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とある三十路の悩み

前半部分は、本編とは全く関係のない話。


 成瀬文尚は悩んでいた。

 まあ、人生三十年以上も生きていれば、常に悩みの一つや二つは付きまとうもの。

 仕事関係や人間関係、その他諸々で。

 文尚の悩みは、頭を困らせるような、人生を絶望してしまうような、将来を悲嘆させてしまうような深刻なものではなかった。

 悩み、ではあるが、実をいうとこれらのことを考え、頭を悩ませているのは非常に楽しいものであった。

 これら、と表現したからには、複数のことで悩んでいた。

 まず一つ目は趣味、ロードバイクについてだった。

 二十代の後半からロードバイクに乗るようになった。自分で整備し、そして楽しく走っていた。最近では、美月を経由し知り合いになった紙芝居のお兄さんと一緒によくツーリングに。

 そこで自身の力不足を痛感。もっと長い時間速く走れるようになりたい、と。

 短い距離なら特に問題はないのだが、100キロを超えると、途中で平均速度がガクッと落ちてしまう。

 まずは機材の変更を検討。

 現在乗っているKOGAキメラよりも、固くて軽いロードバイクを。候補として上がったのはピナレロのドグマ。今年のツール・ド・フランスの戴冠マシン。

 だが、購入を決断するまでには至らなかった。

 フレームではなく、ホイールの交換も検討した。現在はアルミのホイールで走っているが、それをカーボンの、しかもリムハイトの高いものを。

 ホイールは、フレーム以上に大きな効果が。

 しかし、こちらもそのままで。

 フレーム、ホイール、どちらも購入を検討していたものは高価な商品であるが、その分効果も期待できる。望んだような走りができる公算は大きい。

 なのに、買わないと決断したのにはそれなりの理由があってのものだった。

 こう書くと、予算不足で泣く泣く諦めたというふうに思われるかもしれないが、文尚にはそれらを買うだけの財力はあった。世間に名の知れた企業に就職し、独身で、しかも実家暮らし、ある程度の自由になるお金はある、まあ痛い出費ではあるが。けどなるべく余計な出費は控えたい、もしかしたらこの先自転車関連以外でお金を使う可能性も少しだけど存在していたから、なるべく貯金には手を出したくないという理由が。しかしながら、購入しない、もうしばらくKOGAキメラに乗り続けると決断したのは、まだこのバイクでできることがあるのではないかと考えたからであった。

 乗り始めてから今までずっとフィッティングを変更してない。

 このポジションで乗るのが正しいと信じ、走っていた。

 それを変更。

 ロードバイクという乗り物は、ちょっとしたポジションの変化で走り方が激変する。

 色々と試し、ポジションを少しずつ煮詰めていく。

 が、一朝一夕で事は運ばない。

 上手くいくことよりも失敗するケースの方が多々。

 中でも一番苦労している、頭を悩ませている個所はクリートの位置であった。

 クリートとは、ビンディングシューズのソール部分に付ける器具で、これによってペダルと固定。知識のない人には、自転車と靴を固定させてしまうのは危険と思われるかもしれないが、慣れれば簡単に外すことが可能で、そして何より普通の靴に比べるとはるかに漕ぎやすい代物である。

 だが、メリットだけではなく当然デメリットも。

 普通のシューズでならば、絶えず踏む位置を変更できるが、固定しているゆえにそれは不可能。

 だからこそ、このクリートの位置が重要になるのである。

 文尚は基本的な位置といわれる母指球よりもやや前目に、爪先よりにセッティングしていた。

 これが、なんとなくだけど一番力が入るような気がして、以来ずっとその位置に固定。

 しかし、一緒に走る紙芝居のお兄さんからのアドバイスを受け、後ろ目に、深めに変更することを決意。

 当初は、簡単に位置が決まると思っていた。

 だけど、これが悩みの迷宮へと。

 一気に変えるのは何となく怖かったので、少しだけ位置を後退。

 ほんの数ミリの変更であったにも拘わらず、印象が、踏み心地が、使用する筋肉への負担が激変する。思い切って変更してよかったと思えるくらいに、以前とは比べものにならないくらい踏みやすいような、回しやすいような、そしてサイコンの平均速度も上がっている。おまけに、疲労も少ない気が。

