理由は?
はあああ、一体貴女何をやらかしたのよ? と、実里の「……首になってしまった」発言を聞き、思わず受話器の向こう側の彼女に詰問しようとしたが、先程の声から察するに実里はかなり落ち込んでいるようであったから、強い口調で質問なんかしたら余計落ち込ませてしまうと桂は考え、一瞬でその質問をすることを取りやめることを決断し、しかしながらどうしていきなり実里は首になってしまった、職を失ってしまったのかを思考。昨夜の様子から、実里は昨夜も桂宅で夕食と晩酌を、そんな素振りは全くといっていい程なかった。おそらく今日、研究室に行って言い渡されたのだろう。しかしながら、問題は何時言われたかではなく、何をしたか、である。想像を巡らせる。まず首になる理由として、真っ先に浮かぶのが金銭絡み。だけどそれは無いなと桂は判断。お金にちょっと困っているのは知ってはいるけど、だからといって人様のお金に手を出すような友人ではないことはよく分かっている。研究の資金が足りないのであれば、申請するようにとも言ってあるし、業者からリベートを受け取るようなこともまず、いや絶対にしないだろう。金銭でないとしたら他に理由は何だろうか。昨年の、といってもつい先日のことであるけど、ストーカー? 事件が切っ掛けであろうかともちょっと思ったが、大きな事件になったわけでもないのだから、流石にそれは無いなと考え、だとしたら解雇になった理由は何だろう、思いつかない。いや、それよりも一般の企業ではないとはいえ、そう簡単に解雇ができるものなのだろうか、大まかな区分としては同じ教育関係に従事していた身としては、労組が強かったはずなのにな、でも大学はそんなに強くないのかな、案外簡単に首を切られてしまうのかもとも考え、今度お世話になっている弁護士に聞いておこうと思うが、それよりも先に突然の出来事にショックを受けているはずの実里のケアをしないと、動転しているはずだから。いきなり解雇になったけど、優秀な研究者であることは間違いない、桂個人は化学には疎いが人知を超えた存在であるモゲタンも実里の才能を認めており、また彼女から上がってくる研究成果の報告も高く評価している。今の研究室にはいられないから早急に新しい所属先を、研究を継続できる場所を確保してあげないと、実里はそういうこと苦手だし、と。
ここまで長く書いてきたが、これは桂の脳内でほんのわずかな時間の間に巡らせたもの。
しかしながらほんのわずかな時間ではあったが、間が空いてしまったのもまた事実であった。
『おい、桂……聞こえているのか?』
受話器の向こうから心配そうな声が。
心配するはずの立場なのに逆に心配されてどうすると、桂は脳内で繰り広げていた推理を停止して、
「うん、聞こえている」
『そうか、良かった。……急に黙ってしまったから心配したぞ』
「私の心配なんかどうでもいいわよ。それよりも自分のことでしょ」
『まあ、そうだな』
「とりあえず、今すぐに会社に来なさい」
電話で話しているよりも、直接顔を合わせて事の経緯を詳しく聞いた方が良いと桂は判断。
実里を待つ間に、稲穂に連絡をし、来られるようであれば来てもらい、一緒に事態に対応してもらおうと考える。
そんな桂の言葉に実里は、
『今すぐにか? それはちょっと無理そうだな』
「何言っているのよ、解雇になったんでしょ……」
言いながら桂は、実里の言っていることももっともであると思ってしまう。欧米のように宣告されて即解雇ということはないはず、猶予というか、前もっての報告義務が。
「……で、何時まで研究室には居られるの? 一月後? それとも年度末まで?」
『うん……多分来年以降も在籍できるはずだが』
「へっ? 何? どういうこと? 実里、首になったんでしょ?」
『うーん……ああ、すまない。突然のことで仰天してしまい、言い間違ってしまった』
「仰天でもまあ間違いではないけど、もしかして動転って言いたかった?」
『ああ、そうだそうだ、それだ。流石、桂だ。元国語の教師だ』
