乾杯
「別にいいんじゃない、夢になったとしても」
夜、ギネスカレーの調理中の、あの葛藤をベッドの上で美月は桂に話す。
それを聞いて桂は軽く一言。
「桂は今の生活に不満があるのか?」
完璧にとは流石にいかないが、それでも過不足なく、及第点を採れるくらい家事を、とくに食事面においては味はもちろんのこと健康面にも気を配っていたつもりであったが、何かしらの不満が桂の中にあり、それが言葉になって出たと考え、それを知るために美月は訊く。
「えー、不満なんて全然ないよ。仕事で疲れて、とくに精神的にきついときなんかはさ、稲葉くんの作る美味しくて温かいご飯がどれだけ癒しになっているか。それに麻実ちゃんからも、時折元気をもらっているし」
「だったら、何で夢になってもいいって言ったんだ」
「夢になったとしてもさ、私は稲葉くんの傍から絶対に離れないから。それにもし今の生活が変になったとしたらさ、今よりも良いようになるように努力すればいいんじゃないかな」
「……なるほどな、現状を維持するのではなく、向上を目指す、か」
「そうそう、良いことばかりじゃ世の中退屈でしょ。悪いこともあるから、その分良いことがあったら喜びが大きくなるの」
「良いこと言うな、まるで先生みたい」
「ひどーい、私はこれでもれっきとした高校の先生だよ」
「知ってるけど、いつもの桂は全然先生らしくないからさ」
「ちゃんと先生らしいことしてるよ。こないだだって勉強を稲葉くんに教えたじゃない」
「そうだった」
中間テスト期間に国語の指導を。そのおかげで高得点を。
「それを忘れるなんて。もうこれからは解らないところ聞かれても教えてあげないから」
「それは困るな。もう少しで桂の高校に入学できるだけの力が付きそうなのに。この先教えてもらえないとなると不合格になってしまう」
「……それは嫌。稲葉くんと一緒に学校に通いたい」
「だったらさ、これからも受験勉強の指導お願いします」
「うん」
二人は顔を見合わせ、そして笑い合う。
しばし、笑った後、
「……呑んでもいいのかな」
小さく美月が。
「いんじゃないかな。教師としては中学生に飲酒を勧めるのは駄目だけど、稲葉くんは本当は中学生じゃないし。それに溜めこんでしまうとかえって毒になっちゃうからね」
「じゃあ、呑もうかな」
「うん、いいよ。あ、でも、人の見ているとこでの飲酒は流石に控えてほしいかな。誰かに見つかって内申点を下げられて受験に失敗したらいけないし」
「そうだな、人前は危険だよな」
「私と二人きりの時ならいいよ」
「それじゃ今度の金曜日の夜」
「うん。あ、あの時買ったウィスキー開ける?」
「それは大人になるまで、大手を振って呑める時まで取っておこうよ。まだギネスビールも残っているし」
一本はカレーに、さらに一本は今日桂の胃の中に。後、二本残っている。
「それで足りる?」
「酔いたいわけじゃないから。味わいたいだけだから、一本で十分だよ」
「それじゃお楽しみは金曜日に」
「ああ」
かくして二人だけの、モゲタンは知っているのだが、秘密の約束が交わされた。
金曜日の夜、いや日付が替わり土曜日になった頃、先日の約束をいよいよ実行することに。
本当はもう少し早めにギネスビールの缶を開け、久方ぶりのアルコールを味わう予定だったのだが、いつものように麻実を含めた三人で夕食を済まし、その後歓談、後片付け、それから入浴し、万が一酔ってしまい不覚にもそのまま就寝しても平気なように歯磨きも済ませ、パジャマに着替え、と色々としているうちにいつの間にか土曜日に。
冷蔵庫で冷やしておいたギネスビール、そしてグラスを二つ準備。
桂が、空のグラスに黒色、チョコレート色の液体を注ぎ入れる。
「はい、稲葉くん」
「ありがとう。それじゃ頂きます。……っと、その前に……」
言いながら美月は左腕のクロノグラフモゲタンを外す。
外しながら脳内で、
(久し振りにほろ酔い気分を味わいたいから。外すけど大丈夫だよな)
モゲタンの能力によって、美月の摂取したアルコールを瞬時に分解することが可能である。そうなれば、酔うという感覚が味わえなくなってしまう。
〈問題ない。何かあったとしても、これ位の距離ならば強制的にキミを素面に戻すことが可能だ〉
「何もなければいいんだけどな」
脳内で会話できるのに思わず声が出てしまう。
「どうしたの?」
「いや、こういう時に限ってデータが出現したら嫌だなって」
