ギネス
法律違反をしていますが大目に見てください。
新宿で購入したウィスキーとギネスビールは月曜日の夕方に届いた。
そして水曜日の夕方、ギネスビールを開ける。
開けたのは桂ではなく美月。
今までずっと我慢していたアルコールへの欲求がついに抑えきれなくなり、また受験勉強のストレスも加味されて、飲酒という行為に走った、逃げた、というわけではなく料理に使用するためであった。
美月が今晩の夕食に作ろうとしているのはカレー。
いつもは金曜日がカレーの日だけど、今週は水曜日に。
そして作るカレーもいつもとは異なる。去年の夏から美月の作るカレーは牛と豚を一緒に使用していた。だけど、今回のカレーは牛スジ。それからギネスビールで煮込む。
以前からその存在を、それこそ稲葉志郎であった頃から、知ってはいたのだが、これまでずっと作ることができなかったギネスカレーに挑戦。
できなかった主な理由はもったいないから。
ギネスビールは普通のビールに比べてお値段が少しばかりお高め。そんなお酒を料理に使用するなんて。そんなことをするくらいなら呑んだほうが。
それでずっと二の足を踏んでいた。
だが、それをいよいよ実行する時が。
作ろうと美月が思い立ったのは、先日の新宿での一件。現在呑めない身であるならば、それならば雰囲気、というか成分だけでも楽しもうと考え、桂に頼み、竹鶴と一緒にギネスビールも購入してもらった。
料理に使用するのは一本くらいで十分と考えていたのだが、ちょっとした手違いで瓶を複数購入してしまうというご愛嬌も。
それはさておき、美月はギネスカレーを作ることに。
そこへ、
「ああ、シロがビール呑んでる」
と、料理中は滅多にキッチンには近付かない麻実が、珍しくやって来て、そして目聡くギネスビールの缶を発見。
「呑んでないよ。これは料理に使っただけ」
「カレーにビールを使うの? インスタントコーヒーを隠し味にするというのは聞いたことあるけど」
「あるらしい。まあ、俺も初めて作るからどんな味になるのか分からないけど」
「ふーん。それでさ、そのビールを三本ともカレーに入れるの?」
栓を開けたもの以外に残り二本のギネスビールの瓶が。
「いや、レシピには一本しか書いてないから。その一本も、初めて作るからちょっと怖くて全部使用してないから」
開封した瓶の三分の二を使用。
「それじゃまだその中身残っているんだ」
「うん」
「どうするの、それ?」
「どうしようか? 桂に帰ってから呑んでもらうのも手だけど、その頃には不味くなっているよな。かといって、捨ててしまうのはもったいないような気もするし」
桂が帰ってくるまでにはまだ大分と時間が。
「ねえ、あたしが呑んだら駄目かな?」
「へ?」
「ほら、あたしも後ちょっとでお酒を合法的に呑める年齢になるじゃない。だから練習しておこうかなって思って。少しくらいなら平気よね、問題ないよね」
麻実が法的に飲酒可能な年齢に達するにはまだ一年半以上もある。その期間をちょっとと表現してしまうのは如何なものとは思うのだが、言っている内容自体には美月はまあ同意であった。
初めてのお酒で加減が全く分からずに、自分の適量以上にアルコールを摂取してしまい、正体不明になるまで酔いつぶれて、その結果男にお持ち帰りされてしまうという実例を知っている、というか目の当りにしている。幸い、その二人は後日付き合うようになったのだが、世の中の男全てがそうとは限らない。一夜だけの関係なら問題ないのだが、それを餌に脅すという輩も残念ながら存在する。
妹のような存在の麻実がそんな毒牙にかからないようにするために、今のうちからアルコールに慣れておくのは悪くはないはず。
しかし、そこには社会的倫理が邪魔を。
まだ未成年である。昔ならいざ知らず、今のご時世あまり許されるような行為ではない。
しかしながら、この部屋にいるのは二人。
外部に漏らさなければ問題ないのでは。
開封してから大分と時間も経過している。アルコールが全て揮発してしまっているということはないが、それでも弱くなっているのは事実である。
