アラサータヌキと化学のキツネ
狸と狐は出てきませんし、蕎麦と饂飩の話でもありません。
あと、主人公不在です。
学生はとうの昔の卒業し、就職し、納税も行い、法的な根拠はないけどそれでも一応結婚した。さらにいうと稲穂と一緒に起業した会社で経営者の一角、その会社はグローバルな事業を展開中、世間の目から見ればまごうことなき立派な大人である。
にもかかわらず、桂は自分がまだまだ子供だなと思ってしまった。
これは、子供の頃に想像した大人のイメージと現在の自分がかけ離れていることも、そんなことを思ってしまう要因の一つではあるのだが、それ以上に一人の人物の存在が桂にそう思わせていた。
その人物とは、秦実里。
稲穂が、面白そうな研究をしている人間を見つけ出してきて、資金提供している中の一人。
この実里と、桂はとかく話が合わない。
水と油のような関係であった。
どちらかと言えば丸顔でややたれ目気味、所謂狸顔の桂。それにたいして面長で細い目、狐顔の実里。
狸と狐でそりが合わないのは道理なのかもしれないが、何故こうも合わないのか、嫌いというか苦手なのか、桂は自身を鑑みる、分析してみることに。
文系と理系の違いはあっても、それが苦手になる要因にはなりえない。現に桂の父、そして兄は理系、しかもエンジニアであった。
ならば話が合わない、というか言葉が違うからだろうか。同じ日本語を話している、会話しているはずなのにどこか上手くかみ合わない、ちょっとギクシャクした感じに。だが、これまでの人生でそういう人間とは幾度となく遭遇してきた。しかしながら、理解はできなくとも、今のような気持ちを懐くことはなかった。
苛立つようなことは皆無であった。
例え懐いたとしても、それを表面に出さない、内面に仕舞っておくのが大人のマナーである。にもかかわらず、実里には出てしまう、出してしまう、出てしまう。
彼女の研究が確実にものになるかどうか分からないけど、そんな態度を向けてしまうのは経営者としては失格である。
そうと分かってはいるのに、つっけんどんな対応を。
どうしてそうなってしまうのか、桂は自問を。
一人の時に考える。
時には実里のことをコッソリと観察して。
その結果、一つの結論が導き出された。
自分が実里に懐いている気持ちの正体が、やきもち、嫉妬、であると気が付いた。
実里といる時に垣間見えるいつもとは違う稲穂の顔。自分といる時には観たことのない表情。
それが嫉妬の原因になるのだが、好きな相手とはいえその全てを知っているなんてことは不可能であることは承知している。これまでの生活の中であっても、新たな一面を発見することは幾度なくあった。それこそ姿形が変わり、年下の友人たちと交流をしていた最愛の人を見ていても、微笑ましく思うだけで、今胸中にあるような嫉妬のような感情に苛まれるようなことなはなかった。
なのに、どうして実里にだけそう感じてしまうのか。
桂はまだ熟考を。
考えても分からないのだが、もしかしたらこれではないのかということが。それは、女、だから。
これは別の性別の事を指しているわけではない。
しかしながら、もしかしたらこれは気のせいなのかもしれないが、桂は、実里が稲穂に向けて発している秋波のようなものを最初に会った時から感じ取ってしまった。
だからこその、嫉妬、であった。
けど、これは確認をしたわけではない、独りよがりのものである。
なのに、依然実里に対してつっけんどんな態度を。
これでは駄目だと思いながらも、なかなか形成された印象を覆すことができずに、桂はまだまだ自分は子供だな、ちゃんと話をしてその上で判断しないといけないのに、と反省するのであった。
秦実里は、昔から自分は不純物のようなものであると認識していた。
そう思うようになったのは小学校の時、何気に観ていたバラエティー番組で、天然氷の説明を聞き、余計なものが含まれない氷はすごく綺麗であると知ってから。その時幼心にもハっと気が付くことが、女子のグループの中にいても疎外感とまではいかなくともなんとなく馴染めない、会話に参加しているのにどこか噛み合わない、齟齬が生じる、言葉が違う、自分がこの中にいる違和感のようなものが常にあり、友情という結晶の中に異物、不純物であると思うように。
