平穏な日々
美月の周辺は平穏であった。
例のフーファイターが、あれから北米大陸、バミューダ海域上空、そして大西洋を南下し、アフリカ大陸へ、それから一転今度は北上をはじめ、ジブラルタル海峡を越えてヨーロッパに侵入、そのまま北東へ進行しロシアへ、モスクワの上空を通過したとの報告を最後に、その後二週間近く音沙汰無し。
そのまま消え去ったのか、または人気のないシベリア、北極圏、もしくはアラスカに移動したから情報がないのでは、というのがデーモンの中での認識であった。
そしてフーファイターが目撃されたからといって、データが大量に出現することは必ずでもなく、それでも一部地域で一斉に出現したのだが、以前に美月が立てた仮説も信憑性の薄いものに。
国内でも、美月が変身するような事態は起きてなかった。
平和であった。
だが、平和ではあったが日々何も起きない退屈な毎日が繰り返されていたわけではない。
美月は中学生。
学校生活もあるし、家事もある。
美味しいご飯を作らないと、同居している桂、ご飯を食べにくる麻実が飢えて死ぬ、ということは流石にないけど、それでもひもじく、貧しい食生活になってしまう。
それに加えて先月桂の兄の文尚から受けた相談を解決、成就できるように画策し、色々と裏で動き回っていた。
けれど、まあ穏やかな日々であったことには違いなかった。
「ねえねえ、私達もさ、お兄ちゃんみたいにクリスマスデートしようよ」
美月同様に期末試験で、こちらは教師だから問題作成答案の採点と多忙を極めていた桂もようやくその忙しさから少しだけ解放され、次の大仕事に備えてのつかぬ間の休息をとりつつ、美月と二人ゆっくりと過ごしている時に。
去年はイルミネーションを見に行き、それから天ぷら屋で食事をした。
そしてその夜、二人で二度目の初めてを。
だが、今年は美月が受験ということで自粛するということに決定していた。
しかし、桂の兄、文尚が久し振りの恋を成就させ、浮かれてクリスマスデートのことを、他者に漏らす必要はないのだが、うれしさのあまりに舞い上がってしまい、ついうっかりと妹の桂に。もちろんに美月にも。
それを聞いて桂はうらやましい、と。
「今年は俺が受験だからしないって決めただろ」
「でもさー」
「それに今から何処か予約するとかは難しいだろ」
「それもそうだけどさ……」
「クリスマスは無理だけど、お正月は一緒に桑名に帰るんだから」
最初は正月返上で受験勉強に勤しむ予定であったが、それは変更に。
「まあ、しょうがないか。無理やり稲葉くんを連れ出して、それが原因で落ちたりしたら、本末転倒だから。一緒に登校したいし」
「教師と生徒だけどな」
「それでもいいの」
「じゃあ、落ちないように頑張らないとな」
とか、いいながら美月は会話を切り上げて試験勉強へと。とはいかずに、そのまま桂との時間を継続。
「けどさ、ちょっと意外だった。まさか稲葉くんが、お兄ちゃんの恋の相談相手になっていて、それで上手くいくように色々と動いていたなんて」
「まあ、俺もそれなりに経験してきたから」
「まさか、私に隠れてずっと浮気してきたとかじゃないでしょうね」
こんなことを言いながらも、桂は微塵も疑ってはいない。
冗談で発しただけであった。
「してないよ」
「うん、知っている」
笑いながら言い、そして桂は美月に抱きつく。
成長期ではあるが、まだ桂の方が大きい、縦にも横にも、ので抱きかかえるような恰好に。
「今年中に絶対に桂の身長を越えると思ったけど、あんまり伸びなかったな」
「いいんじゃない、可愛いんだから。それにまだまだ成長期でしょ」
「多分な」
〈ああ、キミの身体はまだ成長するぞ〉
左腕のクロノグラフモゲタンが成長を断言。
「あ、さっきモゲタンが保証してくれた」
「だったら、もうちょっと愛でさせてよ。ギュって力強く抱きしめられるのもうれしいけど、こうやって抱きしめているのもいいんだから」
「はいはい、じゃあ好きなだけどうぞ」
「えへへ、ありがとう。それでさ、話し戻すけど」
「何?」
「私以外には付き合った人とかいないんでしょ」
「うん、桂が初めて」
「それなのに、どうやって相談に乗ることができたの?」
「ああ、それは……」
美月こと、稲葉志郎の恋愛経験は少なかった。小中学校の頃は成長が遅く恋愛の対象としてはみられず、背が伸びた高校生からはその手のことにはあまり関心がいかずに芝居にのめり込んでいた。だから、付き合ったのは人生で一人、桂だけ。
そんな美月がどうして文尚の相談に乗ることができたかというと、それは周囲でその手のことが多かったからである。
とかく演劇界というのは恋愛関係、肉体関係があちらこちらで多発している。付き合っていたカップルが別れたかと思ったら、同じ劇団内の別の人間とくっ付いていたり、演出家が新人に手を出して、それまでお手付きだった女優が捨てられて、パワーバランスが崩れて、劇団内の雰囲気が悪くなったり、他にも何人ものファンを毒牙にかけて刃傷沙汰になったりと、色々と目撃したり、時には全然関係ないのに巻き込まれてしまったりと、数多のしたくもない経験を。
