ワクワク、中学生活 4
「いいわよ。今度の日曜日にみんなをここに呼んでも」
駄目もとで、内心は断ってくれることを願いながら、美人の頼みごとである発声練習をこの部屋でする件を美月は桂へと切り出した。
返ってきた答えは予想外にも承諾の声。
「……本当にいいの?」
あまりにも思いがけないことに美月は思わず聞き返してしまった。
「うん。だって美月ちゃんのこの街での初めてのお友達でしょ。やっぱり保護者としてはきちんと挨拶しなくちゃいけないし。それに少し発声練習に興味があるの」
これまた意外な言葉だった。
付き合い始めた頃、桂は志郎に声の出し方を教えてもらおうとした。
それに応じたが指導は厳しくなりすぎた。結果泣かせてしまった。その日以来桂は発声の話題を出さないようにしていたことを思い出す。
「……どうして?」
心境の変化について聞かないわけにはいかなかった。
「昔ね、付き合ってた彼に教えてもらおうとしたことがあったの。でもその時は彼の教え方がちょっと厳しくて耐えられなかった。それで有耶無耶になっちゃったんだけど……美月ちゃんの毎朝の練習見てたら思い出して、それで私も彼にもう大丈夫だからっていう姿をちゃんとみせないとなって考えて。それで何をするのが一番か分からないけど、とりあえず思い出のやり残しをしてみようかなって。後は、本当はこっちのが大切なことなんだけど、よく授業中に声が小さいって後ろに席の子から苦情が来るの。それの対策のためかな」
過去に囚われすぎないようにする所信表明と、それから職場での問題解決。一石二鳥の目的を上げて練習に参加する意図を美月に伝えた。
少し前までの桂であったのならば確実に泣き出しそうな話であった。しかし今は泣く気配を微塵も感じさせなかった。時の流れが悲しみを忘却の彼方へと葬り去ったのか、それとも美月との生活が癒しの効果を生んでいるのかは分からないが、確実にいえるのは健やかな精神になりつつあるということ。そのこと自体は素直に喜べた。しかし死んではいない。稲葉志郎は桂の前に再びその姿を見せる可能性は十二分にある。そのことを告げられない忸怩たる気持ちがあった。
「あ、もしかして私が一緒にいたら恥ずかしい?」
参加を表明したものの、主催者からの承諾はまだおりていない。桂は聞く。美月はその問いに慌てて首を振った。
「ううん、じゃあ一緒に」
「じゃあ、決定。それじゃ日曜日にみんなを家に呼びなさい」
約束の日曜日、知恵、文、美人、三人は連れ立って美月と桂の住んでいるマンションを訪れた。三人のかっこうは一様にジャージ姿であった。これは美月が指示しておいたものだった。良い声を出すのには身体を動かす必要性がある。そのための動きやすい服、それがジャージだった。もちろん出迎えた美月も、そして特別参加の桂も着用していた。
出迎えた玄関先で知恵は挨拶もそこそこに美月に親指を立てた。
「さすがやで美月ちゃん。桂さんにニューバランスを履かせるやなんて。本当はアディタスのスタンスミスのほうがええけど」
美月の通学用のシューズ、それとお揃いの色違いで購入した桂のもの。この発言には何かの元ネタが存在するようだったが、生憎知恵以外の誰にも理解できる者はいなかった。
予想はしていたことだったが五人も集まるとかなり狭かった。普段の生活では二人、そんなことは思わないのに、今や足の踏み場にさえ困るほどだった。誤算だった。当初計画していたことを美月は頭の中で変更する。ストレッチをして身体を柔らかくしてから発声に移るつもりだったが、立ったままでもできるストレッチだけにする。
「それじゃ、今から始めます。まずは前屈をして下さい」
固い身体のままでは柔らかい良い声を出ないのでストレッチを行う。知恵と文は柔らかかった。桂は日頃美月と一緒にしている成果が出たのか以前よりもいく分柔らかくなったが、まだ固い。美人は指先と床の距離がすごく遠かった。
「それじゃ、真似をして」
まずは前屈をゆっくりする。上半身を軽く曲げたところでその姿勢をキープする。その後下まで曲げる。またキープ。今度は膝をゆっくり曲げる。最後は太ももを胸につける。今度は反対の順番で戻る。
「太ももの裏が張ることを意識しながら曲げてみて」
美人の背中を軽く押しながら言う。遠かった床に指先がつきそうになる。
「いっぺんには柔らかくはならないから。毎日すれば柔らかくなる。それと自分の身体のどの箇所を使っているか意識しながらすると上達の早道だから」
「うん」
固い身体が一つの指導で柔らかくなる。美人は驚き、喜んで肯いた。
「今度は声を出します。それじゃ、みんなに一つ質問。大きな声を出すにはどうすればいいのか分かりますか?」
「ええ、腹に力入れて出すんとちゅうの」
「違うよ。ほら、なんとか法っていうのじゃないの?」
「……ふ、腹式呼吸」
声優が目標というだけあって美人はそれなりの知識があった。
「でも、それでも駄目なんだよね。前に教えてもらったのはたしか、……お腹にだけ力を入れちゃいけないって聞いたような気がしたんだけど」
昔教えたことの断片を桂は覚えていた。
