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誤解が生みだす一騒動


 夏休みの終わりのある夜。

 神妙な、落ち込んだ表情を浮かべ顔面蒼白な蓬莱靖子と、その付き添いで田沼あや、保科知恵が成瀬家のマンションを訪れた。

 文と知恵は同じ高校に、靖子は以前桂が教鞭をとっていた私立高校に進学したが、腐れ縁なような交友は続き、高校二年の夏休みは桂の伝手で紹介してもらったアルバイトに一緒に従事。そして無事最終日をむかえアルバイト後に三人で打ち上げをしていたのだが、靖子の様子が変で話を聞くと、大きな失敗をしたと嘆き、それに続いて、紹介してもらった桂の顔に泥を塗ってしまったと、沈痛な、思いつめたような顔を。いつもは靖子のことを茶化したり、からかったりしている二人であったが、これには流石に心配になり、慰めようにも上手くいかず、急遽桂に連絡を。

 まだ仕事中であった桂は、夜自宅マンションに来てほしいと三人に告げた。


 来訪早々に、頭が床につかんばかりに下げ謝罪する靖子を宥めつつ、桂は三人を家の中へと招き入れた。

 部屋は香辛料の良い香りであふれていた。

 これは桂から三人が来ることを告げられた麻実が、稲穂仕込みのカレーを作っていたからであった。

 桂が仕事帰りに買い求めたお惣菜、それから麻実の作ったカレーを五人で。

 食べながら、話を聞くことに、靖子から詳細を聞き出すことに。


 箸、もといスプーンが全然すすまず、依然として消沈、落ち込んで申し訳なそうにし、涙を流している靖子を慰めつつ、何があったのかを引き出すことに四苦八苦しながらもなんとか成功を。

 要約すると以下の通りであった。

 桂の紹介されたアルバイトは接客業で、最初はあまり自信がなかったけど、交流があり尊敬もしているお姉さまこと稲穂のアドバイスを受け、礼節に気を配りながら業務に望んだら、お客様やお店側に大変喜ばれ、それに気を良くはしたが慢心することなく働き、自分では大変上手くいっていると自負していた。が、その自負はただの思い込みで、むしろ評価はその反対であった。最終日、すなわち今日の仕事でよく声をかけてくれる常連の年配の方に話しかけられ、その言葉を聞きそう思っていたのは自分一人だと思い知らされた、アルバイトなのに弁えていないと思われてしまった。それだけならばまだしもお店の名前を傷付けてしまった、それだけではなく紹介してくれた桂の顔にも泥を塗ってしまった、情けなさと悔しがない交ぜになってしまった。

 この靖子の話を聞きながら、

「そうなの? 靖子ちゃんの独りよがりだったの?」

 と、同じ店でアルバイトをしていた二人に桂が尋ねる。

「ウチは厨房のほうがメインやったからあんまり分からんけど、そんな悪評みたいなのは聞いたことないけどな」

「あたしよりも靖子ちゃんのほうがお客さんの受けが良かったよ」

「じゃあさ、最後のその常連さんの何か気に障るようなことでもしたんじゃ」

 と、これは麻実が。

「うーん……その常連さんってどんな方なの?」

 この問いに靖子は黙ったままで俯き、代わりに文が答えた。

「えっとね、たしかお爺ちゃんで、ナイスミドルって感じで、そんなに気難しそうな人じゃなかったような気が。あたしはあまりその人の接客はしてないから分からないけど。あ、後たしか本の話をよくしているって靖子ちゃんが言っていたような気が」

