その後、
蛇足のような話。
あの日以来ずっと、成瀬桂は喪失感のようなものを懐きながら日々を過ごしていた。
正月も実家には帰らず、一人、あの広すぎると感じる部屋で、寂しく過ごした。
正月休みが明け、日常の生活に戻っても、伽藍とした、空虚な、突然何か大事なものを失ってしまったような感覚は消えてなくならず、むしろ日ごとに悪化していく、落ち込むような日々が。
それでも自暴自棄に陥り、全てを投げ出して失踪、または自らの決意で愛する人の元への片道の旅路に出るというような行動は起こさなかった。
今の教え子に対しての責任のようなものもあるし、またどういった事情でそうなったのか忘れてしまったが、同じフロアに住んでいる子の同級生の高校受験を手伝うことを一方的に放棄してしまうのは。合否はともかく、試験が終わるまではしっかりサポートしないと。
そうは思うが、寂寞の想いは常に桂の内にあった。
原因を探す。
思いつくのは、二年近く前に失った彼のこと。
それ以外に思いつかない、考えられない。
いっそのこと、新しい恋でもしてみようかと桂は決心。
秋葉原で亡くなった彼にこの先もずっと操を立てて生きていく人生もそれはそれで有りとは思うが、彼はそんな生き方を望んでいないような気がする。
だけど、彼以外の男の人との恋愛なんて想像つかない。
ならば、いっそのこと行きずりの男に身を委ねてしまうのは。
彼以外に誰にも許していない身体を、全く知らない男に嬲られる。そうすればもしかしたら、この寂しい気持ちを忘れられるかも、肉欲に溺れる間は辛い気持ちから解放されるかもしれない。
そんなことを考える、想像するが、結局のところ、桂は何も行動せずに、空虚感を懐きながら日々を過ごしていった。
二月になっても桂の中の空虚なものは埋まるような気配を見せなかった。
それどころか、心の穴は以前よりも大きく、空虚になっていくような気さえした。
そんな桂に異変が。
頭の中に幻聴、何か伝言のような、メッセージのようなものが脳内に幾度なく流れるように。
こんなことは今までの人生で一度もなかった。霊感なんていうものとも無縁の生活を送っていた。
それなのに、謎のメッセージが時折頭の中に聞こえてくる。
自分でもよく分からない疲労が蓄積され、脳内が混乱し、ありもしないようなメッセージが流れてしまったと、冷静に考察し、ならば、もう少ししたら仕事が少し一段落するから、正月には帰らなかった実家へと行き、ついでに婚約した兄とその相手にお祝いを。都会の喧騒を離れて心身ともにリフレッシュをしようと画策。だが、それでこのおかしな現象は解消されるのだろうか、もしかしたら気付かない欲求不満のようなものが引き起こしているかもしれない、ならば以前に一度計画したものの、その気にはなれずに即座に撤回、破棄したことを今こそ実行してみるべきなのか、と桂は考える。
考えはしたものの、考えただけで終わってしまう。
頭の中にメッセージは未だ届き続ける。
そんな状態で桂は職場の学校を出て、帰宅と途についた。
最寄り駅を乗り過ごしてそのまま乗車。
こんなのは妄想みたいなものと桂は思いつつも、それでもつい気になってしまい、自分の部屋からでもメッセージの内容を確認することは可能だが、より分かりやすい、見えやすい、街の灯りの影響の少ない場所へと。
人気はあまりなく、少し怖いとは思いつつ、もしかしたら女一人でいるところを狙われて襲われてしまうかもしれないと妄想してしまい、ならば脳内のメッセージなんかは無視してさっさとこの場から立ち去ってしまうということを一応検討しつつも、やはり気になってしまい、それにどうせ欲求不満の気があるみたいだから、もしそんなことが起きたとしたらそれはそれと少し自嘲的に、やけくそのような気分に桂はなった。
冬の澄んだ空気に、雲の無い夜空。
桂は見上げる。
星が一つ、夜空を流れた。
あのメッセージの内容は本当に起きた。でも、どうしてそんなことが分かったのだろう? 憂鬱な気分、空虚な気持ちによって、突然変な力が目覚めてしまったのだろうか、などと少々馬鹿なことを想像してしまった桂の脳裏に突如として浮かび上がってくるものが。
その瞬間、桂は全てを思い出した。
