クリスマスデート
その後、桂が美月に頼まれて作っておいた麻婆豆腐を温め直し、その間に美月は焼きそばを調理。焼きそばの上に麻婆豆腐をかけ、麻婆焼きそばを。
二人だけでの遅い夕食を。
いつもは賑やかな食卓だが、今は言葉はなく、ただ麺を啜る音と、咀嚼の音だけが虚しく聞こえるだけ。
そしていつものように一緒にお風呂に入り、同じベッドで眠る。
だが、互いに終始無言であった。
お互い口を開けば、またあの不毛なやり取りが再開、勃発してしまうということが分かっているから。
二人ともに、相手のことを嫌いになったわけではない。互いに、身を案じ、尊重しているからこそ、生じたズレ、すれ違い。
それゆえに、これ以上の言い合いを望まなかった。
しかし、口を開くと言わないでおこうとした言葉を発してしまう可能性がある。そんなことはしたくない。
だから、二人とも黙ったままで眠りについた。いつもとは違い背中合わせで。
先に寝息が聞こえたのは桂であった。
美月は、モゾモゾと寝返りを打ち、しばし桂の後姿を眺め、それから腹部に手を回し、自分の小さな胸を背中に押し付けるようにして抱きしめる。
突然感じた感触と温かさで桂の目が覚める。
といっても、完全に目が覚めたわけではなく、微睡の中で、背中越しの柔らかい感触と心地良い抱擁に身を任せながら桂は、行って欲しくないのは紛れもない本心だが、それでも美月の意見もまた理解でき、どちらが正しいのだろうと悶々と覚醒していない頭で考えながらも、結局分からずじまいで、それはともかくこのまま喧嘩したみたいな雰囲気は嫌だ、共に気遣っているからこそ生まれたすれ違いを引きずったままで生活するのは、明日目が覚めたら一番に「昨日はごめんね」と謝ろうと思いながら、また眠りについた。
昨日は確かに感じていたはずの背中の感触がなく、もしかしたら昨日のあれは別れの抱擁で、何も告げずに美月はベッドを抜け出して月に向かったのでは、と思い、慌てて跳ね起きた桂の鼻腔を甘い香りがくすぐった。
良かった、と安心する桂の耳に美月の朗らかな、鈴のような声が、
「おはよ。桂、今日さ仕事終わった後って何か用事ある?」
桂は脳内でスケジュール帳をめくり、たしか予定はないはずだけど、もし何かあったとしても思い出せないのだから特に大した事柄ではないはずと考え、
「別にないけど、何で?」
「うん、今日さデートしようかなと思って」
「……デート……いいの、稲葉くん? 今年はしないって決めていたんじゃ」
諸々の事情で今年度のクリスマスデートは行わないことが決定していた。
「まあ、もう別にいいかなって思って。それでどうする? 止めにしておくか」
少々意地悪そうに美月は訊く。
美月のほうからデートの誘いがあるのは珍しいこと。しかし桂はすぐにその申し出には飛びつかず少し思案するが、いつもとはちょっと違う様子の美月に、もしかしたら昨日の件を謝りたいと思っているのは自分だけではなく、向うも、だから仲直りのために誘ってくれているんだと、合点して、
「する、絶対にする」
「了解。それじゃ去年見たイルミネーションに行こう。また待ち合わせをして」
「うん」
「じゃあ、決定。それじゃ顔を洗って来いよ、そんで朝飯食おう、フレンチトースト焼いたから」
甘い香りの正体はフレンチトーストだった。
「分かった」
昨夜の嫌な気持ちはもう桂の中から消え去り、不器用なスキップをしながら桂は洗面台のある脱衣所へと消えていった。
桂の中の、美月を行かせたくない、これ以上傷付く姿は見たくない、心配しながら待つのはもう嫌、耐えられない、という思考、想いは、時間が経つにつれて変化の兆しを。
ベッドの中での心地良い抱擁、フレンチトーストの甘さが幸せな気分にし、職場で、つまり学校の教室で見た期末試験を終え、後少しに迫っている冬休み、クリスマスを楽しみにしている生徒達。そして成績が上がったことを嬉しそうに報告してくれた教え子の顔。
これらのことが桂の頑な意見を緩和していく。
本音を言えば、まだ行かせたくない。けど、彼が行動することによって、今目の前にいる教え子達の、もしかしたらその子、孫の未来が守れるかもしれない。
けど、完全に傾いたわけではない、行ってほしいわけではない。できれば、行って欲しくないという気持ちはある。
相反する、振り子のような揺れた気持ちのままで桂は美月との待ち合わせの場所に向かった。
待ち合わせ場所は去年同様に渋谷であった。
去年の美月は赤色のコートであったが、今年は中学の制服で。
「稲葉くん、制服で来たの?」
「うん。前にさ桂言ってたことあるよな、制服デートがしてみたかったって」
桂が美月、稲葉志郎と出会いお付き合いを開始したのは大学で東京に出てきてから。中学高校の時には、そういう交際に憧れを少し懐きながらも縁遠い生活を送っていた。だからこそ、漫画やドラマ、映画でよく観た学校帰りに制服姿でのデートをしてみたかったと偶に口にしていたが、けど制服を着るような歳でもないのでそれを着る勇気がなく、これまで実現してこなかった。
「……言ったけどさ。でもそれは、私が着てだから」
「じゃあ、今度着てみるか?」
「無理無理、もうそんな歳じゃないし」
桂は慌てて拒否を。
