車の話
四輪車の話だけど、脱線につぐ脱線。
さて、今回は車の話である。
稲穂たちが所有する車はミニバンであった。
女三人、桂と麻実と稲穂の体重を足して三で割ると日本人女性の平均体重を下回り、なおかつその車で遠出をする予定もほとんどなく、近所に買い物に行く程度の予定。ならば燃費が良く小回りが利き、おまけの税金も安い、660cc以下の軽自動車でも十二分であるのだが、成瀬家はミニバンを選択した。
ではなぜミニバンになったのか? それは世間的に人気があって、家族の車というのはこういうものだと認識、もしくは刷り込みのようなものがあってそれが具現化して、三人で使用するのは些か大きめの車を購入したというわけ、ではもちろんない。
この車種を選んだのにはちゃんとした理由があった。
会社の経営が軌道に乗り、金銭的余裕が出て、今の住処へと引越した時に車を買おうかという話が持ち上がった。その時は別の近くの大型のショッピングモールへ三人で買い物に行くくらいであるから別段軽でもと言いあっていたのだが、相談、吟味を進めるうちに軽では足りないということが発覚。
これは元男である稲穂が、軽自動車程度の排気量では面白くない、幼い頃に憧れたスポーツカーのような、ガソリンを大量に消費し、自然や環境のことなどまったく考えていない、乗っていて、操作していて楽しい、そしてスピードが出る車を欲したから、というわけではない。足りないのは排気量ではなく、シートと積載量。成瀬家には年下の友人達がよく遊びに来ていた。車で送るのには軽自動車でやや小さい、というか人数をオーバーしてしまう。それで大人数でも乗ることが可能なミニバンから選ぶことに。
選択したのはいいのだが、ここからまた頭を悩ますことに、やや迷走することに。
最初、桂の兄の文尚が所持している三菱デリカ、これと同じもの、もしくはそれよりも新しいタイプのものを購入しようかと話し合っていた。これならば運転経験もあり、なおかつ燃料費も安く抑えることができると。しかしながらこの考えはとある一言で廃案に。
その一言は、
「これってさ、ディーゼルだけど大丈夫なの?」
石原都知事時代に都内でのディーゼル車の走行の規制が。
このデリカに搭載されているのはクリーンディーゼルであり、条例の対象外、運転しても大丈夫。またガソリンエンジン搭載のものもあり、これらを選択してもいいのであったが、一度固定されてしまった観念というものはなかなかに脱却することが難しく、捨て去ることが困難で、候補車種から永遠に除外されてしまった。
そこから、紙媒体及びネット情報で車を選択する作業へと。
まず候補を挙げたのは麻実であった。
挙げたのは二つ。
麻実が最初に挙げたのは、エアロパーツがごてごてと付いた中古車であった。この車は、桂が余計な付属物が付きすぎていて「かっこよくない、あまり乗りたくないな」という感情的なデメリットを言い、その後に続いて稲穂が「エアロパーツはあんまり効果ないと思うし、それにフロントフェンダー多分擦ると思うよ」という具体的なデメリットを。購入する前に先んじて契約していた駐車場のスロープに擦る可能性が大であり、却下に。
続いて麻実が提案したのは痛車、かつての稲穂、伊庭美月が魔法少女もどきに変身した姿を大きく車にうつしたワンボックスカーが中古で出ていた。これも稲穂と桂は不許可。稲穂としてはかつての恥ずかしい姿を周囲に見せながら運転するのは嫌だし、桂としても魔法少女の姿の美月はそれはそれで好きではあるけど、自身がその車を運転するのは流石には恥ずかしい、と。
次に稲穂。
知り合いにモータースポーツ好きがいたから競技車両についての知識は少しばかりあったが、都会暮らしの貧乏生活ということで、ほとんど縁のない一般車両についての知識はあまりなく、そして特にこだわりもなく、だったら人気車種から選んだらどうだろうと意見し、トヨタのアルファード、ヴェルファイア。ホンダのステップワゴン、日産のセレナ、エルグランドというCMで見かけたような車種名を羅列していくが、どの候補も桂の「なんかあんまり好きじゃない」というあまりお気に召していないような言葉でいずれも廃案に。
最後に桂。
桂は、車の関する知識は全然ないけど、どうせ運転するのならば流行りのエコ+可愛い車が良いという希望があった。
その希望に沿うような車を三人+もう一人で検索と相談。
さらには会社の整備部の意見「部品の調達が楽な国産車が良い」という意見を十二分に考量して、それからある程度妥協をし、近所の中古屋で程度の良い車を運良く見つけ、成瀬家の車はトヨタのエスティマ三代目と相成ったのであった。
