ストーキング
三者、稲穂と桂と麻実、が一斉に異口同音で驚きの声を上げた。
と、同時に桂と麻実の酔いがいっぺんに吹き飛んだ。
二人はもちろん、稲穂も実里の相談事がそんなものとは露ほども思っていなかったからである。
稲穂は研究に関する相談であると想像していたし、桂は師走なのでもしかしたらお金絡みかなと考えていたし、麻実に至ってはもっと些細なこと、日常においての小さなこと、他人が聞けばどうでもいいような相談であると考えていた。
それが想像していたのとはまるで違う相談内容。
「それで、何か被害とかにあったの?」
と、まずは桂が心配そうに訊く。
「さっきも言ったが、ストーカーにあっているという確証は今のところない。もしかしたら私の気のせいという可能性も十分にあり得る」
「でも、そう思うようなことがあったんでしょ?」
と、今度は稲穂が。
「うん、まあそうだ」
「どんなの?」
これは麻実が。
「……最近よく視線を感じるようになった」
「それで?」
「なった」
「それだけ?」
「ああ、今のところそれだけかな」
「だったら、気のせいじゃん」
「だと私も思うんだが、しかしな……昔感じたような視線とは違うんだよな……」
稲穂が目の前にいるので実里は多くは語らなかったが、彼女はかつて自分にとって得がある男が望むのであれば簡単に股を開いていた、学部内で誰とでも寝る女という噂を立てられ好奇、もしくは軽蔑の視線を向けられていた。だが、今回感じるような気がしている視線はその時のとは別のような感じがし、そのためもしかしたら自分はストーカーにあっているのではと思うようになったのである。
「見られているような感じなだけなの?」
「ああ」
「でもそれってさ、実里の研究が面白そうだから見られているだけなんじゃないの?」
「ないな。研究室の人間は私がどんなことをしているのか知っているはずだし、何かあったら遠くから観察なんかせずに直接聞きに来るだろう。そして一般の人間は私の研究になんか興味なんか持たないと思うがな」
実里の研究内容は、保温ができる弁当箱の素材開発。
以前は固形での研究を行っていたが、今は液状での研究を。
「見られているような気がするだけなのよね」
「ああ」
「やっぱり気のせいなんじゃ」
「うん、そうだろうなやはり。しかし……気のせいだったとしても一度気になってしまうとな、なんか変か気が二十四時間中ずっと、ああこれは言い過ぎだが、大学にいる間ずっとしていて……そのせいで研究への集中が欠落してしまう」
「ああ、確かにそういうのはあるよね」
「うん、分かる」
「稲穂も同意してくるか」
「でもさ、気のせいだけじゃどうしようもできなよね」
「まあいいか。三人に話をしたらなんとなくだけど楽になったような気がした。おそらく研究が上手くいないからそんな気がしただけだろう」
「だといいんだけど」
「本当に被害はなかったの?」
麻実がもう一度訊く。
「うーん……そう言われてもな……ああ、そういえば……」
「何かあったの?」
「ああ、白衣が一枚なくなった」
「白衣?」
「何枚かあるうちに一枚だが、なくなってしまった」
「それってストーカーに盗られたの?」
「それが……分からない。麻実が言うようにもしかしたら誰かに盗まれたかもしれないし、単に私が何処かに置き忘れてしまっただけかもしれないし、その辺に適当に置いていたから捨てられてしまったかもしれない……まあどれにしたってちょっと痛いことには違いはないがな」
「痛いの?」
「ああ、確かに」
「白衣は結構なお値段するものね」
「そうなの? 白衣って安く買えるもんじゃないの」
麻実一人が白衣は安いという認識。
これには理由が。稲穂はかつて稲葉志郎であった頃、芝居で使用する小道具で白衣を買い求めたことがあり、その時結構な値段がすることに驚いたことがあった。桂は教師時代の同僚に聞いたことがあり、そして実里はもちろん当事者。
麻実一人の認識が異なるのは、彼女は美術系の大学に進学しており、その中に白衣を着て作業するものが数名おりそこから得た情報であった。
しかしながらどうして齟齬が生じるのか。
それは白衣ではあるのだが、言葉としては同じ白衣であっても実は異なるものであったからだった。
実里が着用しているものは、実験に使用するもの、危険薬品を扱う際に着るもの。対して麻実の言っていた白衣は、絵の具から衣服の汚れを防ぐためのもの。
汚れから身を守るという点においては同じであるが、前者はそこに安全という要点が。
そのことを稲穂が麻実に説明。
「へ、そんなに違うんだー。でもさ、一枚なくなっただけでしょ、桂に申請したら新しいのが手に入るんじゃないの」
「うん、経費で落ちるから。後で書類書いてね」
「まあ、白衣をなくしたこと事体にはそんなに気にはしていないんだがな」
「だったら何が痛いの?」
「なくした白衣のポケットの思い付いたアイデアの走り書きをしたノートの切れ端が入っていたんだよな」
「メモでしょ、別にまた書きなおせばいいじゃん」
「そうできればいいのだが、何を書いたのか記憶がないんだ。良いアイデアだったことは憶えてはいるのだが……歳かな……最近ちょっと物忘れがな……桂もそうだろ」
「一緒にしないでよ」
「いや、同い年だからな。同じ様な経験があると思ってな」
「……うっ……それは……」
思い当たるようなふしが何度かあった。
「あ、桂あるんだ」
麻実が茶化すように言う。
「偶によ、そんなに物忘れを頻繁にするわけじゃないし」
「でもさ、桂この前キッチンに来て何するんだったっけと言ってしばらく考えていたことあったよね」
と、稲穂が。
「それは……その時ちょっと忘れただけで後でちゃんと思い出したから」
「だとしたら、私もそのうち思い出すかもしれないな。それに白衣で出てくるかもしれないし。うん、気にしないでおこう」
「そうそう、無理に思い出そうとしたら遠ざかるもんね」
「そのうちひょっこりと出てくるかもしれないし、もしかしたらもっと良いアイデアが浮かんでくるかもしれないから」
「うん、稲穂の言うことを信じるとするか。じゃあ、悩み事もはしたし相談にも乗ってもらったしそろそろ行くとするか」
そう言いながら実里は炬燵から足を出し、立ち上がる。
「何処行くの?」
「何処って、帰るのだが」
「はあああ?」
「何を桂はそんなに驚くんだ?」
「だって、ストーカーにあってるんでしょ」
「あっているかもしれないだ。まあ多分私の気のせいだろ?」
「気のせいだったとしても、それが確実という保証はないでしょ」
「まあ、それは確かにそうだが」
「そんな状態なのに、しかもこんな時間に一人で帰らせるわけにはいかないでしょ」
「なら、稲穂が送ってくれるのか?」
「送れないかな」
「……そうか……だったらどうすればいいんだ?」
「そんなの簡単じゃん。泊っていけばいいのよ。ねえ、桂」
「簡単と言うがどうすればいいのか……」
「麻実ちゃんの言う通りよ、ストーカーはいないっていう安全が確保されるまではウチに滞在しなさい」
「いいのか、桂? しかし、泊るための準備は何もしていないぞ」
「パジャマは私達の中で合うのを使えばいいし、下着は下のコンビニで買えばいいから」
桂達が入居しているマンションの横にはコンビニがあった。
ということで、四人でコンビニへと。
その際下着だけではなく追加のアルコールも購入し、今後についての会議という名の二次会へ突入したのであった。