と、同時にこれまでずっと空虚な、胸の中にぽっかりと穴が開いたような感覚が自分の中にあった理由を悟る。気がしたではなく、本当に喪失していた、失っていた。部屋が広いと感じたのも、ベッドが大きいのも、クローゼットやチェストの衣装が以前よりもなんだか少なかったような気がしたのも、全然使わないはずのキッチンに調理道具が揃っていたのも、そして調味料が数多く存在していたことも、銀行口座の謎の入金も、欲求不満が原因じゃないかと想起させた身に覚えのない大人のおもちゃも、全部気のせいじゃなかった。居たんだ。好きな人は、その姿を変えてもずっと傍に居てくれたんだ。
桂の脳裏には、伊庭美月と過ごした日々が走馬灯のように。
その間にも星は流れ続けていた。
このメッセージは、伝言は、稲葉くんからのものだ。でも、どうして脳内に流れたのか、そんな疑問を桂は持つが、すぐに自己解決を。こんなことは初めてだけど、似たようなことは経験している。頭の中のナノマシンを経由して送っているんだと桂は想像。
それじゃ、次は何のために、新しい疑問が桂の中に。
考えている間も星は落ち続ける。
桂は考えるのを止めた。
だが、思考を停止したわけではない、別のことを考える。
今はそんなことをあれこれと考えている時間はない、メッセージに応えないと。彼は流れ落ちる星に、幸せになるよう願いごとをしろと送ってきた。流星が終わってしま前に、願いごとしないと。
自分が幸せになるとはどういうことか桂は考える。
ある想いが浮かんでくる。
急いでお願いをしないと。
桂は流れる星を見ながら、
「稲葉くんにまた逢いたい、お願いします。稲葉くんにまた逢いたい、お願いします。稲葉くんにまた……」
流れ星に三度願いごとを唱えると、願いが叶う。子供の頃はそう信じていた。だから、桂は流星を見ながら、また逢いたい、と祈るが三度目の途中で星は流れなくなった。
願いごとは叶わないのでは、と内から不安が沸き上がってくる桂であったが、すぐに自らのマイナス思考を振り払い、あれが正式のやり方かどうかわからないから三度と唱えなくてもきっと大丈夫なはず、という自己矛盾した解釈をし、それよりもいつまでもここにいないで、急いで確認をしないといけないことがと思い付き、桂は踵を返し、駅へと一路。駅に着くが、電車を待つ時間すら惜しくなり、タクシーを捕まえて大慌てで帰宅。
タクシーから飛び降りた桂は、階段を駆け上がり、自分の部屋、ではなく麻実の部屋へと。
病弱な麻実は対応してくれるか? これならタクシーでの移動中に連絡を取っておけば、と桂は後悔しながらも、チャイムを押す。
桂の懸念は良い意味で空振りに。麻実は体調が良さそうで、急な来訪にも対応してくれた。
「ねえ、麻実ちゃん……いな……じゃなくて、美月という女の子のこと知ってる?」
伊庭美月という少女のことを憶えているのは自分だけなのか? 思い出したつもりではいるけど、もしかしたらこれは悲嘆にくれる自分が脳内で勝手に作り出した妄想なのかもしれないと桂は思い、それを一刻も確認したかった。
だから、息が切れたままで、整わないうちに訊く。
「桂……なんで、シロのこと憶えてるの?」
麻実は驚いたような表情を浮かべる。
これまで桂はずっと美月の、み、の字が出てくることがない程完璧に忘れて生活していたのに、それを突然思い出し、しかも口にするなんて想像もしていなかった。
「麻実ちゃんも、稲葉くんの、美月ちゃんのことを憶えている。私だけじゃないんだ」
自分一人の妄想ではなかったという確認が取れ、桂は安堵した。
「それよりも、何で桂はシロのことを思い出しているの? シロが消したんじゃ」
安堵する桂とは対照的に、まだ驚きの表情のままの麻実が。
「流れ星を見たら、突然全部思い出したの」
「流れ星?」
「稲葉くんからのメッセージがあったの。今夜東京の上空に流星が降るから、幸せになる願いごとをって」
「なにそれ? でも、そんなメッセージが桂に届いたってことは、シロは無事なのね」
「……分からないの、それは……いきなり頭の中に届いたから……」
「そっか……」
「……あ、麻実ちゃんは稲葉くんのことを憶えているということは、忘れていたのは私だけ……でも、靖子ちゃんは美月ちゃんのことは何も言っていなかったし、それに知恵ちゃんも文ちゃんも……」