「まだいけると思うけどな。まあ、それよりも行こうか」
そう言うと、美月は桂の手を自然に握り歩き出す。
握られた手に幸せを感じながらも、周囲の視線が少し気になり桂は、
「いいのかな、制服姿の女の子とこういう風に歩くの」
年の離れた女同士、しかも片方は制服でどうみても未成年。
これはまあ事実だけど、いかがわしい関係なのじゃないのかと周り人達から見られているんじゃないのかと妄想してしまう。
「いいんじゃないか別に。桂が嫌なら離すけどさ」
握られていた手が離れようとした瞬間、今度は桂の方から強く握り返す。
「……このままでお願いします」
「うん、分かった」
急な、予定にはなかったデートということで、昨年のように厳選して店を選び、予約して食事を楽しむということはできず、二人は、桂が友人に連絡し、美味しいイタリアンのお店を教えてもらい、そこで夕食を。
その後、渋谷を離れて表参道へ。
去年も二人で行ったイルミネーションを、また一緒に見るために。
表参道は大勢の見物人で賑わっていた。
そこを二人、手を繋ぎながら歩く。
行きかう人々はどの顔も笑顔であふれていた。
その顔を見ながら桂は平和だと思ってしまう。
この光景がいつまでも続いてほしいと桂は思うものの、少し先のことか、それとも随分と未来になるのか分からないけど、脅かすような、最悪な事態を巻き起こす可能性がある存在が、月の中で人類に知られることなく成長、誕生しようとしているのを知っている。
そして今の段階で、そのことを知っており、なおかつ阻止できる可能性があるのは手を握って一緒に歩いている最愛の人だけ。
百年先のことなんかどうでもいいと桂は思っていた。その頃には自分はもう死んでしまっているはずだし、子供を、子孫を、DNAを残せないのだし。
そう思っていた。
けど、桂の中でその考えに、心境に変化が。
遺伝子を残すことはできないかもしれないけど、他のものは残せる。学校で成績が上がったと報告してくれた生徒は「いつか成瀬先生みたいな教師になりたい」と言ってくれた。自分の仕事が、繋がるということだと改めて実感した。
この繋がりが、もっと、ずっと先にまで続いてほしいと桂はそう願った。
そのためには事が起きてから対処するよりも、未然に防ぐという美月の意見が正しいように思えてくる。
桂の本音としては、美月には行って欲しくない、傷付いて欲しくない、心配しながら待つのは嫌だけど、月にいる存在が成長しきる前、その段階に至らずに事態を解決してくれたならば、この先もこの光景が見られるはず、何も知らず世界は平和なままのはず。自分が少し我慢すればいい、耐えていればいい。彼はいつでも、どんな状況になっても必ず帰ってきてくれた。今度だってまた絶対に帰ってきてくれるはず。
絶対にそう。
桂はそう思い、それから人生で初めて付き合い、色んな初体験をし、姿形性別が変わっても自分の所へ戻ってきてくれ、そして二度目の初めてを一緒に経験した彼、もとい彼女、美月の可愛らしい横顔を愛おしそうに眺めながら、
「稲葉くん……昨日はごめんね」
昨夜寝ぼけた頭で言おうと思いつつも、今朝言えなかった言葉を。
「何?」
「昨日はわがまま言ってゴメンね。本当はまだ行ってほしくないけど、心配しながら待っているのは嫌だけど、行ってきて、みんなの未来を守って……そして全部解決したら……」
桂の言葉が終わらないうちに今度は美月が、
「なあ、桂」
「何、稲葉くん?」
「キスしようか」
「ええー、今? ここで?」
「うん。駄目?」
「でも、人がいるよ」
「見てないって」
「うーん。……それじゃ……」
光の下で二人は静かに唇を重ねた。
そして二人の接触が途切れて瞬間、美月の口が小さく動き、
「ありがとう。……桂、幸せにな……」
優しい、愛しさのある言葉を残して、美月の身体は桂の前から消えた。
唇のほのかな温かさに少し違和感を覚えながら桂は、自分がどうしてこの場所にいるのか思い出せなかった。
生まれて初めて付き合った人、これまでの人生で一番愛した稲葉志郎を秋葉原の事故で失ってから約一年半、ずっと喪にふしたような生活を送ってきた。こんな煌びやかな場所に来る用事なんかないのに。
自分のような人間がいるべき場所じゃない。周りはみんな幸せそうな、楽しそうな顔をしているのに、三十路前のこんな辛気臭い女がいつまでも居たら迷惑、気分を害してしまうかもしれない、そんな自嘲を心の中でしながら、桂は一人寂しく、そして悲しく帰路についた。
「ただいまー」
真っ暗な明かりの点いていない、誰もいない部屋に帰宅して、ただいまと言ったところで、おかえりという言葉なんか返ってこないと分かっているはずなのに、それをするのが当たり前、習慣のような気がして、桂はポツリと言う。
案の定、小さな声は暗闇の中へと消えていく。
疲れた身体で、メイクも落とさずに桂はベッドの上へと倒れこむ。
このベッドこんなに大きかったかな、それにこの部屋もこんなに広かったかな、と思いながら。
桂の中に、突如悲しさが、寂しさが、辛さがどっと溢れてくる。
訳も分からないまま、泣き出してしまいそうに。
ついには決壊し、桂は一晩中泣き続けた。
そしてそのまま一人寂しく眠りについた。




