桂 3
「桂ちゃーん、ひさしぶりー」
授業を終えて職員室へと戻る桂に声をかけたのは一人の女生徒だった。彼女が一年生の時に現国の教科を受け持っていた。
「あら、本当にご無沙汰してたわね。元気にしてる? テストどうだった?」
「元気は取り柄みたいなもんだから問題ないけど。……テストはちょっと」
この様子では芳しくなかったらしい。
「わたしのことはどうでもいいの。それより、すごく元気になったね。あの事故で稲葉さんが行方不明になったと聞いたときは声をかけようとしても近寄れないほど酷い状態だったのに」
この二人は教師と生徒という間柄だけではなかった。稲葉志郎という共通の話題があった。この女生徒は以前児童劇団に所属していた。そこからの仕事で何度かドラマのエキストラ出演をしていた。その現場で志郎と出会っていた。熱く演技論を語り合う仲になった。
現在は辞めているが上達した業には変わりはない。桂の授業で見事な朗読を披露する。そこでかつて子役だったことを打ち明けた。桂は自分の彼も役者だと言う。そして授業は中断され、どんな仕事をしていたのか話した。そこで互いに稲葉志郎を仲介とした仲ができあがった。
「……そんなに酷かったの私」
なんとなく自覚をしていたが、そんに酷く見えていたとは思ってもいなかった。
「酷いなんてもんじゃなかったよ。桂ちゃんのトレードマークのホッペがごっそりと削げ落ちたみたいになっていたし。最初は幽霊かと思うくらいだったもん」
その言葉に桂は自分の頬を両手で押さえる。そこは以前のようにふっくらとしていた。
「……そんな風に見えてたんだ」
「うん。でもさ、新学期が始まってからは少しずつ元気になっていったし。それに急激に痩せていって、このまま稲葉さんの後を追うんじゃないのかって思ってたけど元の姿に戻っていったし。でもさ、ちょっと戻りすぎたんじゃない。前よりも太った?」
美月の料理を食べ始めて元気になった当初は服がきつく感じられたが、今はそんなことは無い。
「太ってなんかないよ、服のサイズは変わってないし。……ありがとう、心配してくれて」
「吹っ切れたの? それとも何か良いことでもあった?」
「うーん、稲葉くんのことは最近戻って来てくれるような気がずっとしてるの。落ち込んでいたらいつも夢で励ましてくれるし。それから良いこともあったし」
「何? 教えてよ」
「秘密」
悪戯っぽく唇に指を当てる。その仕種は子供のようでもあり、大人のようでもあった。
「ズルイ、ケチ、教えてくれてもいいじゃん」
劇団仕込みの声が廊下に響く。付近の教師と生徒が一斉に二人を見る。
「オッホン。成瀬先生、生徒と仲が良いのは結構ですが廊下ではもう少しお静かに願います」
年配の教師に注意をされた。
「……はい、すいませんでした」
即座に謝罪をする。この先生は色々と面倒だった。
「まだお若いから生徒よりかもしれませんが、もう少し教師としての自覚を持って生徒と接して下さい。そうでないといざという時困るのは貴方ですから」
小言を残して去って行く。桂はその間ずっと頭を下げて聞いていた。
「私、あの先生嫌い」
「……私もちょっと苦手かな」
この高校に赴任した新人の頃から苦手意識を持っていた。経験が一つもない桂を厳しく指導していたからであり、数年経った今でもその苦手な意識に変化はなかった。
「先生でも、そう思うんだ。なんか意外」
「そりゃ人間だからね。神様みたいに全ての人間を好きになるなんてできないわよ」
「そんなもんなんだ、大人でも。それより、良いことって何? 教えてよ」
中座した話題の再開を促した。
「あのね、落ち込んでいた私を助けてくれた人がいるの。今はその人と一緒に楽しく生活してるから。それで元気になったの」
観念して桂が話をする。また騒がれて注目を浴びて怒られるのは勘弁だ。それに隠しておくようなことでもない。
「ええー、稲葉さんのことを忘れて新しい男作ったの。そんで早くも同棲中なの?」
「違うよ。親類の子を預かってるの。その子が本当に可愛くてね。それから家のこともほとんどしてくれているのよ。だから大助かりなの」
「へー、そうなんだ。それで一時はがた落ちした桂ちゃんの体重が元以上になったのか」
「……うん。毎日美味しい料理を作ってくれるの。でも体重は増えてなんていないからね」
「その子、桂ちゃんの嫁だね」
「嫁? お嫁さんじゃないわよ。でも、家事を全部してくれて大助かりよ」
「そう。それで、どんな子なの?」
「写真見る?」
「見る見る。見せてー」
携帯電話の待ち受けにしているゴスロリ美月を女生徒に見せた。
「おお、これはマジで可愛いわ。こりゃ桂ちゃんが趣旨替えして嫁を迎える気になるわ」
「だから嫁じゃないって。でも、大事な家族なのは間違いないけど」
嫁という表現を大真面目に否定する。そして大事な家族であることを強調した。彼女がいるから元のように元気になれた。落ち込まないでいられる。
「まあまあ。それよりこの写メ、私にも頂戴」
「えっ、どうして?」
「だって桂ちゃんの幸せの素でしょ、この子。この子が来たからまた元気になれた。それなら私も持ってたら幸せになるかなと思って」
その言葉に桂は赤外線送信で美月の写真を転送した。
「ありがとね。そんじゃ、またね」
女生徒は去って行く。桂は職員室へと戻った。
この後、美月の写真は幸運のお守りとして本人がまったく知らないところで女子高生を中心に広く分布していった。