エイトハンドレッド
午後、というか夜ですけど。
「止めてー」
いつもとは違い眼鏡をかけている麻実。
その悲痛な叫びの声が室内に木霊した。
薄暗く、広さも高さも分からないような空間には麻実以外に五人の人物の姿が。
麻実の声はその五人の背中に向けて発せられたものであった。
この空間に麻実と五人以外の人間が存在したのであれば、声をかけられた集団が異様、おかしな団体であることは一目瞭然であった。
四人の屈強な黒のスーツを纏った男達。これだけでも十分に怪しいのだが、それを上回るような妖しさ、黒の男達とは対照的な白の衣装に身を包んだ小柄な小さな人物、女性。
まるで花嫁を連想させるような白い服も場にそぐわない異様さなのだが、それに輪をかけて異質なのが顔全体を覆う黒い仮面。
「お願いだからー」
再び麻実の叫びの声が。
今度は声を発すると同時に、五人に向かって突進を。
声だけではなく、行動をもって何かを阻止しようと。
麻実の目的は、仮面の女性であった。
四人の黒スーツの男たちは仮面の女を中心にし、それぞれ対角線上に陣取っていた。前後左右いかなる場所からの襲撃があっても対応できる、四人体制の警護の陣形であった。
そんな中に麻実は突進を試みた。
しかしあっさりとその行く手を阻まれてしまう。一人が麻実のほうへと歩を進め、麻実の身体を拘束。
黒スーツの男の男に抱きかかえられるように身体を持ち上げられ、地面に足が付かずにバタバタともがく麻実であったが、身体の自由こそ奪われるような形になったものの、まだ自由な部分、塞がれていない口を懸命に動かし、
「思い止まってよ」
と、仮面の女に声をかけ続けた。
その声にこれまでずっと麻実に対して背を向けたままであった仮面の女が反応した。
振り返る。
右手が静かに動く、微かに衣擦れの音がした。
右手は顔へと、仮面の上に。
女が仮面を外した。その下には成瀬桂の顔が。
「桂、もう止めようよ。こんなことしても誰も幸せにならないよ」
麻実は桂に声を。
その言葉に桂は首を横に振る。
「どうして?」
「……私は……稲葉くんを取り戻すの」
決して大きな声ではなかった。だが、その声には強い決意のようなものがあった。
「何言ってるの、桂? シロはちゃんといるじゃない」
「私が望んでいるのは稲葉志郎という人間なの。稲穂ちゃんや美月ちゃんじゃ駄目なの」
「どういうこと?」
「私が女だってことなの」
「はあ?」
「美月ちゃんや稲穂ちゃんも悪くない。でも、身体が男を、稲葉くんを求めてしまうの」
「何言っているの、桂?」
「私は稲葉くんと一緒に生きるの」
「どうやってそんなことを?」
「デーモンとデータの力、それから博士の知恵を使って私の中に新しい稲葉くんを宿すの。そして産み出して、彼を育てて、また愛してもらうの」
「そんなの駄目よ。デーモンの力は人類にはまだ早い、強すぎるってモゲタンも言っていたでしょ。そんなことしたら世界が滅びてしまうかもしれない」
「そうかも」
「そうかもって。桂分かっているならこんなこと止めようよ」
「……それはできないの」
「どうして?」
「私はまた稲葉くんと一緒になりたいの」
「今のままでいいじゃん。それって絶対に成功するとは限らないでしょ。世界を滅ぼしてしまうような危険なことなんかやめて、今まで通りに楽しく三人で暮らそうよ」
「成功するわ。そして私また稲葉くんと甘い生活を送るの」
「何で断言できるの?」
「だって博士が大丈夫って言ったから」
「博士って実里のことでしょ?」
「桂、実里のことあんまり好きじゃなかったじゃない。なのにどうしてそんな言葉を信じられるの?」
「そうね。麻実ちゃんの言うように、彼女のことはあんまり好きじゃない。でも、彼女の能力は信頼しているから。だからこそ私はこの計画に参加することを決めたの」