「出たら麻実ちゃんに任せたら」
「それはちょっとな。あの子にはあまり荒事をさせたくないし」
「じゃあさ、出てこないように乾杯しようよ」
「乾杯で出てこないようになるのか」
「気の持ちようよ。悪いこと考えるから、悪いことが起きるの」
非科学的とは思いながらも、それを否定できない。
「そうかもな。じゃあ、乾杯するか」
「うん。データが出てこないように。それから、稲葉くんとまた一緒に呑めることに、かんぱーい」
呑むのを楽しみにしていたのは美月だけではなかった。
桂も非常に楽しみに。美月と、稲葉志郎と一緒にグラスを傾けるのは約二年ぶりのこと。
「乾杯」
二つのグラスの縁が微かに触れて、小さな音が。
クリーミーな泡と、苦みが、美月の小さな口の中へと。
美月の脳内と口がパニックに。
これはモゲタンのサポートを切った状態でアルコールを摂取したために、まだ幼い体が拒否反応を示したから、というわけではなく想像していた、かつて稲葉志郎の頃に味わったビールの味と異なるものであったからであった。
噂で聞いたギネスビールは、ガツンとした苦みが特徴。
それなのに、今の口中にある液体は想像していた味よりもかなりマイルド、悪く言えばなんだか薄いような印象が。
こんなものなのか? 過度に期待しすぎていたからだろうか。そんな疑問が脳内で渦巻きながら美月はもう一口。
やはり、想像していた味とは違う。
「どうしたの? 美味しくないの?」
美月の異変に気付き桂が声を。
「いや……なんか想像した味と違うなと思って」
「どんな味を想像してたの?」
「うん、もっと強い苦みがガツンと来ると思っていた」
「そうなの? 私はこれ呑みやすくて好きだけど」
桂はすでに水曜日に一本開けている。その時も悪くないという感想を。
間違った情報を得ていたのだろうか、そんなことを考えながら美月は空になった缶を手にして眺める。
「……あっ」
「どうしたの?」
「これ、間違ってた」
「どういうこと?」
缶にはちゃんとギネスと英語で記載されている。
「ここ。ギネスの下にドラフトって書いてあるだろ」
「あ、ほんとだ」
ギネスビールにはいくつも種類がある。美月が購入したのは缶。これは普通のギネスビールよりもアルコール度数が低く呑みやすく、そして最も購入しやすい商品。
求めたような味は瓶、または樽で購入しないといけない。
「ということは、あのカレーも本当のギネスカレーじゃないのかな」
「別にいいんじゃない、一応ギネスビールを使っていたんだし。それに何より美味しかったんだもの。麻実ちゃんもちょっと大人の味を堪能できたって喜んでたし。それに失敗も時には人生のスパイスになるから」
「まあ、そうかも」
「不味いわけじゃないんでしょ」
「うん、不味くはない」
「だったら、久し振りのビールをもっと味わって」
「了解」
久し振りのアルコールだからなのか、それともまだ成長段階の幼い未成熟な体だからなのか、あるいはその両方ともが原因なのか定かではないが、缶ビール一本という量で美月は酔ってしまった。
といっても、泥酔したとかではなくほろ酔い気分に。
幼い体が火照ってくる。
美月はこの火照りを治めるためにパジャマのボタンに手をかける。
そして上から一つずつ外していく。
「い、稲葉くん何してるの?」
いつもとは様子が違う美月に桂は驚き声を。
全てのボタンを解放し、美月は驚いている桂の手を取る。そしてその手を自らの小さな胸へと引き寄せる。
「……桂、しよ……」
普段はまず見せないような潤んだ瞳でお願いを。
美月は、桂に求められれば相手をするが、自らの欲求で性行為をしようということはあまりなかった。
これは元男で、そして戻れる可能性があるから、女性の性の感覚に慣れてしまったら、戻った時に非常に困ることになってしまうのではと考え、時折起こる性の欲求を強い意志で押さえ込んでいた。
しかし、それがアルコールによって解き放たれてしまった。
「……うん……」
桂も桂で、とくにそんな気分はなかったのだが、潤んだ瞳の美少女に懇願され、そして柔らかな胸の感触で、性欲に火がついてしまう。
小さく顔を出している、美月の可愛らしいピンク色の突起に桂は口づけを。
かくして、いつもとは攻守が逆転した営みが。
その頃、太平洋を越えたアメリカでは意見の対立が起き、二派に分かれたデーモン達の戦いが開始されようとしていた。




