原因の究明
嘘科学と嘘化学です。
稲穂が桂から連絡を受けたのは講義と講義の合間であった。あれからすぐにでも桂は稲穂に連絡することも可能ではあったのだが、事は一応重大ではあったものの、それほど緊急性を要するわけでもなく、授業中の連絡はあまりよろしくないと考慮したからであった。
桂から連絡を受けた稲穂は非常に驚いた。
驚いたと同時に、頭の中で冷静に計算を。これは来期の大学への資金提供を取りやめようかというものではなく、今から受ける講義の出席日数について。サボりすぎてしまうと単位が取れなくなってしまう。自身の計算でも、それから両耳のピアス、モゲタンの計算でも、大丈夫問題なしという判断を。
というわけで稲穂は次の講義をサボり会社へと向かうことに。
と、その前に一つ。
それは同じ講義を受ける顔馴染みに代返を頼むこと。
もしかしたら、出席扱いになるかもしれないという淡い期待のようなものを込めて。
しかしながらこの目論見は期待外れに終わってしまった。というのも、仕事の忙しさで毎日出席をすることは叶わないが、それでも出られるときは真面目に講義を受けていた稲穂。それこそ最前列の席を陣取るくらいに。そんな学生が、姿は見えないのに、出席カードは出ている。すぐに代返だとバレてしまう。
この講義を担当する準教授は、稲穂の事情、つまり起業していることを知っていたので急な仕事が入ったのだなと事情を汲み取ってはくれたものの、教育者としてでもこれは見過ごすことはできないなと心を鬼にして、欠席にしたのであった。
まあ、余談はこの辺にして、稲穂は愛車のビアンキチタンで都内を疾走。
桂にそんなに急がなくてもいいと言われたにもかかわらず、55T‐11Tのギアをケイデンス100以上で回し続け、アワーレコードもかくやという平均時速60キロ近くで大学から会社までのタイムを大幅に更新したのであった。
しかも、サイクルウェアではなく空気抵抗の大きいカジュアルな服装で。
その結果、冬だというのに汗だくに。
人類をはるか超える運動能力を有する稲穂であったが、その身体は機械ではない有機体であった。激しい運動を行うことによって当然体内に熱がこもる。その熱を放射し、体温を調整するために汗は絶対に不可欠なものであった、汗をかいて体を冷やさないと身体に異常をきたしてしまう。そんな稲穂をサポートするのがモゲタンであった。汗を意図的に排出し、熱がこもってオーバーヒートしないようにコントロール。
これで身体に異常をきたすことはないのだが、モゲタンがカバーできる範囲は稲穂の肉体だけ。着ているものにまではその範囲は及ばない。ということは、当然着用している服は汗まみれに。いつもの稲穂ならばロードバイクは、普通の服で走る時はなるべく汗をかかないようなペースで、飛ばすときにはサイクルウェアを身に纏っての走行。サイクルウェアは空気抵抗の激減だけではなく、汗を吸いやすい素材でなおかつ発散性も高い。だが、慌てていたがゆえにサイクルジャージに着替えることなく飛び出してしまったのだった。
事務所に到着したそんな稲穂の姿にスタッフを皆騒然とした。
経営陣の一人が、汗まみれで会社に姿を現した、しかも予定外のこと、のだから会社に何か重大なトラブルが発生したのではと考えてしまい、その結果騒然となってしまうのも無理もない話である。
そんなちょっとしたトラブルを治めたのは桂であった。
ちょっと心配がちに実里が来るのを待っていた桂であったが、階下が少し騒がしい、実里が到着するまではまだ時間がかかるはずなのに何だろうと思いながら降りたところ、汗まみれの稲穂と騒然としているスタッフの姿を目にし、簡潔に事情を説明し、それから稲穂をシャワー室へと追いやって事態を治めたであった。
程なくして実里が到着。
会議室で三人の懇談。
一人は会社、会議室という空間に似つかわしいバッチリメイクにスーツ姿。一人は、白衣にジーンズ。そしてもう一人は、今から重大な話し合いを行うというのに、それをするには全くそぐわない姿、サイクルジャージを上下に纏った稲穂。
稲穂がこんな格好になっているのは、前述しているように汗だくになって着ていた服を濡らしてしまい、ついでに下着も、そんな恰好で実里の前に出るわけには流石にいかず、さりとてここは会社で自宅ではないのだから替えの服など当然あるわけもなく、しかしながら裸で会議に参加するわけにはいかず、予備の整備用のツナギか、大学の行きに着ていたサイクルウェアしかなく、この二択の選択で稲穂は下着を着用しなくても問題ないサイクルジャージ、サイクルパンツを選択したのであった。
さて三人三様の格好はしていても、実里のことについて。
もしかしたら一生がかかっているといっても大袈裟ではないのだが、三人の話し合いは緊迫を帯びた、重いものであったかというとそうではなく、案外まったりと、それほど深刻さを感じないようなものであった。
お茶を飲み、羊羹を食べながら進行。