「なるほどね……」

 桂はしばし考え、そして徐に、

「もしかして靖子ちゃん、その人に慇懃って言われなかった」

「……はい……言われました……私が失礼な接客をしたから……」

「そんなに気にしなくても大丈夫よ。その方は靖子ちゃんのことを褒めているから」

「……えっ?」

「それってどういうことなの桂?」

「何でそれが褒めてることになるんや?」

「そうだよ、慇懃無礼って悪い意味の言葉なんじゃ?」

 と、四人がそれぞれ疑問の声を。

 その疑問に桂は即答せずに「ちょっと待ってね」と言い残し、部屋を出、かつての仕事道具であり、使い込まれた国語辞典を片手に戻ってきた。

「ほら、ここ」

 そう言いながら桂は開いた辞書を指さす。

 そこには、慇懃の項目が。

 慇懃

 一/(形動)礼儀正しいさま。ていねい。

 二/(動)親密なこと。男女の情交。

 と、書かれていた。

 その文字を見、続く慇懃無礼の項目を見、自分の中の記憶でハッキリと件のお客様が、慇懃、と言っていたこと、続く無礼と言葉を発していなかったことを靖子は思い出し、それから安心し、ずっと心の中にあった澱のようなものがようやく晴れ、目の前のカレーの香辛料ん香が鼻腔をくすぐりが食欲を刺激しながら、

「……良かった……」

 と、さっきまでの涙交じりの声とは違う、けどやはり涙声の安堵の声を上げた。

「良かったわね、靖子。それにしても慇懃なんて言葉があるなんて知らなかった」

「ウチもや」

「なんか紛らわしいよ」

「まあ、しょうがないわよね。慇懃よりも慇懃無礼という言葉のほうが有名だから」

「けどさ、そのお爺ちゃんももうちょっと言葉を選んで言ってくれればいいのに」

「そのお客さん靖子ちゃんと偶に本の話なんかをしていたのよね」

「……あ、はい……古い本の話を」

 さっきまでは全然なかった食欲が香辛料によって刺激され、一口も口にしていなかったカレーをようやく口中へと入れ味わい、胃の中へと落とし入れたのに、まだ空腹を強く訴えてくる胃を満足させるためにさっきよりも多めに、少々はしたないけど口一杯にカレーを頬張っていた靖子が、急に桂に聞かれ、慌てて咀嚼しながら返事を。

「だとしたら多分だけど、これは私の推測なんだけど、その人は靖子ちゃんなら問題なく伝わると思って言ったんじゃないかしら」

「でも、伝わらへんかった」

「まあ、しょうがないよね」

「けどさ、人騒がせなお爺ちゃんだよねその人」

「うーん、年代によって言葉が違うということはよくあることだからね」

「桂センセー、年によって言葉が違うとかあるん?」

「そうだよ、言葉なんて全部、日本語話す人ならみんな同じ意味なんじゃないの?」

「えっとね……全然という言葉があるわよね。みんなはどんな時に使う?」

「全然大丈夫とか」

「そうそう、全然平気とか」

「肯定の意味合いで使うかな」

「何かを強調する時にとかですか」

「今は大体そんな感じでみんな使っているわよね。でもね、ちょっと前までは否定の意味で使用する人が多かったの。麻実ちゃんが言ったような肯定の意味で使用するのは間違いとされている時もあったのよ」

