覚悟と決意と手段
美月は桂の記憶を消す前に、これまで伊庭美月と交流のあった人達の記憶を改竄して周っていた。
桂一人の中から、伊庭美月という少女の記憶をきれいさっぱりと消し去ってしまっても、他の人との齟齬で万が一にも思い出してしまうかもしれない。そうならないように。
記憶を改竄したのは美月が、完全に桂のことが嫌いになったからではない。
その反対ゆえに。
好きになった人には幸せになってもらいたい。けど、自分がずっと傍にいることで、桂が幸せになるチャンスを阻害して、邪魔になってしまうのではないのかと考えた。いなくなってしまえば、彼女はこの先良い人と巡り会って子供を授かる可能性だってある。
だから記憶を改竄し、痕跡を消した。
そしてそれとは違う他の理由も合わせ、美月は最後の思い出としてデートをし、そして彼女の前から消えた。
だが、関わりのあった全ての人の中から伊庭美月の記憶を除去してしまったわけではない。
例外が一人いた。
それは八神麻実。
望んだこととはいえ、全ての人の記憶から消え去ってしまう、忘れられてしまうのは悲しい、だから事情を知っている人間、自分と同じデーモンである麻実にだけは伊庭美月のことを覚えておいてもらおう、そう考えた。
それなのに美月は桂と別れた直後、麻実の元へ。
記憶を消さない、改竄しないのだから会う必要はない。むしろ、会うことによって麻実の内にある本能のようなものを再び目覚めさせ、争いになるかもしれない危険性がある。
なのに、美月は麻実の前へと。
行方をくらましていた麻実は、名古屋の実家へと帰っていた。
「シロ……ほんとに大丈夫だったんだ」
美月の姿を見た瞬間、麻実は一瞬息をのみ、驚愕し、それから安堵したような表情を。
「電話でも言ったでしょ、平気だって」
麻実のほうも美月を見て、我を忘れて襲いかかるようなこともなかった。
「……良かった。……でも、痛かったでしょ。……ほんとにゴメンね」
本当に安心したような声を出し、それから麻実は美月に近付き、自分が突き刺した美月の小さな右胸に優しく触れた。
「もういいから。……ところでお願いがあるんだ、麻実さん」
「何?」
「麻実さんの力、俺に譲ってくれないかな」
「まさか……シロも目覚めてしまったの」
そう言いながら、後方へと跳び、距離をとる。
「違うよ。俺はまだバグのままだ。今からバグらしくさ、プログラムの邪魔をしに行くつもり」
「じゃあ、どうしてあたしの力が欲しいって言うの?」
「危険だから」
「……」
「モゲタンが言うには、まだ地球上に残っているデーモンがいるかもしれない。そうだった場合、麻実さんの力を奪いにやって来る、命の危機になってしまうから。後は、これは可能性としては低いけど、全てのデーモンが消滅して、まだ卵子が受精前だった時、麻実さんの中にある、今は抑えている本能みたいなものがまた目覚めて、月を目指すかもしれないから」
美月の説明を少し距離をとった場所で聞き、しばし麻実は考え、そしておもむろに口を開いた。
「……ねえ、シロ。前にした約束って覚えてる?」
この問いに美月は、麻実とは色んな約束をしたけど、一体どれのことなのだろう? この状況下で何かを作ってというのはないはずだし、何だろうかと逡巡しているところにモゲタンがおそらくこれであろうという助言を。
「麻実さんの身体を健康にすること?」
全てのデータを回収し、月に裏側に不時着した宇宙船に戻り稲葉志郎に戻る時、麻実は力を返上する代わりに健康な身体にしてほしいと言っていた。
「うん、そう……できる?」
月の裏側の宇宙船云々は嘘である。力を渡したら元の病弱な、ずっと死に怯えるような生活に戻るかもしれない。非常時ではあるが、健康な生活を満喫した今では、もうずっとベッドの上で生きるのは耐えられない。
「可能か? できるって。けど、今までのような生活は無理かもしれないって、麻実さんの中にあった病気を根治することまではできないって」
脳内でモゲタンに訊き、返ってきた答えを麻実に伝える。
「……うん、それでもいい。……あたしをシロにあげる」
「ありがとう麻実さん」
「で、どうすれば渡せるの?」
「俺に触れてくれれば、後はモゲタンがしてくれる」
「うん、わかった」
とっていた距離を再び詰めて、麻実は美月の手を取り、自分の豊かな胸に押し付ける。
麻実の能力が美月へと移譲される。
この時、美月も麻実に送ったものがあった。それは身体の病魔を癒すためのナノマシンと、桂を始めとする親しい、交流のあった人達の記憶を改竄し、伊庭美月という少女が存在しないということになっている情報も。
力を失った途端、麻実はこれまでのような軽やかな体の感覚を失い、急に全身の力が抜けたように重たくなったように感じる身体に立っていることが耐えられず膝をついてしまう。
が、それどころではなく必死に言葉を、