友情というものが美しい結晶でないことは後に経験を重ね分かるのだが、だがそれでも自らの存在が不純物、群像の中に紛れ込んでしまった異物であるという認識は変わらず、実里は積極的に他者とはあまり交わらない学校生活を。
群れることなく、というよりも誰とも結合することなく多感な十代の日々を過ごした。
真面目に授業を受け、冷めたお弁当を食べ、好きな化学に没頭した。
孤独とは世間的な観点でいえばネガティブなイメージで受け取られるだろうが、この時の実里はそんなことを一切感じずに、煩わしい人間関係に苛まれることなく、好きなことに集中、そして大学受験に励んだ。
そのおかげなのか、化学以外の成績はあまり良くなく、志望大学は難しいかもと言われていたが、なんとか合格し、入学することが。
大学に入ってから実里の孤独は一変した
常に周りには誰がいるような生活になる。
端的にいうと、モテたのであった。
進学した大学は男が多く、紅一点とまではいかないが、女子学生は少なく、ファッションやコスメに全く興味が無いような実里も十分に恋愛対象に、というよりむしろその方が好感度が高かったのだが、なった。
だが、かといってそれで遅れてきた青春、恋愛にうつつを抜かすということはなかった。
学業を優先。ただでさえ本来の実力よりも高めの大学に進学したのだ、一部の学科以外は怠けていては単位が取れない、ひいては留年の危機に。
それでも化学の話ができる幸せな時間であった。
そんな実里であったが、一年の終わりに彼女に身に不幸な出来事が、事件が起きてしまった。
そう、事件であった。彼女がしかるべきところに訴え出れば、確実に犯罪として扱われるような代物であった。飲み会で酔いつぶれた際に、複数の男達に襲われた。強姦された。無理矢理膜を破られ初めてを奪われた。
だが、実里はそれを訴え出ることなく、また悲観することもなかった。
むしろ経験したことを、失ったことを逆に好機、奇貨と捉え、己の性を利用した。
こう書くと売女のように思われるかもしれないが、実里自身はそんなことを微塵も思わず、かつての高校の同級生の一部が行っていた援助交際のようなものであると考えていた。学力では劣るが、自身では魅力的ではないと思うけど、周りの男達に求められてしまう女という性を有効活用した。
だが、誰彼と構わずに行為をもったわけではない。むしろ行為自体はあまり好きではなかった。
相手が望み、そして自分にとって利益になるよう人物にだけ身体を許した。
同衾しない男達も無下に扱わずに、ちょっとしたサービスをし、利を得ていた。
有体にいえば、オタサーの姫状態、ただしファッションセンスはゼロに近い、であった。
金銭とは異なる多くの見返りを、主に単位面で、享受した。
おかげで単位を落とすことなく、卒業でき、院にまで進学でき、そのおかげで今も好きな研究を続けることができた。
一見すれば中心にいる存在、順風満帆なのであるが、実里自身は依然自分は不純物であるという認識であった。交わりこそすれ、結合できない。
抱かれはするが、それは互いが互いを利用した結果。
ずっとこのままなんだと思った矢先に、一人の人物が現れた。
奇妙な出会いをし、その後思いもよらぬ場所で再会を。
その人物とは稲穂のこと。
ちょっとした危機を救ってくれ、なおかつ自身の研究に興味を持ってくれ、さらにいうと若いながらも起業している。
それでも始めは、すごいな程度の感想しか実里にはなかった。
分野が異なる自分と話したところで理解してくれないだろうと考えていた。
ところがどうだ、化学的な知識は乏しいものの、自分の拙い説明を理解し、咀嚼して、なおかつ言語化して返してくれる。
昔から言葉の使い方が周囲から浮いていて、上手く自分の意図が伝えられなかった。だからこそ、言語化せずとも伝わる化学式を愛していた。
そんな自分言葉を理解してくれている。
学部、研究室内では会話はできるものの、外の世界では自分の言葉は通じないと諦めてきたのに。なのに分かってくれ、その上別の視点から、専門家ではないから故の気付きを発言してくれる。