この車で土曜日四人で稲穂のスーツを買いに出かけた。
そして二日後、月曜日。
実里のストーカー対策として稲穂が付き添う、二人で大学へと出勤するのに使用したのはそのエスティマハイブリッドではなかった。
というのも、この日は前々から麻実が使用することになっていたからであった。
エスティマが使えなくても、稲穂には他の選択肢が存在していた。一応ベンチャー企業の共同経営者の一角、会社の営業で使用する車を自由の使える権限位はある。
ということで営業車のアクアで実里を大学まで連れて行こうとしたのだが、ここでちょっとした計算違いを。
アクアは社員が使用する予定になっていた。
しかしながらそれで稲穂の手立てが全て潰えたわけではなかった。
まだ他にも車はあった。
まずは、一般道最速の異名を誇るプロボックス。
これも午後から技術者が取引先への脚に使用するために不可に。
次に年代物のジープ。
南半球で軍の払い下げ品として使用されていて何人ものオーナーが乗った車体が巡り巡って極東の地にまでやって来て廃車寸前なっていたのを格安で警備部の人間が手に入れて、いすゞのエンジンに交換しレストアした一品。しかしながらこれには問題があった。この車にはエアコンという気の利いた装備は付属していない、レストだから後付けで装備してもいいのかもしれないがなるべくオリジナルに近い状態ということで付いていない。これでは師走という時期に乗るのにはちょっと、いや大分と厳しい。それでも実里は「稲穂の隣にいるのだから寒くなんかなるはずない、勝手に体が熱くなるくらいだ」という本音とも冗談とも取れるような言葉を真顔で言い放ち、稲穂を困惑させてしまったのだが、結局のところこれも不採用に。
そして三台目。
警護の仕事やVIPの送迎で用いるための必要であろうと、警備部門のボスであるディックがかつての経歴の伝手をつかって手に入れた車。一応中古という範囲ではあるのだが、整備部門の人間が全てバラシてオーバーホールをし、万が一の事態に備えて防弾ガラスを備え付け、ボディ全体も厚くして多少の銃弾に耐えられるようにした。それによって車重は重たくなったもののエンジンはそのまま、日本国内で運用する分にはそれほど速度やパワーを必要ないだろうという判断。ただ足回りはちょっと強化してある。しかしながらこれだけ手を入れたのだが、現在の所運用実績はほとんどない。
その車で実里のボディガード初日の送迎を。
これがちょっとした騒動を巻き起こしてしまうことに。
黒塗りのセダン、クラウンであった。
一般的にイメージとしてこの手の車は、とある人たちのことを想起してしまいやすい。
そのことに稲穂と実里は全く気が付いていなかった。
実里が所属している研究室のある大学施設は郊外の丘陵にあった。そこまでは片道一車線の緩やかな坂が。稲穂が顔を出すときはいつもビアンキのチタンロードでそこへと向かっていた。その際この坂では、汗をあまりかかないように軽いギアで脚をクルクルと回転させてゆっくりと上っていた。そんな稲穂の横を、何台もの車やバイクが追い抜いていくのがいつもの光景であった。
本日は車、ロードバイクよりも速い速度で走行しているものの、慣らし運転ということもあり、またちょっと目立つ車であることも考慮して、稲穂は法令順守を、つまり制限速度キッカリで走行していた。
大学という施設は、若さと勢いにあふれた場所である。それは普段の行動にも表れていた。この坂を駆けあがる車、バイクの大半は制限速度を遥かに超えたスピードで走行していた。
それなのに、まだ一台も追い越して行かない。先を急ぐ車が追いついてきたのなら道を譲るつもりでいたのだが、その兆候は皆無。
別に稲穂が運転する車以外影も形も存在しないわけではない、現に何台もの車とすれ違ったし、バックモニターやサイドミラーには時折映るのだが、すぐにその姿をミラーから消してしまう。
不可思議に思いながら運転して稲穂は突然はたと気が付く、もしかしたらこの車は道を極めた人やその筋の人が乗っているのではと勘違いされてしまっているのでは、と。
先にも書いたが、黒塗りのクラウン。そこに安全とプライバシーを考慮して、防弾のマジックガラス。つまり中の様子が外部からは視認できない状態。
こんな車に近付きたとい思わないのは普通の思考である。
「しまったな、この車を選んだのは失敗だったか。目立ちすぎてしまうな」