 だが、別の日に乗ると、印象が変化。

 一転して走れなくなってしまう。とくに、上りがまったく駄目。

 ここで以前の場所に戻す選択をしていれば、悩みの沼に嵌るようなことはなかったのかもしれないが、文尚はより深みへと。

 クリート位置をより深めに。

 ここから試行錯誤の日々が。

 トライアンドエラー。

 あちらを立てれば、こちらが立たず。

 ローラー台では上手くいったと思っていても、いざ実走で試してみるとてんで駄目というケースも何度か。

 それに加えて、クリート位置は前後だけではなく左右の調整も可能。

 より深みに。

 それでも悩みさえすれ、それが苦痛であるとは思わなかった。どうせ冬は寒いのだからあまり走らない、だったらジックリと腰を据えていい場所を探し出し、来年の春には気持ち良く走れるようになろうという考えに。

 それに、この猫の目のようにクルクルと表情というか、感覚が変わっていくのが少々面白く、そしてなんとなくある人物を彷彿させて、愛おしく、より一層愛着が出てくる。

 というわけで、文尚のクリート位置の探究は続く。


 最初にいくつかの悩みと書いた。

 だから、悩みはロードバイクのことだけではない。他にもある。

 その悩みについてだが、それは文尚にとって久しぶりに訪れたものであった。

 そのことに少々戸惑いつつも、半ば諦めかけていたことが、もしかして可能になるかもしれないという希望が芽生えつつ、けどもしかしたらやはり駄目で、この先永遠にそのような機会に一生巡り合わないのではという悲観的な思考も同時に。この悩みについての喜びと悲しみが行ったり来たりしているような状態であった。

 この千々に乱れるような心境を、一人悶々と抱えるのではなく、誰かに相談すれば、一足飛びに解決とは流石にいかないだろうが、それでも光明が見えてくるかもしれない。

 それに加えて、この悩みは、文尚個人では絶対に解決しえないもの。その為の行動の後押しを、背中を優しく押してくれるよう介添えを求めた。

 誰かいないか? そんな文尚に脳裏に一人の人物が浮かんでくる。

 それは、美月だった。

 だが、浮かんだ瞬間、文尚は自分で思い付いたことなのに、即座に否定を。

 この悩みを、一回り以上も年下の、しかも中学生の少女に持ちかけるのは流石に、と。

 たしかにこの従妹は年齢差や性別を忘れてしまうくらいに話しやすい相手ではある。だがしかし、大人の問題を、中学生にぶつけるのは。大人びた思考思慮を持ち合わせてはいるが、年端もいかない可憐な未成年。

 ならば、他の人を。

 紙芝居のお兄さんは相談しやすいが、今回はちょっと都合が悪い、仕事仲間は論外であり、妹に、身内にするには気恥ずかしさを感じてしまう。

 逡巡し、文尚の思考は元へと。

 そして散々、迷った挙句、結局美月に相談をすることに。

 迷惑ではないだろうか思いつつも、携帯電話を。

 

 電話をかけたものの、やはり年端もいかない少女にこんな相談事をもちかけるのは。それに迷惑では、という気持ちが文尚の中に。

 この手の相談には相応しくないような気が改めて浮かんでくるし、それに受験勉強の邪魔をしたら、と。

 美月は現在、妹の桂が務める私立高校への合格を目指している。それを、もう若くないお兄さんの相談事で時間を浪費させてしまうのは。

 思い直して、切ろうとした瞬間、美月の声が携帯電話の向こうから。

『はい、美月です。文尚さん、お久しぶりです。どうしたんですか?』

「え、あいや、受験勉強頑張っているのかなってふと気になって電話したんだ」

『ええ、絶賛取り組んでいるところです』

「それじゃ、邪魔しちゃ悪いからまた電話かけ直すわ」

『いいですよ。それに数学で引っかかっている問題があって、せっかくだから教えてもらえませんか』

 電話越しでの数学の指導がしばらくの間。

 目的を達することはできなかったが、受験勉強の力に慣れたことに少々満足感を覚え、文尚は電話を切ろうとした。

 そう思った矢先、

『本当は他に僕に用事があって電話してきたんじゃないのですか?』

 この声を聞いた途端、文尚は何故自分が相談事の相手が、他の誰でもなく、幼い従妹が一の一番に頭の中に浮かんできたのか理由が分かったような気が。

 似ているのだ。

 妹の恋人で、そして親しい存在であった、稲葉志郎に。

 何度か、こんな風に電話で、またメールで、そして時には直接相談もしたし、向うから悩みを打ち明けられることもあった。

 携帯電話から聞こえる声も、その姿も、そして何より性別も全然違う。

 それなのに……。

 ……その時のような雰囲気が。

「……まあ、そうなんだけど……」

『役に立てる保証はないですけど、話相手くらいにはなりますよ』

 切り出さずに、引っ込めたままで切るつもりだったのに、文尚は美月に訥々と話しを。

 久し振りの自身に訪れた感情の相談を、幼い従妹に。


後半部分は少しだけ関係ある話。

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