「まあ、それは別にどうでもいいけど。それで首じゃないとはどういうことなの? 何に動転して言い間違ったのよ?」
『……研究を止めろと言われた』
「はあああ?」
『だから、研究を止めろと言われた。後少しで上手くいきそうな気がするんだけどな』
「どういうことなのよ、それ?」
『分からない。朝、いつものように実験を開始しようとした矢先に突然学長室に呼び出されて、そこに何人も知らない人が沢山いて口々に危険な研究は今すぐに中止しろと言われた』
「危険なの?」
実里の研究課題は、ずっと冷めない、温かいままのお弁当箱を作ること。
『危険じゃないとは思うのだがな』
「もしかして禁止の薬品とか使用しているとか?」
『まあ、たしかに人体にとって悪影響を及ぼすような物質や薬品を使用しているのは事実だ。禁止されているのは使っていないが扱いが非常に厳重なものを使った。口にするものを入れる弁当箱にはちょっと使用を控えたほうがいいのは理解できる。だからこそ、それらを使わずに上手くいかないか試行錯誤の繰り返しだ。他にも問題点もあるし』
「だとしたら今すぐに止めろと言うのはちょっと変ね。他に何か言われた?」
『何か他にも理由を言われたような気もするが、さっきも言ったけど仰天、じゃなくて動転してしまっていたから、他に何を言われたのかあまり記憶がない』
「学長や教授は何か言っていたの?」
『学長は、言うことを聞いて研究を中止するように言っていた。あ、後教授はいない』
「いないって?」
『リーさんと一緒に海外に出張中だ』
「……そうなの。……このまま電話で話していても詳しいことが分かりそうもないから、とにかく会社に来て頂戴。さっきの教授の件の報告も受けていないし」
『だが、桂。これもさっきも言ったが抜け出してソッチに向かうのはどうかと思うが』
「適当に言い訳を作って出てこればいいのよ。どうせ、研究室にいてもすることないんでしょ」
『まあ、確かにそうか。……うん、そうだな。私は突然のことでショックを受けてしまったんだ。早退する理由になるな。うん、分かった。今からソッチに行く』
「ああ、ちょっと待って。そこに居て」
『来いと言ったり、来るなと言ったり、どっちなんだ?』
「一人でコッチに来させるのはなんか危なそうな気がするから、迎えを送るから」
電話の向こうの声は幾分か元気になってはいるが、人生をかけてまで取り組んでいる大事な研究を突然中止しろと言われたことのショックは当人でないのだから推察しかできないけど、それでも結構大きいはず、電話を切った瞬間にでもまたショックがぶり返してしまい、それによって余計落ち込んで、ココに無事に辿り着けないのではと、桂は危惧し、そんな不安を解消するために会社の人間を大学へと迎えに出すことを決める。
そんな桂の言葉に実里は、
『稲穂が迎えに来てくれるのか』
と、うれしそうな音を。
「稲葉くんは今学校だから。別の人が迎えに行くから。実里はカフェでお茶でも飲みながら待ってなさい」
稲穂が迎えに来てくれるかもという淡い期待のようなものは桂の言葉によって実里の中からかき消されてしまった。
しかし、それよりも、
『……今、桂また……』
以前にも一度、桂が稲穂の名前を言い間違えたことがあったのを実里は記憶していた。なんでまた間違えたんだ、そのことを指摘しようとしたのだが止めた。
おそらくだが、この友人は、突然のことに自分同様に動揺してしまったから間違えたのだと実里は推論。
『分かった。カフェで待っている。……ああ、それからカフェで何か買っておいた方がいいか?』
我がことのように心配してくれている友人に感謝を伝えるべく、何か買っていった方がいいのかもと思いながらも、何を買えばいいのか分からずに、思わず訊いてしまう。
「別にいいわよ、そんなの。丁度貰い物の羊羹もあるし。それに実里、甥っ子姪っ子にお年玉をあげてお金が無いって昨日言ってたでしょ」
確かに財布の中身は寂しかった。
『分かった』
「それじゃ、後で」