先にあげた悪い例ばかりではなく、上手くいったのも数多く目の当りに。
それらのことを参考にして文尚にアドバイスを。
そして、実に都合の良いことに文尚が想いを寄せた相手は演劇人。紙芝居のお兄さんの知り合いであった。
まあ、だからこそ文尚は紙芝居のお兄さんに相談をするのを躊躇った。上手くいった場合はいいのだが、駄目だった場合、今後の付き合いに悪い変化を及ぼすのではと考えて。
それはともかく、美月は文尚の相談に真摯に乗り、そして上手くいくように暗躍した。
暗躍と書くと、悪いように感じられるが、秘密裏に紙芝居のお兄さんに連絡を取り、後押しをするようにお願いしたり、相手よりも自分の方が身長が低いからと言って諦めモードの文尚を励まし、その手の組み合わせはそう珍しくないと説得し、受験勉強と家事の合間を見つけて八面六臂とまではいかないまでも、それに近いような働きを。
結果、見事に花開くことに。
上手くいきすぎて、結婚を前提とした交際に。
「そんなことしてたんだ、私に内緒で?」
「してた」
「それじゃあさ、もしも、仮にだけど、稲葉くんが受験に失敗したらそれはお兄ちゃんのせいってことよね」
「縁起でもないこと言うなよ。それに万が一落ちたとしても、それは俺の力が及ばないからだろ、文尚さんのせいにはならないよ」
「でも、稲葉くんは自分の勉強の時間を割いてまで、お兄ちゃんのことをしていたんでしょ」
「まあ、それはそうだけど」
「だったら、やっぱりお兄ちゃんのせい。大事な勉強時間を奪ったんだから」
「そうならないように努力するよ。お花見が三度できるように」
「クリスマスの代わりに、お花見を三回もするの?」
「そうじゃなくてさ。一度目のお花見は志望校合格で、サクラサク、を見て、二度目は、多分一度くらいは湯島天神に合格祈願に行くはずだから、そのお礼をして、ついでに梅を見て、そして三度目は満開の桜の下で新しい制服を着て入学式」
「いいね、それ」
「その頃には桂の身長を抜いているといいんだけどな」
「どうかな? 別に私はそんなに高くなってほしいわけじゃないけどな。ほら、同じくらいの身長だったら双子コーデとか、服の交換なんかできるし」
「いや、桂は俺の服着れないだろ。身長はともかく、横のサイズが全然違うんだし、それにこの年代のファッションをするのは無理があるだろ」
美月は自分と桂を見比べ、そして後半は少し呆れた口調で、さらにはオーバーに両手のを上に向け肩をすくめるようなポーズを付けて、言う。
中身は同い年だが、見た目は一回り近く違う。
「ひどーい。たしかにさ、この年齢じゃ、似合わないだろうし、それに私の方が胸が大きいからサイズも合わないけどさ」
ちょっと不貞腐れながら桂が。
「胸だけか」
そう言って美月は服の下に隠れている桂の脇腹、ラブハンドルと呼ばれるちょっと肉付きのよい個所を軽く摘まむ。
「これは、稲葉くんの勉強に付き合って一緒に食べてたからだから」
ここ最近、美月の勉強、桂の答案の採点、と二人して夜遅くまで起きており、夜食を食べるような生活が続いていた。
その結果、ウエスト回りが夏よりも幾分ふくよかに。
「俺はそれ位でも好きだけどな」
「……うれしいけど……でもね……」
好きな相手にそう言われて嫌な気分ではないが、それでもこのままではと思ってしまう複雑な女心。
見た目は美少女なのだが、中身は男で、女心には程遠い美月は桂の柔らかなお腹を撫でまわして遊ぶ。
好きな相手に触れられること事体は全然嫌ではない、むしろ好き。しかしながら、このままずっと為すがままに、好き勝手を許せば、自分の体がどうなるかを桂は知っている。
やられっぱなしではなく、反撃を。
しばし、じゃれ合いが。
「ありがとうね、稲葉くん」
じゃれ合いが止まったのは桂の一言だった。
「何が?」
「お兄ちゃんのこと。それから、私のこと」
「?」
「兄妹で揃って、稲葉くんに恋愛関係でお世話になったこと」
「文尚さんのは偶々力になれただけだよ。それに桂のは、お世話というか、俺の方が……」
「でもさ、もし稲葉くんに出会わなかったら、私はずっと年齢=彼氏なしの寂しい人生を送っていたかもしれないし」
「そんなことはないだろ。桂が俺以外の男と付き合っている図を想像するのはちょっと嫌だけどさ」
「……ありがとう」
「いやいや、こちらこそ」
互いにお礼を言い合い、お辞儀をして、それから顔を上げ、目が合い、見つめ合い、そして笑みが。
「うーん、やっぱりクリスマスデートしたいな」
「じゃあ、するか」
「いいの?」
「去年みたいなことは無理だけどさ、一日くらいは受験勉強を忘れて桂と一緒に楽しむのも悪くない。ほら、根をつめすぎても駄目だろ、適度に息抜きしないとな」
「えへへ、ありがとう稲葉くん」
にやけながら桂は美月を抱きしめる。
一度は中断したじゃれ合いが再開され、その後行為は段々とエスカレートしていくことに。
受験勉強、そっちのけで二人の夜が開始。
翌週、アメリカでこれまで秘匿されていたレポートが公開された。