後部座席に座る実里、実里としては助手席に座ることを要望したのだが機密上の問題があるためその願いを受け入れるわけにはいかずやむを得ず後ろの座ってもらった、には聞こえないくらいの声で稲穂が。
しかしこの小さな音は独り言ではなかった。稲穂の両耳のピアス、モゲタンに向けての言葉であった。
〈なるだけ目立たないように実里をガードするという当初のプランを実行するのは難しいだろう〉
「だろうな」
〈しかし物は考えようだ。実里に被害が出ないようにするのが最も重要なことだ。これはこれでストーカーに対する抑止になるのではないだろうか〉
「なるほど、それもそうかもしれないな」
と、小さく呟きながら稲穂はウィンカーを出してアクセルを緩め、ブレーキを踏み、静かにハンドルをきった。
黒塗りのセダンは大学の敷地内へと入った。
駐車場に車を停め、車外へと降り立った稲穂の姿はメンズの黒スーツにサングラス。当初の予定では女性らしいシルエットのスーツに包まれているはずだったのだが、土曜日に購入したスーツは既製品ではあるが仕立て直しに少々時間がかかり本日着用することができず、だったら一応護衛ということだからという麻実と桂の悪ノリで、ボディガード然とした装い、つまり黒のメンズスーツにサングラスという恰好に。
情報発信の発達によって現代では噂は風よりも早く伝播する。
あやしい黒塗りの車が駐車場に入ったという情報を入手した者のうち何人かは、興味半分、ある意味怖いもの見たさで、遠巻きに観察を。
そこに黒スーツ姿の稲穂の姿が。
見ている大半の人間が予想していた、ヤの付く方々とは違う雰囲気に遠巻きのギャラリーは困惑し、そこから怖さという感覚が薄れて、好奇心が強くなっていく。
後部座席には一体どんな人間が座っているのだろう?
固唾をのんで見守るという言葉がピッタリな空気の中で、稲穂わざと、芝居がかった仕草で後部ドアを開ける。
降りてくるのはもちろん実里。
学内でちょっとした変わり者として有名な実里、その彼女が普段と変わらない恰好、白衣にジーンズ。
予想外の人物に観察していた人間全員が、唖然呆然となり、中にはまるでコントのように盛大にずっこける者も存在した。
周囲がそんな状況になっている原因を作り出したというのに、稲穂と実里は我関せずといった感じで二人並んで学舎へと。
さて、黒のセダンを使用したことによって大学内の一部のちょっとした騒動、動揺、驚きを巻き起こしたのであったが、稲穂の姿を見て本日一番驚きの表情を浮かべたのは、実里の所属する研究室の教授とその秘書のようなことをしている留学生のリーさんであった。
厳ついイメージの車を運転しているところを見られたわけでもなし、建物内に入ってからサングラスもとうの昔に外していたのに、何故にこんなにも驚かれてしまうのか、稲穂は少々訝しがり、脳内で一人考える。
しばし考え、ついでにモゲタンとも角を突き合わせた結果、出たのが、
「もしかして、一緒に来ること伝えていないの?」
という、実里への質問。
いつもは研究室へと訪れる時は事前のアポを取っていた。しかし今回は、土日ということで研究室には繋がらず、ならば教授に直接連絡をするのが筋ではあるのだが、稲穂は彼の番某を知らず、「だったら私がしておこう」という実里の言葉に信用して任せていたのだが、この驚き方から察すると、もしかしてしていないのではという疑念が浮かんで質問を。
この質問に実里は、
「ああ、忘れていた」
全く反省の色のない声を顔で平然と言う。
これを聞き、稲穂は、だったらこんなに驚くのもまあ分かるような気がするという感想を。
実里の研究に会社として援助を行っていると同時に、それよりも少額ではあるけどこの研究室にも資金を援助していた。
微々たる金額ではあるがいわばスポンサーである。俗に良いスポンサーとは、金は出すが口は出さない、というのがある。もしかしたら研究に関して口を出しに来た、実里がもっと研究しやすいように苦言を呈しに来た、と勘繰られてしまったのではと稲穂は推察。
そんなつもりは全くない。
今回実里と一緒に赴いたのは、彼女をストーカー被害から守るため。
だがしかし、この研究室内部にそのストーカーがもしかしたらいるかもしれない可能性を考慮して、そのことを馬鹿正直に話すわけにもいかず、予め用意しておいたカバーストリーをまだ驚愕の表情を浮かべている教授へと稲穂は説明したのであった。
一見全く関係のない話のようだけど、実は関係ある話。
次話は番外編。
今回のこぼれ話
ジープの話。




