嘘と、
実里からの電話を受けた桂はスマホを握りながらしばし脳がフリーズしてしまった。
それくらい驚愕の報告であったから。
つい先日、自身の将来について、といってもそう先の未来の事ではないのだが、話をしたばかりなのに、その時の決断をあっさりと翻してしまった。
あの時に語ったことは一体何だったのか?
スマホの向こうでは実里の言葉が続いていた。
それは急に心変わりをしたことの説明。しかもいつよりも早口で。
しかし、フリーズ状態からようやく再始動した桂には、このいつもよりも早口の説明が言い訳、弁明のように聞こえた。
やはりあの研究に未練があり、大学の施設よりも良い研究施設であり、資金も今よりも遥かに潤沢であり、給料も倍額以上になるし、さらに稲穂似のショートカット美人の助手までつけてもらえる。
好条件である。
実里の選択には理解はできる。が、桂の中で、それは自分でも明確には分からないが、そんな説明では納得できなかった。
何か引っかかるような感覚が。
「今から稲穂ちゃんとそっちに行くから。電話じゃよく分からないから、直接会って話を聞かせてもらうから」
そう言いながら電話を切り、それから稲穂に連絡をとった。
連絡を受けた稲穂は、実里の突然の心変わりに、まあこれまでずっとそればかりをしていた研究であったのだから他者に任せるのではなく自身で行いたいという気持ちは理解できるが、桂同様にそれだけの説明ではちょっと納得しがたいのもまた事実であり、それはさておき国内での研究が継続できそうな芽があるのに急に前言を撤回して向こうに行くという選択をする必要はないのではと思いつつ、しかしながら彼女も大人である、大人が悩み考えて自分で決めた決断に友人であるとはいえ他者がどうこう口を挟むのも余計なおせっかいではないか、それにこれで今生の別れというわけでもないし、国外といっても国交が遮断されているような国ではないのだから気軽にではないけど、それでも会いに行こうと思えば会いに行けるはずだから、とは思いつつも、けどやはり親しくなった人間との別離は寂しいものであり、もっと詳しく、そして納得できるような言葉を実里本人から、真意を直接聞きたいと考え、
「了解。それじゃ、学校終わりに何処かで合流して実里さんの家に向かうか?」
『それじゃ駄目なの稲葉くん。時間を空けたら実里はその間に居なくなってしまいそうな気がする』
という言葉が。
その言葉に、そんなに深刻なことにはならないだろうと思いつつも、それでもこれまでの人生で女性の勘というものはあながち馬鹿にできないことを身をもって知っており、まあ稲穂も容姿だけならば女性なのだが、そして桂を安心させることも含めて、
「それじゃ超特急で桂の所に行く。それから二人で実里さんに会いに行こう」
と、告げ。それから人目のつかない、かつ防犯カメラの目の届かない位置へと移動して空間を跳躍した。
桂と合流した稲穂は、再び空間を跳躍して実里の家を目指した。
二人での移動である。普通ならば各種交通機関の使用、またはタクシーの乗車、そもそもそんなことをしなくとも会社の社用車があるので、そのどれかを利用して行けばいいはずなのであるが、それをしなかったのは偏に桂の、
「急ぐから。私を抱いて跳んで」
という言葉があったからだった。
そこまで急ぐ必要はないだろうと稲穂は思いつつも、まあ電話でも急かすような要求があって、それでここまで空間を跳躍して移動してきたわけだし、それになるだけ早く実里の真意を知りたいという気持ちには同意でき、
「了解」
と、稲穂はこたえ、それから桂の身体をしっかりと抱き寄せて密着し空間を跳んだ。
桂の判断は正しかった。
今まさに、家から出ようとしている実里の後ろ姿を発見。
しかもドアからではなく、ベランダからの脱出を図ろうとしていた現場に遭遇。
かくして三人の話し合いが近くの喫茶店で。
珍しく稲穂が提案したものであった。
これはここまでの移動でカロリーを大幅に消費してしまったための補充を兼ねて、というのも実里の部屋には食料がほとんどないから、それとモゲタンからのアドバイスで、実里の部屋が盗み聞きされている可能性が非常に濃厚であるという助言を脳内で受けてのものであった。
「何で逃げようとしていたのよ?」
注文を終えた後、その品が届き、それから少し遅れて稲穂の頼んだものがテーブルの上に並び、その間ずっとあった沈黙を破るように桂がポツリと言う。
「……別にそんなつもりはないぞ。偶々用事があっただけだ」
実里は早口で言い訳を。
「けど、靴持ってベランダから飛び降りようとしていたじゃない」
「そんな気分だったんだ。人間誰でも飛びたいような気分になる時もあるだろ。それよりも、電話で言っただろ。別に来なくていいって。来る必要なんかないって」
「その後、私も言ったよね。直接話を聞きたい、稲穂ちゃんと一緒にそっちに行くって」
「別に直接会っても話すことなんかないぞ。電話で説明した通りだ」
「それをちゃんと、面と向かって聞きたいのよ」
「……だから気が変わったんだ、向こうで研究するって。待遇もすごく良いし、教授も私の能力と研究をやっと評価してくれているみたいだし、それに稲穂そっくりの秘書も付けてくれるという話だしな、私にとってはこの上ない条件だ、好きなことができる上に稲穂に美女とずっと一緒にいられるんだ」
自身の心変わりの理由を依然早口のままで実里は言う。
その説明を黙ったままで聞いていた桂は、実里が言い終わったのを待って、それから少し間を空けて、
「実里がそれで良いならいいけど。でも、それでいいの?」
「……」
「いいの?」
言葉を返さない実里に再度、短く訊く。
「いいんだ。ずっとしてきた研究をまたすることができるんだ。あの研究は私の人生だから」
「でも、日本でもまたできる可能性もあるのよ」
「いいんだ。あっちの方がいい環境だし、それに資金も豊富だ」
「まあ、うちが出せるのよりも凄いお金とは思うけど。でも、向こうでの研究って今みたいに自由にできない可能性もあるわよね」
「ああ、それでもいいんだ。もう決めたんだ。稲穂そっくりの人もいるし」
後半部分を強く実里は言う。
「稲穂ちゃんそっくりでも、その人は稲穂ちゃんじゃないでしょ」
そんな実里とは対照的に冷静な口調で桂は。
「そんなことは分かっている」
やや興奮気味に。実里の声が大きくなる。
「稲穂ちゃんと一緒に居れなくてもいいの?」
「……そんなこと言っても稲穂は桂のものだろ」
「まあ、将来を共にするパートナーだけど。けど、そんなじゃなくてもずっと傍に居たいってこないだ言ってたでしょ」
「……だから気が変わったんだ」
対面に座る桂と稲穂から目を逸らしながら実里は言う。
「絶対嘘よね、それ」
桂は小さくポツリと言う。
「そんなことないぞ、本当に気が変わったんだ」
「本当に?」
また小さく訊く。
「……本当だ。向こうの研究施設は凄いし、それに稲穂そっくりの秘書も可愛い」
実里の声は桂とは対照的に大きく、そして早口であった。
「いいの、本当にそれで?」
長い沈黙が続いた。
そしてその後で実里は、
「……ああ、分かっている。そっくりでも稲穂じゃないことは。でも、私が向こうに行かないと桂達に迷惑をかけてしまう」
「迷惑ならとっくの昔にもうかけているじゃない。さっきまで、アンタの事で走り回っていたんだから」
電話を受けたのは、実里の移籍先の候補の研究室の人間との面談の後であった。
「……そうじゃないんだ。……本当に迷惑を……桂達に危害が及ぶかもしれないんだ……」