「……桂」
このやりとりを六人以外の人間が遠くから息を潜め観察していた。
暗がりの中で身動ぎ一つせずに。
動きがあった。
黒スーツの男に拘束されていた麻実の身体は解放された。
だが、もう麻実の身体には力が入らなかった。その場で膝をつき項垂れる。
下を向きながらも、小さく、呟くように、
「……ねえ桂……今いるシロはどうなるの?」
この小さな音は桂の耳へと届いた。
「稲葉くんは二人もいらない……だから、悪いけど稲穂ちゃんにはいなくなってもらうの」
「……そんなの駄目だよ」
「これはもう決定事項なの。力を持っている稲穂ちゃんは危険な存在なのよ」
「そんなの身勝手だよ」
「私一人の決定じゃないのよ、麻実ちゃん」
「桂」
再び始まった二人のやり取りに第三者が。
黒スーツの男の一人が、耳に手を当てイヤフォンの音を聞き、それから桂を促す。
「これ以上麻実ちゃんと話している時間はないの。そろそろ行かないと。復活の儀式が始まるから」
そういうと桂は再び仮面を。
「待って、桂」
「麻実ちゃん……さよう」
仮面の中から聞こえた桂の声は最後まで発せられなかった。
白の衣装の豊かに膨らむ左胸が赤く染まっていた。
「桂ー」
麻実の声が響く中、桂は静かに膝をつき、それから両手をつき、ゆっくりとうつ伏せに倒れこんだ。
垂れた桂の姿を見て、黒スーツの男達はイヤフォンに耳をあてながら周囲を警戒し、それから同時に動きだした。
四人は垂れ込んでいる桂には目もくれずに麻実へと突進。
「……何で桂を放ってあたしのところに来るの? 桂はアンタ達にとって大事な人間なんでしょ」
麻実の問いに黒スーツ男達は誰も答えなかった。
どのような目的があり、桂を見捨て、麻実に迫ってくるのか定かではなかったが、四人の手は確実に麻実へと伸びていた。
そんな麻実の耳に微かな声が聞こえた。
それは黒スーツの男達の一人のものであった。話す言葉は英語であったが、ここ最近の交友によって少しは英語ができる麻実にも理解できる内容だった。
「……桂は用済みだから、今度はあたしがターゲットなの……嫌、あたしはシロを裏切りたくない、世界を滅ぼす手助けなんかしたくない」
男達が麻実を取り囲む。
一人が麻実を羽交い絞めにしようとした。
「誰か助けてー、シロ助けてー」
麻実の声が引き金であったのか、それとも事前に準備は整っていたのか定かではないが、麻実を捉えようとした黒のスーツの男の背中が赤くなった。
前のめりに倒れこむ仲間を目撃し、男達は再び周囲を警戒。
だが、その警戒は無意味なものになってしまった。
次々と赤く染まり、地面にキスをする男達。
動いている人間は麻実一人に。
「……シロ」
誰もいない空間で麻実は一人小さく呟く。
その問いに応えるものは誰もいなかった。代わりに、麻実の胸に痛みが。
「……えっ?」
痛みを発した麻実は胸に視線を。
そこは先程の桂のようにいつの間にか真っ赤に染まっていた。
「……どうして? 何これ? なんであたしまで……」
言葉は途中までだった。
珍しくかけていた眼鏡を落とし、麻実の身体はよろめかせながら数歩歩く。
動かない桂の上に重なるように静かに倒れこんだ。
「……麻実ちゃん……重い、退いて」
倒れ、麻実の下敷きになっている桂の口が小さく動く。
苦しそうな音が。
「桂……あたしたちは死んだんだから動いちゃ駄目だから」
動いては駄目と言いながらも麻実も口を。
「それは分かっているけど膀胱が圧迫されて漏れそうなの。だから早く退いて」
その声には悲痛な色が。
「だから、まだ動いちゃ駄目なんだって。後ちょっと我慢してよ」
「……無理……そろそろ限界……」
室内にブザー音が鳴り響いた。
同時に、終了を告げるアナウンスが流れた。
少し修正。
次話は未定。