というのも、急な、思いもかけないような展開であったのだが、ここに三人が集結するまでには少々時間がかかり、その間に桂は、もしこのまま実里が大学で今の研究を継続できないのであればコネをフル活用して他の大学や一般企業の研究室に移籍させる、もしくは海外の研究室に留学させるというのも有りかもという手立てを思い付き、当事者である実里は宣告を受けた段階ではパニックに陥ってまともに思考できなかった脳が、桂に電話したことを皮切りに徐々に正常に戻りつつあり、それでもなお迎えの車の中ではまだちょっと放心に近いような心理状況ではあったのだが見知った顔、つまり稲穂と桂の顔を見てなんだか安心し、ショックからなんとか立ち直ったからであった。そして稲穂は、そんな二人を見てまあ何とかなりそうだと思ったからであった。
とはいえ、このまままったりお茶と羊羹を楽しんでいても。
桂が淹れてくれた二杯目の熱いお茶を飲みながら今後についての話し合い、の前に、なぜこんな事態に、というか研究を急に中止させられてしまったかについての究明を。
これをクリアにしておかないと。謎の連中の言う通りに、本当に実里の研究が危険な、人類に害悪を及ぼすようなものであれば、環境を変えたところで一緒である。
「……うーん、危険性は全くない、完全に安全であるとは現段階ではとても言えないのは情けないけど事実だ」
「そうなの。まあ、お弁当箱だから身体に悪いのはちょっとね」
「けど、別に電話でも話したけど禁止されているようなものを使用しているわけではないぞ。世の中には、私が使用しているものよりも危険なものを使っている実験、実用化しているものなんてそれこそ山のようにある」
「そうだね。ロケット燃料のヒドラジンとか、放射性物質とか」
「だろ。なのに、どうして私の研究を今すぐ、即刻中止しろというんだ」
「やっぱり口に入れるものを入れるお弁当箱だからじゃない」
「うーん……しかしな桂、危険といっても私が研究中のものと食品が直接触れるわけではない。知っているとは思うが私の研究中のものは粘り気のある液体、塗料のようなものだ。それをお弁当箱全体に塗布して、それが外に漏れ出ないように気密性の高い物質で作られた内と外で覆ってしまう、完全密閉するというのが当初の計画だった」
「うん? だった?」
「ああ、これは稲穂から指摘されて気付いたのだが、気密性の高い物質で覆うとなると、コストもかかるし、弁当箱自体もかなり重たくなるのでは、と。これは実に正しい指摘だった、流石は稲穂だ。重たく高いお弁当箱で、保温が長く効くのならばもうすでにある。私が作りたいのは安い弁当箱だ」
「まあ、高いのはね」
「それで年明けから、安くて、危険で高価のものを使用しなくても、保温が、なるべく温かさが保てるようなものを作ろうと触媒のアプローチを変えてみた。それと正直に言うけど、昨年までに作ったのは成功率が極めて低くてな」
「低いと問題あるの?」
「化学というのは、その手順通りに作れば同じものが作れなければいけない」
「そういうものなの?」
「そういうものだ。それとな、これも失敗の範疇になるかどうか分からないが。いや、目的からしたら失敗になるな……」
「失敗?」
「ああ、冷たいものならばその温度を保てるのだが、温かくなればなるほど保つのが難しくなってしまうんだ」
「……どういうこと? 密閉しているのなら中の温度は一定に保たれるんじゃないの?」
「うーん……どう説明したらいいのか? 塗布したものは温度が低ければ低いほど圧縮されて熱を逃がさないようになる。しかし、温かいものになると膨脹してしまいそれによって熱が逃げてしまうんだ」
「……うん?」
「ああ、それはね……」
「えっ、稲穂ちゃん解るの?」
「うん、まあ。専門的なことは流石に解らないけど、こないだ実里さんから説明してもらったから」
「流石、稲穂だ」
「それで、どういうことなのよ?」
「それじゃ、桂立って」
「えっ、立つの?」
「うん、それで寒さをイメージして身を屈めてみて」
「えっと……こう?」
言われたとおりに桂は身を屈める、といよりも縮める。その横で稲穂も密着しながら同じような恰好をして手を繋ぐ。
「これが熱を逃さないための分子構造で、つないでいる手は結合部なんだけど、温かくなってきたらそれが膨脹してしまう。今度は暖かくなってことを想像しながら大きく手を横に広げてみて」
「こう?」
「そう。ほら、ここに大きな隙間ができただろ。この隙間から熱が放出されて温度を保てないんだって」
この説明に桂は、膨脹するのだから隙間はかえってなくなるのではと思いながらも、たしかに自分と愛する人の間に空間ができてしまったのは事実であり、自分の理解が及ばないだけでこういうものなのだろうと認識しながら、それよりも大事なことは、
「うーん、なんとなく解ったような解らないような気もするけど、それよりもさっきまでの説明でどうしてこれで研究を中止しろって言われるの。危険なものは使わないようにするわけだし、まだまだ改良する予定なのよね」
「ああ、そうだ」
「中止にする理由なんか全然ないよね」
「うん、ないな」
桂が言い、それに稲穂も追随。
「なのに、どうして?」
「うーん」
「他に何か言われた?」
この桂の問いにしばし実里は考え、やがて、
「……あっ、思い出した。……戦争の道具を作るための研究は断じて許可しないって強い口調で言われた」
「「せんそうー?」」