「へー」

「なあ、桂センセー。こういうのって受験に出るんかな?」

「どうかな……全然は分からないけど、誤用に関する問題なんかは結構出ると思うよ」

「例えばどんなの?」

「うーん、すぐには思いつかない……あ、そうだ、破天荒という言葉があるけどどんな意味か分かる?」

 この桂の問いに来年の受験の三人は真剣な表情で考え、やがて、

「……豪快とか大胆っていう意味じゃ」

「うん、そうそう靖子ちゃんの言う通り。なんかさ、芸人さんがそんなこと言っていたような気もするし」

「ああ、そんな芸人もおったな」

 そこに一足先に受験を終了し、現在大学生、いわゆる花の女子大生である麻実が、

「違うわよ、三人共」

「そうなの麻実さん?」

「破天荒というのはね、中華レストランの名前よ」

「まあ、麻実ちゃんのボケは置いておいて、全員不正解」

「ボケにもう少し対応してくれてもいいんじゃない、シロなら絶対に突っ込んでくれるのに。まあ、それはいいとして意味違うの? あたしもそうだと思ったんだけど」

「正解は、誰も成し得なかったことをすること、前代未聞という意味合いなの」

「そうなんだ」

「先生―、他には」

「役不足は、今じゃ世間に浸透しているわよね」

「その人の役目が実力よりも低いことですよね」

「靖子ちゃん正解。でもね、昔は誤用のほうが、反対の意味で使用している人のが多かったのよ。かくいう私もそうだったけど。後は……」

「別に受験に関係なくても、誤解してそうな言葉でいいからね桂先生」

「だったら、爆笑かな」

「爆笑って大笑いすることやろ、誤解する余地なんかあんの?」

「そうだよね、他の意味なんか思いつかないけど」

「それがそうでもないんだよね」

「えっ、麻実さん知ってるんですか?」

「まあね。といっても前にシロと桂から教えてもらったんだけどね」

「お姉さまにー」

 靖子は稲穂のことを慕っていた。今はこの場にいない人の名前が出た途端に声が一オクターブ高くなる。

「はいはい、落ちつこなー。そんで麻実さん答えは」

「爆笑はね一人ではできない行為なの」

「はい?」

「だからね、一人でする時は大笑いで。大勢で笑うことが爆笑なの」

「はー、そうやったんか。普通に一人でも爆笑とおもとったわ」

「あたしも。テレビなんかでもよく見るしね」

「そうね。まあそれでも意味は通るから。でもね、厳密に言うと間違いなのよ」

「先生、他には何かありませんか?」

「そんなに急にポンポンと出てこないから。ちょっと待ってね……」


 その後も桂先生のプチ授業、受験対策の講義は続いた。それは皿の上のカレーをすっかりと平らげ、鍋の中身を空っぽにし、買ってきたお惣菜も全部胃の中に収納しても終わらなかった。

 高校生である三人は、成瀬家にお泊りを。

 未成年の女子を夜間に帰還させるのは危険であった。タクシーで帰すという手段もあったのだが、三人共にもっと話を聞きたい、したいというので急遽お泊り会、パジャマパーティーへと。

 パジャマなんかは貸し出すことは可能なのだが、下着はちょっと心理的な面でということで、急ぎコンビニへと行き、下着と追加のお菓子を購入し、再び桂の授業は再開。

 そこで桂が語った内容は、

「あ、そうそう、これも結構重要なことなんだけど受験の問題に新聞の記事が使用されるというのはみんな知ってる?」

「テレビのCMで観たことある。何処の新聞か憶えてないけど、一番使われているって言ってた」

「ウチもそれ見た記憶あるけどホンマなん?」

「けど、有名な新聞社なんだからそんな嘘はつかないんじゃ。それに新聞に書いてあるなんだから文書もしっかりしていて問題にしやすいんじゃないのかしら」

「問題にしやすいのは靖子ちゃんの言う通りなんだけど、理由はちょっと違うかな」

「それってどういう意味なんですか先生ー」

「あのね、受験問題に採用されている理由は記事の文章が結構な曖昧だからなの。どっちのでも取れるような文章になっているからなのよ。だから問題は作りやすいし、受ける側は迷いやすいのよね」

「新聞とかあんまり見ないけど、記事ってそういうものなの?」

「ウチも見いへんな。見出し見るくらいか。けどさ、見出しは結構強烈な文言で書いてない」

「私もそんなに読まないけど、たしかにそんな印象よね」

「人から聞いたから本当かどうか分からないけど、見出しが強烈なのは購買意欲を煽るためで、中身がどちらにでも取れるようにする文章なのは、仮に裁判になって訴えられた時なんかに上手く逃げるための方法なんだって」

「なんか世知辛いな」

「でもさ、新聞って正しいことを書くんじゃないの」

「そうよね、信頼されているからこそ読まれているはずだし」

「それがそうじゃないのよ、若人よ」

「麻実ちゃんもまだ若人よ。まあそれはともかく新聞も一企業だからね、売れるための、利益を追求するためなのは一応理解できるけどね。でもね……新聞に書かれていることが、報道で流れているニュースが全部正しいなんてことないからね、間違いも当然あるし、意図的に捻じ曲げた記事を載せることだってあるの。だから、きちんと気をつけて判断しないと」

「センセーなんか実感こもってない?」

「まあ、ここ一年で色々とあったからね……世の中見えている景色だけが現実じゃない、裏側があるってことなのよ。例えばね……」

 夜が更ける頃、受験対策の国語の授業から、絶対に受験には出ない社会の裏側の授業へと変貌していった。


令和三年二月の時事ネタ。


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