二つ目の大きな進展
いつもとは異なる格好ゆえに、稲穂には多少の気恥しさがあり、それは一旦は払しょくできたはずであったのだが、車内という閉鎖した空間から冬の晴天の下へと出たことで、つまり人の目に映る場所に出たことでまた羞恥の気持ちがぶり返したから、背後から迫る人影への反応、及び対処が一瞬遅れた。
しかしながら、遅れたといってもそれが致命的なミスになったわけではない。ほんの一瞬、一秒にも満たないような時間、それだけのこと。
プロが相手でも十分に対応できた。
ましてや、背後から迫ってくる存在は、その想定しうる最上級の存在よりもはるかに劣る。その証拠に背中に聞こえた足音は、ドタドタした、おおよそ運動とは縁遠い人間が奏でる不協和音のように稲穂には聞こえた。
だからといって、それで油断をすることはない。
稲穂は用心を。
一度開きかけた後部座席のドアを閉める。実里が出てこないように、彼女に危害が及ばないように。
状況が分からない実里は車内で何かを言いながら、一度開きかけたドアを開けようとしたが、稲穂がそれをしっかりと押さえる。
押さえながら、身体を反転。
迫ってくる音を正面に。
大きな足音を立てながら迫ってくるのは、その音を立てるに相応しいような大きな男であった。上背は日本人成人男性の平均身長を僅かに超えるほどしかなかったのだが、横が、というか体重が平均をはるかに上回る、三桁に届きそうなくらい。
そんな巨体が突進、といってもその速度は稲穂からだけではなく一般の人間から見ても遅いのだが、してくる。
しかしながら、重いというのはそれだけで十分武器に、脅威になった。
普通の人間が今突進してくる男を真正面から受け止めたとしたら、死、ということは流石にないけど、それでも最悪背後にある車に挟まれて大怪我ということも。
だが、稲穂は普通の人間ではない。
ある程度の運動神経の持ち主ならば十分に躱せるくらいの速度であるから、そんなことは稲穂にとっては朝飯前のこと。
だが、避けるという行動を選択した場合、男はクラウンへと接近してしまう。車内には護衛対象の実里が。この男が実里のストーカーであるという証拠は今のところ皆無であるが、その判断の甘さによって実里を危険にさらすことになってしまうかもしれない。
稲穂は、男を真正面から止める、突進を阻止することにした。
車、クラウンの後部ドアに背中を預ける。
これは内側から実里がドアを開けないようにするため。現状が分からない実里が不意にドアを開けてしまい外に出てしまうことを防ぐための行動であった。
男はスーツ姿であった。
そして、走り方が下手なのには理由があった。
両の腕を後ろに回しながら走っている。
不格好な走りの原因は、何かを隠しながら走っているから。もしかしたらその隠しているものは危険なものかもしれない。
稲穂は警戒レベルを上げた。
上げながら、両目はしっかりと男を見据えながら、頭の中で一つ反省を。
それは、今はいているものについて。
と、書くとタイトスカートもしくはストッキングと思われるかもしれないが、そうではない。パンツスタイルのスーツに比べれば動き難いのは確かなことではあるが、それでもまったく動けないというわけではない。多少動きが制限されとしても、一般的な、多少スポーツを齧った程度の人間だとしても、稲穂にとってはハンデにもならないくらいであった。そして破ってしまうかもとずっと危惧していたストッキングも、破れる時はしょうがないと先人たちの教えを受け、それから替えを用意していた。
ならば、身体のラインが出るタイトな衣装だけにいつものボクサータイプの下着ではなく、半ば二人に強制的に着けられたTバックかというと、それも否であった。
では、はいているものとは何か?