ヘテロな性癖ではないけど、かといってこれまで多くの経験をしたけど別に男に対して恋愛感情を懐いたこともないけど、運命の出会いのように実里は感じられた。
出会うべくして出会う。結合するのが自然の成り行き。
資金の援助の話はそれはそれで有難いことだが、それ以上に稲穂と会えたことのほうが僥倖であった。
とりわけ用も無いのに稲穂の会社に足を運び、会話を楽しみ、時には部屋にお邪魔して彼女手製の夕ご飯をご馳走になった。
だが、良いことばかりではなかった。
稲穂と別の経営者の女性、成瀬桂、からの心証があまり良くない。
最初実里は、言葉が合わないこと、もしくは頻繁に来訪することが原因ではないのかと考えていた。だが、ある時その理由にはたと気付いた。
そう多くはないが、これまでの人生で何度かその身に感じたもの。
かわいらしく表現すれば、やきもち、のようなもの。
それに近い視線を桂から。
そして同時に、この二人がそういう関係であることを察した。
ならば、自分は歓迎されないわけだと悟った。
悟ると同時に、稲穂はそういう趣味なのか、これまで男に抱かれても快感なんか覚えなかったから、だったら新しい世界に、彼女に抱かれてみるのもいいかもしれないと、実里は思いつつも、パートナーがいるのにそんな漏棒猫のような行為を行ってしまったら桂に本格的に嫌われてしまう。
そうなったら資金援助の話もなくなり、稲穂との一時も消滅してしまう、と実里は考えなおし、ならば会いに来る頻度を減らしたほうがいいかなと思う、桂に悪い、申し訳ないと思いつつも、実里は自身の楽しさを優先するであった。
というわけで、今日も早くに研究室を抜け出して、ウキウキした気分で稲穂に会いに行くのであった。
つい先程まで、ほんの数分、いや数秒前まで実里の中にあった楽しい気分は、桂の言葉によって見事に粉砕されてしまった。
かといって、これは別に桂が実里に対して何か軽蔑する言葉を、あるいは非難するような言葉を発したわけでない。
では、何を言ったのか。それは、
「だから、稲葉くんは今居ないんだって。こないだ言ってたでしょ、急な仕事が入って海外に行くことのなったって」
新しく浮かんできたアイデアを話すことも、美味しいご飯を食べる計画も、瓦解してしまったからだった。
落胆しながら、実里は、確かに言っていたと回顧し、なんで忘れていたんだろう、それよりどうしようか当てが外れてしまった、舌は完全に稲穂の作る料理を食べるモードになっていたのに、味の濃いコンビ弁当を食べないといけないのかと悲嘆しながら、それよりも早くここから去ろう、いつまでもここに自分が留まっていたら、目の前の人物の気分を害してしまう、自分はあんまり好かれていない、稲穂がいる時にならばともかく二人きりでいるのは少々……。
と、考え、踵を返す。
そんな実里の意気消沈している背中に、桂は、
「……今からウチに来る?」
と、声をかけた。
「……はあ?」
その声に驚き、変な音を出してしまう実里。そんな実里に、桂は再び、
「だから、ウチでご飯食べていく? 稲葉くんが多分来るだろうって言って、多めに作り置きをしていってくれたから」
「……いいの? 私のこと好きじゃないだろ」
「ストレートに言うわね。……そりゃまあ好きじゃないけど、それでも別に嫌いというわけじゃないし、好きになれない理由は貴女というより、むしろ私の中にある子供っぽさが原因だし……。それはとにかく、来るの?」
「稲穂の料理が食べられるのは嬉しい。けど、本当に私が行ってもいいのか?」
「だから、いいって言ってるの。今日は麻実ちゃんもいないから。一人で食べるのは多すぎるから、せっかく作ってくれたのを食べずに腐らすなんて勿体ないことできないから」
「行く、食べる」
実里が了承の言葉を早口で。
二人だけの食事で互いに一歩ずつ前進し間が埋まり、その後の呑みで三歩後退し、さらにアルコールが進んで五歩前進することに。
そして後に友情とは異なる複雑な関係を醸造していくことになるのだが、それはまだまだ先の話。