蓬莱靖子は桂が受験勉強の手助けをし、見事桂の勤める私立高校に合格していた。
だが、教えている時、そんな素振りは全然見せなかった。
「シロは、伊庭美月と交流があった人の記憶は全部消した、改竄したから」
「麻実ちゃんはどうしてそのことを知っているの? それにどうして憶えているの?」
「あたしは、シロにお願いされたから……桂のことを」
その後、桂と麻実は色々と話をした。
ナノマシン経由で、美月から得た情報を麻実は桂に伝える。記憶を消す、改竄して周ったけど、全ての人に忘れさられてしまうのは寂しい、ということで憶えておいてほしいと託されたこと。
桂は、自暴自棄になって過ちを犯そうかなと考えてしまったことを告白し、懺悔し、それからどのように頭の中にメッセージが届いたのかを話す。
そしてもちろん、伊庭美月という少女と過ごした日々のことも。
「ねえ、桂はさ、流れ星にどんな願いごとしたの?」
「稲葉くんにまた逢いたいって。……ああ、でも三度目の途中で消えちゃった」
笑いながら、でも少しさみしそうに桂は言う。
「戻ってくる、シロは帰ってくると思う?」
「…………」
「こんなこと言うのもなんだけど……シロはさ、桂には幸せになってほしいから、記憶を消して月に行っちゃたんでしょ。もう、戻ってこないんじゃ、二度と姿を見せないんじゃ」
「…………」
「メッセージも、桂には幸せになってほしいという想いからでしょ。……だったら、他のことを……」
「……いいの、これで」
「でもさ」
「今の私の幸せは、稲葉くんの、美月ちゃんのことを思い出して、それで待って、また逢うという希望が持てたことなの」
今彼がどんな状況にいるのか全然分からない。それでも待っていれば、再び逢うことができる。そう、桂には信じられた。
その言葉を聞き、麻実はしばし唸り、考え、そして徐に口を開き、
「うーん……分かった。それじゃ、あたしも付き合ってあげる」
自らの意思を桂に伝える。
「麻実ちゃん?」
「シロに桂のことを頼まれたからね。だから、あたしも桂と一緒にシロが帰ってくるのを待っててあげる」
こうして、桂と麻実。年の離れた友情ともちょっと違う、家族の情愛のようなとも少々異なる、同じ目的を持つ、料理ができない二人の共同生活が始まった。
半年後。
「麻実ちゃん、私稲葉くんのこと探しに行ってくる」
待つと決めてから約半年、麻実の高認試験が終わると、桂は突然美月を探しに行くと宣言した。
「はあああ、何言ってんのよ桂?」
「西のほうにいるような気がするの」
「どういうこと? 待ちすぎて頭おかしくなっちゃったの?」
「もしかしたら、そうかも」
「桂……」
「あのね、頭の中になんか変な電波みたいなものが出てて西の方向を示してるの。これって昔、稲葉くんが私の前からいなくなった時に感じたのとそっくりなの……だから、今回もこれに従って進めば良いような気がするの」
「あ、それってもしかしてシロが桂に正体を明かした時の?」
「うん、そう」
「……だったら、もしかしたらいるかも」
「でしょ」
「あ、でも、あたしは付いていけないかも……試験が終わって気が抜けたのかな、あんまり体調が良くないから」
麻実は高認試験の直後から、少し体調を崩していた。
「ううん、一人で行くから。麻実ちゃんは、もしかしたら稲葉くんがここに帰ってきたときに対応して、それから私が帰って来るまで絶対に引き留めるという役目をおねがいしたいから」
「了解」
「あ、後ね、サポートをお願いしたいの。よく分からずに探すから、電車のこととか知らないし、それに迷子になってしまうかもしれないし。そんな時に、麻実ちゃんが家でパソコンで調べて教えてくれれば心強いかなって」
「だったら桂もスマホにしたらいいのに」
「私にはスマホは無理よ」
桂はまだガラケーを使用していた。
機械が苦手ということもあるが、それ以上にこの機種は美月と一緒に選んだもので、それを変更する気にはなれなかった。
「それでもう行くの?」
「うん、とりあえず様子見で、二日くらい行ってくる」
そう言って、桂は美月を探す旅に出かけた。




