イントロダクション
正式に書面での契約こそ交わしてはいなかったが、口約束、それも一時の気の迷い、であったがそれでも一度は向うに行くと宣言した。それを黙ったままで翻してしまうのは些か社会人として礼を逸してしまうので直接、口で断りを入れることに。
丁度良い具合に近日、契約をするために実里はリーさんと会うことになっていた。
そこで向うに行く意思が変わったことを告げ、それからとある計画を行うことに。
当日、一人でリーさんに会うことに不安がってなかなか出ようとしない実里を、稲穂はハグして勇気を注入し、それから桂が背中を叩いて気合を入れ、ついでに麻実がメイクを少々手直しし、それから稲穂謹製、桂もちょっと手伝いをしたお弁当を手渡されて、送り出した。
面会場所は大学内のカフェ。
リーさんはもうすでに一人お茶を飲みながら待っていた。実里はそんな彼女の姿を見、それから大きく深呼吸をして、ちょっと前の肌の感覚を思い出し、ようやく彼女へと向かって歩み出した。
そんな実里は近付くと席にも座らずに早口に「気持ちが変わった。向こうには行かない。教授の所で研究する意思はない」と震える声で告げて、さっと踵を返してカフェから出た。
この実里の言葉に呆気にとられたのはリーさんであった。正式に契約をし、向うに行く手筈であったのだが、それをいきなりひっくり返されてしまったのだ。
そんな呆然としているリーさんを尻目に、実里は一度も振り向くことなく歩き、カフェを出た後は全力疾走を開始。
運動不足の身体に鞭を打ち向かった先は駐車場であった。
そこに予定通り待機していた車、黒のクラウンの後部座席へと滑り込む。
この黒のクラウンは昨年末のストーカー騒動のおり送迎に用いられたものであるが、あの時とは違い今回ハンドルを握るのは稲穂ではなかった。今回稲穂が運転しなかったのは、大学の授業を優先したためであるが、これは別に実里のことを蔑ろにしているからではなく、リーさんに自分たちの存在を気取られないため、気付かれたとしてもそれを遅らせるための選択であった。
では、稲穂の代わりに誰が運転をするのか? それは稲穂の会社の警備部の若い黒スーツ姿の男二人であった。
運転席と助手席、それぞれに座り待機しており、実里が後部座席に座るのを確認すると、シートベルトを締める前に車を急発進させた。
車は朝来た道とは異なる道路を走行し、高速道路へと入った。
これは桂達の待つ部屋に戻るのではなく別の場所へと行くため。そこは実里の実家であった。
今回の経緯、といってもまだ最中なのだが、を実家へと、両親兄弟親戚縁者に報告するため。しかしながらまだ途中であるのだから全てことが済んでから報告でも別段問題ないはず、仮に今必要だとしても電話で十分と実里自身はそう考えていたのだが、稲穂の強い説得により赴くことに。
稲穂が説得したのにはとある理由が。それは実里自身はもちろん家族の安全のため。直接的な攻撃を行ってくるのではなく、ターゲットになる人物の家族や、親しい人間と仲良くなり、いつの間にか内へと潜り込み、篭絡、場合によって人質にしておどしをかけてくることも。大坂城ではないがいつの間にか外堀が完全に埋め立てられてしまい、気付いた時には二進も三進も行かないような状況に追い込まれてしまう、そうならないよう警戒する必要があった。周囲の人間を、親しい家族を半ば人質のようにするのがかの国の常とう手段。
といっても、実里がとくに何か特別なことをするというわけではない。かの国に渡るつもりであったけどそれを取りやめた経緯をなんとか家族に説明し、それからもしかしたらかの国の人間が近付いてくるかもしれないということを説明する。
後は稲穂の指示で実家の物をできるだけ接触、とくにインターフォンや電話、パソコンなんかを重点的に触るくらい。
これは稲穂の両耳のピアス、モゲタンをコピーしたナノマシンをそれらに付着させるため。
怪しい人間が接近して近付いてこないかという監視のために常時人を置いていたのではコストがかなりかかってしまう。しかしながらモゲタンのコピーならばそこにかかるコストは限りなくゼロであるうえに、コピーで性能が本来のモゲタンよりもかなり劣るがそれでも人類社会の監視システムよりも遥かに高性能。
そのために出がけに稲穂はハグを。実里に密着したのであった。
さて少し話は変わるが、コストを気にするのであれば実里の付き添い、警護は一人で十分であるはず、運転する人間が一人いればいいだけなのだが、今回二人同行。
これにもまた意味があった。
この二人、仮のコードネームでRとSとしておこう。両者の実力は伯仲しており、ある分野ではRが、別の分野ではSが秀でており、総合的に判断した場合甲乙つけがたいくらいの力であった。それだけならば両者切磋琢磨して力と技を磨き今後の成長への糧としてくれれば会社としても万々歳であるのだが、この二人すこぶる仲が悪かった。どれくらい酷いかというと、険悪、犬と猿、という言葉がピッタリとあてはまるくらいに。
ならば、両者を引き離して仕事をさせればいいと単純に考えてしまうのだが、不思議なことにこの二人は訓練で組むと仲が悪いのにもかかわらず、もしかしたら嫌いすぎるがゆえに相手のことがよく分かるからなのかもしれないが、息の合った、絶妙なコンビプレイを見せていた、傍目には最高のバディのように映っていた。
この二人を上手く活用したい。訓練では上手くいくのだから本番でも組ませて行動させたいと考えてしまうが、如何せん嗜好の問題、失敗しても取り返しのつく訓練であるのならばいくらでもやり直しがきくのだが、一つのミスが命取りに、最悪二人の未来が消えてしまう可能性もある実戦では。
そこで簡単な仕事で組ませることに。
かの国から実里が狙われる可能性もあるが、それはかなり低い確率であると予想していた。実里の研究は凄いが、白昼堂々彼女を攫うような行動を採ることはさすがにないであろうと判断した。
しかしながら世の中、楽観的な思考が裏目に出てしまうことはよくあること。
かなり安全な任務と思われていたのに、ルームミラーと後方監視のカメラに急速に、猛スピードで接近してくる車体が。