「シロ、これ? 何で? 全部終わったらまた帰ってきて一緒に、桂と三人で楽しくするんじゃないの?」
「……ごめん、麻実さん。もう帰って来るつもりはないから」
「玉砕覚悟の特攻をするつもりなの?」
まだ立ち上がることができず、さっき出した大声で息苦しいのを我慢して、無理に押さえつけて麻実は弱々しい声で訊く。
「違うよ。……詳しいことは言えない。……でも、帰って来てももうみんなの前に姿を現すことはないから」
「何言ってるのよシロ」
息が切れて苦しいけど、必死に麻実は声を出す。
「桂のことお願いね。……それじゃあ」
「ちょっと、シロ……」
もうすでに美月の姿は麻実の前から消えていた。
美月が麻実の前から姿を消し、次に移動したのはB-29の眠る地下空間だった。
だが、B-29に用事があるわけではない。
美月がここに来た目的は、必要としているのは、B-29の機体の中にある核融合。
これを自らの小さな身体の中に取り込むためにやってきた。
これまで数多くのデータを破壊、そして回収してきた。麻実流に言うならばレベルアップを何度かし、最後の経験値稼ぎまで行った。
相当強くなったはず。美月自身にもその自覚のようなものはある。
だが、それで絶対に負けない、未来を確実に守ることができるという確証はない。
地球を離れ、現在月を目指しているデーモン達はどれも強敵になりうる存在になっているはず。
だからこそ、美月はさらなる力を求め、核融合を自らの中に取り込むことを決意した。
強くなるはずだし、さらに言うとこれまでずっと懸念であった、カロリー不足、エネルギー不足という問題も解消される。無尽蔵のエネルギーを確保できる。
しかし良いこと尽くめ、メリットだけではなく、取り入れることによってもたらす害悪、デメリットも存在する。
美月とモゲタンの能力では、この核融合を完璧に制御することは不可能であった。コントロールは可能だが、放射能の漏洩は完全に防げない。
自然界にも放射能は存在するが、美月の中から漏れ出る量はそれを遥かに超えたものとモゲタンは予想。
そんな人間が社会生活を送るのは迷惑に他ならない、毒をまき散らす存在となってしまう。
そして、一度取り入れたものを分離するのは難しい。
だからこそ美月は、桂や他の人の記憶を改竄し、そして二度と戻ってこない覚悟を決めた。
苦渋の決断であった。それを決めたベッドの中で、桂の柔らかな身体の感触を抱きしめながら幾度となく自問自答し、モゲタンと相談し、そして決断し、それが揺らぎ、また覚悟を決め、それが壊れそうになり、何度目かの決意を。
〈いいのか、本当に? まだ今ならば引き返すことは可能だ。これをキミの中に取り込まなくとも宇宙に上がるロケットはある、それに他のデーモンと十分に渡り合うだけの力は有しているぞ〉
今の美月の姿、麻実がデザインしたマルボロレット色のコートの背中には、ポップから受け取ったロケットが。
「いい、構わない。……で、俺はどうすればいいんだ?」
〈分かった。中に入って核融合本体に触れてくれ〉
「了解」
B-29の機体中央にあった直径1メートル程の核融合の炉、つまりコアは、美月が手を触れた途端、みるみる小さくなっていき、やがてソフトボールくらいの大きさに。
それをモゲタンの指示に従い、美月の生殖器官が、子宮のない腹部へと収納。
〈これで完了だ〉
「さてそれじゃ、バグらしくプログラムの邪魔をしに行くとしますか」
わざと明るく美月は言う。
〈ああ〉
「……ちょっと待った、その前に……できるか?」
頭の中にイメージを。
〈それくらいならば可能だ〉
美月は姿が変化する。
マルボロレット色のコートから、アニメやSF映画でよく見る、装飾品の少ないシンプルなデザイン、ボディラインが強調されたものに。これは以前麻実によって出された案に酷似しているもの。その時は桂のよって扇情的過ぎるということで却下になったもの。これを美月が新たに選択したのは、桂というストッパーの存在がいなくなったからではなく、こことは違う地下空洞で眠るポップと共に月へ行くという意志のようなものを込めてであった。最初美月はポップ同様にレトロフューチャーな宇宙服をイメージしたのだが、この小さな華奢な体には似つかわしくないような気がして、今のエヴァのプラグスーツやヤマトの衣装のようなものに。背中にはポップから受け継いだロケットエンジン、そこに推進剤を詰め込んだタンクを増設。頭部にはヘルメット、これもアニメに出てくるようなデザイン。ただし、美月の考えでは透明のバイザーだったのが、モゲタンの意見を採用し金色のバイザーに。そして全体の色は、白色。これは麻実に敬意を払ったものであった。
新しい姿になった美月は、B-29のある地下空洞から空間移動で地上へと移動し、夜空に浮かぶ月を見上げた。
「じゃ、行くか」
〈了解だ〉
背中のロケットを盛大に吹かせ、美月の身体は勢いよく空へと舞い上がり、夜空へと消えていった。