それは、履いているもの、靴であった。
桂と麻実の悪ノリによって、稲穂が今履いているのはヒール。
穿き慣れていない上に、不安定、これでは万が一、男の突進が稲穂の想像以上であった場合踏ん張りがきかなくなってしまう。
ここは我を通して、機能性を優先してスニーカーを、それは絶対に無理だからパンプスを強く押しておくべきであったなと、稲穂は心の中で反省を。
突進してくる男を受け止めた場合、もしかしたら爪先だけでは踏ん張りがきかずに新品のヒールを損傷させてしまうかもしれない。
決して高い品ではないのだが、貧乏暮らしの長かった稲穂、稲葉志郎にはそれが勿体ないというかなんというか、おろしたてのものをすぐに壊してしまうのは心情的にあまり気持ちの良いものではなかった。
ならば、いっその事脱いでしまおうか。巨体が迫ってきてはいるが、稲穂にとってはまだその距離には余裕があり、それくらいのことをするのには十分すぎるほどであった。それにストッキングならば金銭的にもヒールよりも安く済むし。
そんなことを考えていた稲穂であったが、突如思考が低下。
その原因は男の行動であった。後ろに隠していた両手を前へと。この段階ではまだ稲穂の思考は低下してない、やっぱり何かを隠していたんだと、むしろ活性化、警戒度が上がっていたくらい。が、次の瞬間男が右手に持っているもの、左手に持っているもの、この両方が視界に入った途端に低下を。
そんな稲穂に、モゲタンが、
〈油断をするな。あの中に危険なものが隠されている可能性もある〉
と、警告を。
この言葉に停止しかけた思考が再始動。
男は、そんな稲穂の眼前で止まった。
ここまでの全力疾走を物語るように、男は大きく肩で息をし、顔は下を向いていた。
そんな状況でありながらも、男は両の手に持っているものを稲穂の方へと突き出す。
そして、まだまだ息が上がった、荒い呼吸のままで、
「はーっ、はーっ……ぼ、はーっ、……僕とけ……はーっ……してください」
常人を遥かに凌駕する能力を有する稲穂ではあったが、この荒い息まじりの言葉を完全に聞き取ることはできなかった。
彼は、この男は何を言ったのかを推察。
け、という言葉は聞きとれた。
ここから考えられる単語としてまず真っ先に稲穂の脳裏に浮かんできたのは、決闘、の二文字であった。
物騒な単語ではあるが、これは稲穂が好戦的な性格だったからいの一番に浮かんできたというわけではない。実里のストーカー問題、この目の前の男がそのストーカーであると想定し、ここ数日ずっと傍で自分がガードしていることに業を煮やして、排除するために、直接的に、悪く言えば馬鹿正直に宣言を、そこまで妄想しての単語であった。
しかしながら、この男の格好はとても決闘を申し込むようなものとは程遠かった。それに手にしているものは武器とはまるで正反対の物。
そんなわけないかと、一瞬稲穂は思いかけるのだが、先程のモゲタンの言葉を思い出し、昨夜話題に出たデリンジャーならあの中に隠せるな、と考え、けど待てよ、海外ならいざ知らず国内で銃を持ち出すなんてことはあるのだろうか、いやけど恋は盲目ともいうし、想いが募りすぎた人間が思い余って突飛な行いを、予想外の行動をするなんてことはよくあること。ならばそれに備えての対処を。昨夜聞いたデリンジャー程度の威力ならば、この市近距離で直撃を受けても全くもって問題ない、しかしながら白昼堂々と発砲させてしまうのはどうか、ならば撃つ前に、撃たれる前に先制してしまおうか、だがしかし、この男がストーカーであり、なおかつ決闘を申し込んでいるとは限らない、何しろちゃんと聞きとれたのは、け、という言葉のみ、決闘というのはあくまで想像した言葉。
そんなことを考えている稲穂の耳に、やや息を整えた男の声が。
「はーっ、はーっ……結婚してください」
今度はちゃんと聞きとれた。決闘ではなく、結婚であった。
たしかにそちらの言葉のほうが相応しかった。
このスーツの男が手にしているのは、右手には赤い薔薇が数輪、左手にはおそらく婚約指輪が入っていると思われる小箱。
公開でのプロポーズである。
合点はいった。
だがしかし、何故にいきなりプロポーズをされてしまったのだろう? という疑問を稲穂は抱きながら、しかしそれに応えるわけには絶対にいかず、さりとて公衆の目の前でプロポーズをする勇気にはある意味敬服し、すごいな度胸があるなと感心しつつ、自分も桂にプロポーズした時は凄く勇気がいったことを思い出しながら、流石にこの申し出を承知するわけにはいかないが、それでも素っ気なく、無下にお断りしてしまうのは少しかわいそうな気がし、ならばどうやってやんわりと、傷付けないように断るかを思案。
しばし稲穂は考え、そして徐に、
「……あの……おっ……私、既婚者なんですけど」
こんな言葉を人生のおいて言うとは想像もしていなかった。
法的な観念でいえば、未婚である。が、桂とは同性同士の事実婚。これは紛れもない事実。
稲穂の言葉を聞いたからか、スーツの男は深い溜息をつき、それから勢いよく伏せたままの顔を上げて、
「どうして駄目なんですか? ……って、貴女一体誰なんですか?」
この言葉に稲穂は思わず突っ込みを入れそうになった。それはこちらの言葉です、と。
稲穂にはこのスーツの男には見覚えがなかった、皆無であった。
この稲穂の心の中の突っ込みは外に出ることは一切なかったのだが、
「稲穂、一体何があったんだ? おや、そこにいるのは、もしかして須藤君か? しばらく見ない間に太ったな」
いつの間にか車外に出ていた、稲穂が抑えていたドアの反対側から降りたのだが、実里が、稲穂の心の中の突っ込みに答える。
どうやら実里の知り合いのようであった。
ということは、つまり先程のプロポーズの言葉は実里に向けてのもの。
これが、二つ目の大きな進展の序章であった。
次の投稿は、来年。松の内中を予定しています。
それでは、良いお年を。




