中毒に中るという可能性も。もしそうなった場合、二人の護衛は役立たずになってしまい、そこを襲われでもしたら大変なことになってしまう。だからこそ、三人それぞれ異なる食事をすることに。
懸案も終え、お腹も満たされ、なおかつ背中には柔らかで居心地の良いシート。実里は何時しか睡魔に。
それでも睡魔に抗おうとしている彼女の耳に、無線の音らしきものが聞こえ、英語でのやり取りが耳に入り、それから前に座る仲の悪いはずの男二人がハイタッチをしている姿が。
よく分からないが、多分上手くいっているのだなと思いながら、実里はそのまま眠りにつこうとした矢先、自身の携帯電話の着信の音が車内に鳴り響く。
さっきまであった眠りへの誘いが一気に霧消。
「どうした稲穂?」
心配して電話をかけてきてくれたのであろうと実里は想像し、全部済まして、今帰りの途中であると言葉を繋げようとしたのだが、その前に稲穂の声が、
『気をつけて。今そっちに急速に近付いてくる車がいるから』
危険を報せる電話であった。
現場にいない稲穂がいち早く危機を察したのは、実里の実家に仕掛けてきたナノマシンでかの国の人間があの後すぐ接近してきたことを察知し、その後周辺の監視カメラをモゲタンの能力を使用してハッキングし、追いかけて来ることを確認。その車を追跡し、高速道路を降り、実里たちの乗る車へと急接近。そしておそらくそのことにまだ気付いていない実里に連絡を。
少々話を戻すが、先程のRとSのハイタッチは、追いかけられているという情報を途中で受け、その裏をかくことに成功したと思い込んでの動作であった。
『二人にも伝えて』
稲穂の言葉が携帯電話の向こうで続いた。
この言葉を受けて、実里は少し考え、それから、
「ああ……えっと……カモン……」
車内が一瞬凍りつき、これまで安全安心走行を続けた車体が中央のセンターラインを割り対向車線へと。
前の二人は、この後ろの女は突然何を言い出したのだ、来い、ということは後ろの席に来いということだろうか、しかしそんなことをする必要性が何処にあるのか、それともさっきの電話で何か重要な情報を伝えられただろうか?
二人は目配せを。
これは単純に実里の言い間違いであった。
Come、来るだけで十分であったのだが、自分でもどうしてか分からないがonをつけてしまった。これでは、来て、になってしまう。この場合、敵と仮定するならばenemy、もしくは追跡者chaserとしておけば通じたのである。
なお余談ではあるが、実里がonをつけてしまったのにはとある理由が。それは昔、まだ稲穂たちに出会う前、求められたら股を開いていた頃、洋風のプレイをしたいと懇願されて、向こうの喘ぎ声、「イク」ではなく「カモン」ということを強要されたことがあったからであった。
さて、車内のおかしな空気がやがて撹拌されるのだが、そのきっかけもまた実里の言葉であった。
「前」
フロントガラスの向こうを指さしながら金切り声を。
簡単な日本語程度なら理解できる二人であったが、この時咄嗟に出た実里の短い単語は共によく分からなかった。しかし、ジェスチャ―という動作があったのでなにを言わんとしているのかは双方ともに瞬時に理解した。
センターラインを割ってしまったクラウンの眼前に猛スピードのスポーツカー、ドイツメーカー、が迫ってくる。
Rは急いでハンドルを切る。
タイヤを鳴らしながら黒のクラウンは元の走行ラインへと。
その横を全くスピードを緩めることなくスポーツカーが掠めていく。
仲の悪い二人であるがこの時は全く同じタイミングで安堵の息を。
その後ろで実里は掠めていくスポーツ―カーの行方を追う。すれ違う瞬間、スポーツカーの助手席に見たことのある顔を発見。
実里の目はそのまま後方へと遠ざかっていくスポーツカーを凝視。
タイヤを切るような嫌な音がし、スポーツカーは狭い道にもかかわらずほぼスピードを落とさずに強引なUターンを。
「……うしろ」
実里の掠れた声はまたも日本語であったが、前の二人はちゃんと理解を。
ルームミラー、サイドミラーには、迫ってくるドイツメーカーのスポーツカーが。
ジャンル詐欺にならないように次話はアクションの予定。




