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里帰り、ふたたび


 現在、桂は受話器の向こうの相手に四苦八苦、苦戦を強いられていた。

 電話の相手は、やり手のセールスマンや歴戦の古強者である金融関係者、とかではなく母親、とその背後にひかえる父と兄であった。

 家族間の電話であるのに何故桂がそこまで苦戦をしているのか?

 今年の春まではそれなりに良かった家族仲が急速に冷えてしまい絶縁状態まではいかなくとも、それでも悪くなってしまった、とかではなくすごくシンプルなことで桂は窮地に追い込まれ、ではなく電話の向こうの声に防戦一方の苦戦を強いられた。

 電話の内容は、至極単純。夏に帰省するかどうか?

 先程も書いたが、家族仲は悪くない。むしろ、去年美月が加わったことでより仲良くなったと言っても、けっして過言ではないくらいに。

 それなのに何故桂は帰省を渋るのか?

 その理由は美月であった。

 中身は三十路の男ではあるが、今は中学三年生として学校に通っている。

 中学三年生ということは、来年は高校生に。

 つまり、高校受験が。

 受験にとって夏は正念場である。夏遊んだ者は、合格という栄光の切符を手にすることはできない。

 少々大げさに書いたが、美月が受ける予定の高校、桂の勤め先、は現在の成績では確実に合格できるという保証はない。

 そのために桂は、この夏美月に夏期講習を受講させるつもりであった。

 つまり、帰省する時間も惜しい。

 だがこれは桂の事情であって、受話器の向こう側の家族は、桂の帰省、というよりも美月が夏に遊びに来てくれることを心待ちにしていた。

 互いの意見が一向に纏まらない、妥協点を見いだせないなか、議論の中心である美月の心情はというと、別にどちらでも構わないというものであった。

 自身のことながら、桂程熱心に、目標に向けて全てのことを犠牲にしてまで受験勉強に専念するといったまでの意気込みは美月にはなく、それでもまあ努力はするつもりではあるが、この家の食事事情を一手に引き受けている身としては、全ての時間を受験勉強に捧げてしまってはこの先受験が終わるまでずっと酷い食生活になることは容易に想像できてしまう。桂には、それから麻実にも、美味しいご飯を食べさせたい、その想いは受験勉強と同じくらいに強いものであった。

 それに帰省とまではいかなくとも、美月は夏休みの間に一度くらい三重に足を延ばす予定であった。

 去年の夏名古屋へと転校した、弟子であり、また友人でもある美人の様子を見にいくつもりだった。

 春には観られなかった紙芝居がどれほど上達したのか楽しみにしていた。


「だから美月ちゃんは大事な時期なのよ」

 電話でのやり取りは終わることなく続いているが、状況が少し変化を。

『それは理解している。だけどな、夏期講習を受けなくとも家に戻れば、俺を始め、親父だって美月ちゃんに勉強を教えられるぞ』

 受話器の向こうの相手は母親から兄の文尚へと代わっていた。

 ちなみに、文尚はもちろんのこと父親も、それなりに名の通った名門大学を出ており、桂も受験生時代には結構な頻度で勉強を教えてもらった経験が。

 文尚は結構教え上手ではあるし、父親も英語が得意。

「でもそれは昔の話でしょ、あれからもう十年近くも経ったんだから」

 桂が大学受験をしたのはとうの昔。

『ズルいぞ、俺も美月ちゃんと遊びたいのに』

「本音が出たわね」

 美月はこの姿になる前、稲葉志郎の頃から文尚とは話が合っていた。それが今ではどう見ても可憐な美少女。それでいて三十路の男と馬が合うのだから、ほっておくなんていうのは無理な話である。

 それに桂の母親も美月が来ることを待望していた。自分の実の娘にはできなかった、料理を教えるということができる。その上、美月は優秀な生徒でもあったから。

 さらにいえば父親も、ナイターを観ながら美月にお酌をしてもらうという夢を密かに懐いていた。

「来年まで我慢して待ってくれたら、ウチの可愛い制服を着た美月ちゃんが見られるのに」

 桂の勤める私立高校の女子の制服は結構可愛くて評判であった。

『可愛い制服を着せたいのなら、名古屋の私立女子校を受けるという手もあるぞ』

 この文尚の言葉に桂の強固な意志に綻びが。

 高校生の時にはさほど制服に、いやおしゃれ自体に興味はなかった。しかし二十を超えて、正確には志郎と付き合うようになってからは、少しずつではあるが目覚め、地元に高校へではなく、可愛い制服の名古屋市内の女子校に進学しておけば良かったかもという後悔をしたこともあった。

 そこを的確に突かれたのである。

 名古屋襟と呼ばれる、長い襟が特徴のセーラー服を着た美月を頭の中に描く。

 良いかも、と桂は思ってしまう。

 が、屈したわけではなかった。

 まだ抵抗を。

 つまり、論戦はまだ続くことに。


 この当人たちにとっては大事な、大切なことではあるが、もし傍で第三者が見ていればどうでもいいような議論がようやく決着を迎えたのは、再度受話器の向こう側が母親に代わってしばらくしてからだった。

 桂の意思を変更させる決め手になったのは、浴衣。

 昔、桂が着ていた思い出の浴衣を、美月のために仕立て直しているという。

 絶対に似合う。その姿を瞼に焼き付けたい。

 ということで、細かいことまでは何一つ決定はしていないが、それでも今年の夏も帰省することだけは決定した。

 期末試験も済んでいないまだ六月なのに。

 一月以上も先のことではあるのに。



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