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決断と、


 稲穂の言葉に実里はすぐには答えなかった。

 稲穂はもちろん桂も、実里の返答を急かすようなことはしなかった。

 桂はまだカップに残っている砂糖ミルクアリアリのコーヒーを飲み、稲穂もまだ残っているナポリタンを。

 静かな空間であった。三人の間には音はほぼなく、聞こえるのは店内BGMで流れる財津和夫の歌声だけであった。

 ナポリタン大盛りの最後の一口を稲穂が口の中へと入れるべく、フォークで巻いている時、実里の声が、

「……本当に守ってくるのか?」

 この問いに稲穂は、

「もちろん」

 と。その横で桂もそれは当然といったような具合に力強く肯く。

「……迷惑にならないか?」

 また実里が訊く。

 今度の問いには稲穂ではなく桂が答えた。

 といっても、すぐに返答したわけではなく、一拍空けて、俯いていた顔を上げ、

「迷惑ならもうとっくにかけているってさっき話したでしょ」

「本当にいいのか? みんなと一緒に居てもいいのか?」

「オフコース」

 稲穂が答える。

 その稲穂の言葉を聞いた実里の表情はここに来るまで、それから入店してからの硬く暗いものから一変、柔和な明るいものに。

 そして稲穂の横に座る桂はさっきまで上げていた視線をテーブルの上の空になったカップに、さらに下の自分の膝へと落とし、突然肩を震わせた。

「桂さん?」

「もしかして泣いているのか桂?」

 稲穂と実里が同時に。

「ち……違うの……いな……稲穂ちゃんがいきなり変なこと言うから。シリアスというか、真面目なところだから笑ったらいけないと我慢していたんだけど……堪えきれなくなっちゃって……」

 ここまで語ってから桂はテーブルの上に顔を突っ伏して我慢を解除。

 泣いているのではなく笑いを堪えていたのであった。

 しかしながら桂以外の二人には彼女が何がそんなにおかしかったのかという理由がさっぱり分からずに、

「変なことって。……ぼ……私、何かおかしなこと言った?」

「いや、稲穂は別におかしな発言なんかしていないと思うがな」

 顔を見合わせながら言う。

「……だって……オフコースなんて言うから」

 桂の笑いのツボが理解できずに、

「オフコースって変な言い方かな?」

「いや、変ではないはずだぞ。少なくとも私は稲穂の言っていることは理解できた。私の願望に、もちろん、と答えてくれたんだよな」

「うん」

「それの何処が変なんだ?」

「だって、普段そんな言い方しないのに突然言ったのはこの流れている曲に合わせてよね」

 ようやく笑いの治まった桂が説明を。

「財津和夫の曲のこと?」

「そう。でもさ、財津和夫はチューリップでオフコースは小田和正なのに。実里を安心させようと面白い、ギャグを言ったかもしれないけど、……いな……ば……稲穂ちゃんには悪いけど間違っているから、それがちょっと、いえかなりおかしくて。でも、笑ったりなんかしたら悪いかなと思って我慢したんだけど……我慢しきれなくなって……」

 そう言いながら桂はまた笑い始める。

 財津和夫と小田和正は同年代のミュージシャンである。互いにグループのボーカルであり、解散後はソロとして大活躍をしている二人。

 これだけの説明だと間違っても仕方がないように思われるが、

「いやいやそんなこと微塵も考えてないから。安心させたい気持ちはあるけど、そんなこと思っていないから。お……音楽にそんなに詳しくない私だって流石にそれくらいは分かるから。これがチューリップの曲ってことくらいは知っているからさ」