また、法的にはまだ未成年だが、ほとんど大人といっても差し支えない体の麻実ならば、これ位の少量のアルコールを摂取しても悪影響はないはず。どの程度アルコールが強いのか未知数ではあるが、それでも普段桂が呑んでいる時に匂いでダウンするということはないので、受け付けないという体質ではないはず。
だが、しかし……。
美月は、一人内で葛藤を。
そんな美月に、
「ねえ、シロ。お願い」
と、麻実が再度おねだりを。
それに美月は抗うことができなかった。
無言でグラスを用意し、その中に残っている魅惑の黒色の液体を注ぎ込む。
ワイルドに瓶のまま呑むというのもまあありなのだが、教育に少々よろしくないということで。
初めてのアルコール。できれば、美味しく味わってほしい。
「はい」
「ありがとう」
いつもよりも高いオクターブで麻実がお礼を。
「じゃあ、いただきまーす。ってシロ、そんなに見ていたらなんか恥ずかしいよ」
「えっ……ゴメン」
美月本人にはそんな自覚はなかったのだが、麻実の言うように凝視といっていいような視線で見ていた。
保護者目線と、もう一つ別の感情で。
その感情とは、うらやましい。
呑むという楽しみをずっと封印してきたけど、ここ数日その欲求が強くなってきている。
麻実の要求に応えるため、そして自身の欲求を抑え込むために、美月は反転を。
その美月の小さな背中に、
「あんまり美味しくない」
という麻実の声が。
「えっ?」
美月は慌てて振り返る。そして、
「不味かったの?」
と、聞いてから自分が失念していたことに気が付く。麻実は、いわゆる大人の味が苦手である。俗に言う子供舌である。ビールの味覚が口に合わないのは当たり前。
自分も子供の頃、初めてビールを口にした時には、どうしてこんな苦くて不味いものを大人は喜んで呑んでいるのだろうと思った記憶が美月の中で蘇ってくる。
ちなみにであるがこのギネスビールは日本で製造されている一般的なビールとは少々異なる。国内で広く流通しているのはピルスナービールと呼ばれるものであり、ギネスビールはスタウトという醸造で作られたビールのである。
この醸造ビールの特徴は黒色で、アルコール度数も高く、味は濃く、そして酸味と苦みが強い。
ビールという飲み物に慣れていない麻実には、美味しく感じられないのは当然であった。
「不味くはないけど苦い。シロも桂も、これを最初から美味しいと感じていたの?」
「最初は美味しくなかったよ。でも、呑んでいるうちに。そう言えば桂も最初の頃はカクテル系のお酒を呑んでいたな」
「カクテル系は苦くないの?」
「苦くないよ。……あ、思い出した……そういえば俺、今年呑んだことあったんだ」
バレンタインに桂にチョコ系のカクテルを作った時に練習で飲酒をしたことを思い出す。
「へー、シロはあたしよりも幼い体なのに、先に大人の味を経験したんだ。まあそれは別にいいとして、カクテルは甘いの?」
「でも、注意しないと。あれは甘い口当たりだけど、アルコール度数はビールよりも高いから」
「そうなんだ。あっ、これシロにあげる」
そう言って麻実は自身が口をつけたグラスを美月に。中にはまだ黒色のビールが。
呑んだということを思い出したのだから、今更自重しても仕方がない。
美月は、グラスに口をつけようとした。
が、寸でのところで思いとどまる。
「……やめておく……夢になりそうな気がするから」
落語の『芝浜』のオチのように小さく呟く。
元の稲葉志郎の姿に戻るという大きな目標があるが、今の生活も満更悪くはない。
呑むという行為によって、それが夢のように儚く、泡みたいに消えてなくなってしまうんじゃ。ふとそんなことを思ってしまった。
「シロ、何言ってんの?」
けど、そんな美月の感傷めいた言葉は、落語をあまり知らない麻実には全然伝わらなかった。
ギネスビールの説明を少し追加。
缶から瓶の変更、それにともないドラフトからスタウトに。
あと、このギネスはあのギネスブックのギネスです。