「そう。お腹だけで声を出そうとすると大きい音は出せるけど、声が固くなっちゃうから。場面によっては有効的な使い方なんだけどね。理想の声の出し方は柔らかくて響く声」
「それって矛盾してるんちゃうの? どうやって出すん?」
「うん、見て」
言葉で説明するよりも実例を見せたほうが早い。美月はジャージの上を脱ぎ、Tシャツを捲り上げた。しかし勢いがありすぎた。窮屈な感じがしてブラをつけていない、小さな膨らみと薄いピンクの蕾が露になって外気と人目にふれる。
「ちょっと美月ちゃん。どうして着けてないの」
桂が慌てて美月シャツに手をかけ降ろす。
「やるな、身体張るなんて」
「ヒューヒュー、サービスシーンだね」
知恵と文は囃し立て、美人は赤面して黙っていた。
女子としての羞恥心が欠落したままであった。最初何を騒いでいるのか美月は理解できなかった。男であった頃は人前の着替えなんてザラだったし、撮影の仕事のために昼間の新宿の路上でパンツ一丁になり衣装に着替えた経験もあった。
下げられたシャツをもう一度上げようとした。桂の手はまだかかっておりそれを妨げる。
「駄目、美月ちゃん」
「今度は上げすぎないようにするから大丈夫。それに実際に見せたほうが説明しやすいから」
慎重にお腹だけを出した。鼻から息を吸い込み空気を体内に、全身に送り込む。腹部はもちろんだが、肋骨の下、背中にまでも空気は入り込む。
「これが呼吸法。お腹と背中を触ってみて」
四人の手が美月のお腹とその裏側、背中に伸びる。息を全て吐き出し、また吸い込む。再び大きくなる。
「おおー」
「おもしろーい」
「……すごい」
「お腹だけじゃなくて裏側も膨らむんだ」
それぞれが感想を言う。
「こういう呼吸ができるようになるとさっき言ったような柔らかくて響く声が出せるようになるから。でも、最初からできる人はいないから練習して身につけて。それじゃ今度はみんなもしてみて」
全員が肩幅ほどに足を広げて腹式で呼吸する。それをチェックする。普段から声の大きな知恵はできていたが背中には空気は入らない。他の三人は胸式での浅い呼吸だった。
腹式呼吸は女性には少し難しい呼吸だった。その理由は体内にある女性特有の器官のせい。腹部にある子宮の存在が腹に空気が入るのを邪魔していた。しかし女性には絶対にできない呼吸法ではない。難しいというだけで練習すれば使用は可能。
「いっぺんには無理だから。まずは腹式呼吸をマスターしてみよう。桂さんソファーに仰向けに寝転んで」
寝かせた桂に呼吸をさせる。立ったままの状態ではピクリとも動かなかった腹部が空気の進入とともに小さく盛り上がる。
「これで練習して感覚を覚えれば立ってでもできるようになるから」
「はーい」
女子三人の明るい返事が返ってきた。
ずっと練習をしているような根気がみなに無かったので休憩になる。桂は近くのコンビ二にお菓子を買いに出かけ、部屋の中は女子中学生だけになる。
「それにしても桂さんて優しそうなお姉さんやな」
「うん。家のお姉ちゃんとは大違い。あたしもこんなお姉ちゃん欲しかったな」
「……私も。一人っ子だから羨ましいな」
「ウチは別の意味で羨ましいな。見てみ、あの胸。美月ちゃんは毎日あんなんと一緒に暮らしてるんやで。そら中身は男のようになるわ」
何も答えない。黙って聞いているだけだった。
「ねぇ、隣の部屋にベッドとかあるんだよね。どんな風になってるの? 見てもいい?」
「えっ、駄目」
文が美月の了解の声を聞く前にドアを開けようとした。慌てて止めようとするが、間に合わない。
隠していた空間が衆目にさらされた。
ピンクを基調とした色使いは桂の趣味。大き目の本棚にチェスト、それからパソコンが置かれている机。そして部屋の主であるかのように大半の空間を占めているセミダブルのベッド。
見られたくはなかった。美月は桂と同衾していた。といっても昔のように性的な意味合いを持つものではなく、家族が一緒の布団で眠るという感覚だった。一緒に暮らし始めた頃、美月はソファーでいいと言った。それは桂が許さずに同じベッドで眠るようになった。それじたいは嫌では無い。しかし隠しておきたいことだった。中学生が一人で寝ていない。美月の感覚からするとおかしなことであり、恥ずかしかった。
「もしかして秘密だった?」
「そんなん気にせんでもええやんか、別に。家族なんやから一緒に寝るのはおかしないで」
「……かわいいと思う」
恥ずかしい秘密を見られて落ちこんでいる美月にそれぞれが慰めの声をかけていた。
「ただいまー。お菓子とお茶買ってきたよー。あれっ? なにかあった?」
コンビ二から桂が帰還する。それで有耶無耶になった。休憩を延長して楽しむ。その後、練習を再開。美人の声は小さなままではあったが少しは成果があった。
「もっと姿勢を良くして意識を前に出せば声は出るようになるよ。それに背が高いんだからもっとちゃんと立てばカッコいいし、声も出やすくなるよ」
猫背気味の姿勢を指摘する。
「……ありがとう」
赤面しながら、そしていつもは曲がっている背中を伸ばして美人は言った。