 世代ではないが財津和夫の所属していたグループの曲は知っていた。それにダブルミリオンを出した小田和正の歌声も昔はよく耳にしていた。

「私だって知っているくらいだ。年齢は違うが稲穂がそんな間違いをするとは思えないが」

 中身は兎も角、見た目では十近く違う。

「……えっ……じゃあ、もしかして私の勘違い?」

「うん」

「ええええええええええええええ」

 桂は再び、テーブルに突っ伏す、ちょっと迷惑な大きな声を上げながら。今度は笑いではなく勘違いを指摘され、赤面した顔を見られないようにするために。

 そんな桂の様子も見て、稲穂と実里、二人は笑う。

 そんな二人の笑いにつられるように桂も破顔。

 ひとしきり笑いあった後で、

「やっぱり桂や稲穂といると楽しいな。こんなに笑ったのは久し振りだ」

「それは良かった」

「私の失敗で笑ってもらえるのならお安い御用よ」

 伏せていた顔を上げて、赤面している顔を冷やすように手で扇ぎながら桂は言う。

「……もう一度聞くけど、本当にいいのか?」

「いいよ」

「迷惑をかけるかもしれないんだぞ」

「だから、そんなの大丈夫だから」

 ちょっと芝居がかった仕草で桂は言う。

「……それと……稲穂は私を守ってくれるのか?」

「うん」

「それはもうプロポーズと思っても構わないよな、桂から私に乗り換えるということでいいんだよな」

「そんなこと稲穂ちゃんは一言も言っていないでしょ。調子に乗らないの。稲穂ちゃんはこの先もずっと私のものなんだから」

「駄目か。今の流れならいけると思ったんだが」

「実里さんには申し訳ないけど、桂さんと離れるつもりはないから」

「そうか」

「それでどうするの? やっぱり向うに行くことにするの?」

 この問いに実里はしばし沈黙し、それから、

「行かない。向うに行くよりもこっちのほうがずっと楽しくて幸せだからな」

 これに桂と稲穂の二人は、

「「うん」」

 と、息の合ったような返事をし、それに実里が、

「それじゃ稲穂、また私を守ってくれな」

「了解」

「それと桂、私の次の就職先、研究する場所を早く見つけてくれな」

「オフコース」

 桂がそう答えた瞬間二人が吹き出し、それにつられるように桂もやや遅れて笑い出した。

 

 三人の笑い声が止まったのは、実里の大きなお腹の音が響いた後であった。

「笑ったのも久し振りだが、こんな風にお腹がへったのも実に久し振りだ。実はな、稲穂が食べていたナポリタンが気になっていてな」

「ああ、それ私も」

「ええっ」

 二人の邪魔にならないように気を使って、静かに一人黙々と食べていたつもりであったのだが。全然意味がなかった。

 その事実を突きつけられた稲穂は、

「ゴメン」

 と、素直に謝罪の言葉を。

「別に謝らなくても。ただ、美味しそうだなって思っただけで」

「ああ、そうだぞ稲穂」

「ゴメン」

 謝らなくてもいいと言われるがついまた謝罪の言葉を。

「食べようかな」

「私も……と言いたいところだが持ち合わせがなくてな」

 ベランダからの脱出を試みたところを桂達に見つかった。その時財布は持たずに小銭がポケットに少々。といっても、財布の中身も少ないのだが。

「大丈夫、御馳走するから。未来の先行投資と思えばこれ位安いものだから。だからしっかり研究して成果を出してね」

「なんだか高そうなナポリタンになりそうだな」

「実里はナポリタンでいいの?」

「いや、待った。他のも見てから決める。稲穂、メニューを見せてくれ」

 二人の会話をよそにメニュー表を覗いていた稲穂に実里は言う。

「はい。それで私はミックスフライ定食ね」

「……稲穂……まだ食べるのか?」

 よく食べる子だとは知っているがついさっきナポリタンの大盛りを完食し、今度は定食を注文しようとする稲穂に実里はちょっと唖然。

 これにはもちろん理由が。ナポリタン大盛りだけでは体内の枯渇したエネルギーを補給するのにはまだまだ足りない。

 しかしそれを正直に実里に告げるわけにもいかずに、どう返そうかと思案する稲穂の横で桂が、

「稲穂ちゃんはまだまだ成長期だから。とくにこの辺りはもっと成長、大きくなってもらわないと。可愛いのもそれはそれでいいけど、ふくよかな方が揉んでいて楽しいし、抱き合った時に気持ち良いから。私のマッサージだけじゃまだ効果ないから、たくさん食べて脂肪をつけないと」

 セクハラ染みたことを言いながら桂は、稲穂のちょこんとした慎ましい可愛い胸を触る。

「ズルいぞ、私も触りたい」

「これはパートナーの特権……というわけでもないか。麻実ちゃんも触っているし、知恵ちゃんも文ちゃんも、それから靖子ちゃんもタッチしてたわね」

「だったら、私もいいか?」

「……いいですけど」

「それじゃ」

 そう言いながら手がテーブルの上を渡る。そんな実里に稲穂は、

「後にしませんか。まずは、注文を決めましょう」

 これはやや興奮した実里が怖くなったからやんわりと拒否したというわけではない。かつて男だった身、オッパイに対する情熱のようなものは十二分に理解している。が、ここは一応公共の場、セクハラ行為の容認は。

 そしてそれ以上にお腹が空いていたから。


 メニュー表とにらめっこをし、其れから外の食品サンプルを見て、ようやく決まった注文は、桂は初志貫徹のナポリタンではなくミートソーススパゲティ、実里は悩んで迷走した結果カレーピラフと焼きそばのセット。

 そして三人で喫茶店の味を堪能しつつ、真面目に今後についての打ち合わせを入念に行った。


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