ドキドキ、新生活 7
「あの、……相談があるんだけど」
美月は食後、まだ少し落ち込み気味の桂に切り出した。あんなことがあったのだからもっと後でもよかったのだが今言わないと忘れてしまう可能性もあったから。
「何?」
「……髪を切りたい」
「そんなの駄目よ。せっかく綺麗な髪をしてるのにもったいないよ。私なんて伸ばしたくても曲っ毛だから、美月ちゃんみたいな黒くて綺麗な髪がうらやましいな」
桂の髪は肩までの長さで天然の軽いウェーブがかかっていた。昔から綺麗なストレートの髪に憧れを抱いていた。
美月の髪は放浪していた時の汚れがすっかりと落ち、元の艶やかさを取り戻していた。モゲタンの管理は身体だけではなく髪の毛先にまで行き届いていた。
綺麗な長い黒髪を指で触りながら言う。
「でも自分で上手く纏められないから」
一人では上手くできない。悪戦苦闘した。実証済みだった。
「そうね、ちょっと長すぎるかも。前髪も目にかかっているもんね。少し鋤いて軽くするのもいいかも」
桂の手が美月の髪に触れる。前髪を掻き分けながら言う。
「それじゃあ」
願いが通った。この少し鬱陶しく感じる長い髪から解放される。男であった頃はずっと短かった。
「でも切るって、どれくらい?」
美月が頭に思い浮かべていたのは手入れの楽そうなショートカットだった。あれ位の長さなら面倒臭そうなブラッシングの手間が省ける。
「できるだけ短く」
簡潔に希望を述べる。長い髪は自分では上手く纏められない。
「そんなの絶対駄目。ショートも似合うかもしれないけど、ロングの方が絶対美月ちゃんは可愛いよ」
桂は大きな胸の前で腕をクロスさせバッテンを作り美月の意見に反対した。その勢いに反論ができなかった。
「それじゃ今度のお休みの日に美容院に行ってもっと可愛くなろうか」
楽しそうな表情で桂が言う。
その後も少し話し合った。その内容は髪のことではなく家事のことだった。これからは食事の準備は自分がすると美月は言う。世話になるばかりでは心苦しいと感じていた。桂は何もしなくてもいいと言ったが、何もしないで過ごすのは気が治まらなかった。
話し合いの結果、美月が食事と洗濯、桂は掃除に決まった。
ご飯を作るのには問題は無かった。今まで数多くのアルバイトを経験している。賄い料理に釣られて飲食店でも働いた。その時の経験がある。それに今は材料を切るだけで簡単に調理できる調味料も多い。レパートリーにも苦しまないはず。
洗濯には問題があった。洗濯物を洗濯機に放り込んでスイッチを押せばすむと考えていた。稲葉志郎であった頃はコインランドリーに行く金も無く手洗いをしていた。それを考えれば楽のはずだった。しかし色々と勉強することがあった。下着類や金属のついているものはネットに入れることを知った。干し方にもコツがあることを綺麗好きな桂にみっちりと仕込まれた。
モゲタンの指示で市役所に赴いた以外は平穏な一週間だった。
この間、頭の中で一度も警告音は響かなかった。
土曜日の夕方、美月は桂との買い物帰りに約束の美容院へと赴いた。人生初の美容院だった。男であった頃は理容店で短く刈っていた。お金が無い時には知人からバリカンを借りて自分で坊主頭にしたこともあった。
だから、自分には縁の無い場所だと思っていた。
「さあ、どんな風にする?」
鏡の前のイスに座る美月に男前な雰囲気を漂わす女性美容師が美月に訊く。「貴女と同じくらいの髪の長さにして下さい」と言いかけたが止める。桂との約束でショートカットにはしないことになっていた。
しかし、どのような髪型にすればいいのか美月は自分で判断できなかった。そもそも何が似合って、何が似合わないかサッパリと分からない。答えられずに困ってしまう。
「とりあえず、長さは少し短くして。それから前髪を可愛く。目に入るのを嫌がってるみたいですから」
桂が代わりに注文を出してくれる。
「了解。それじゃ、もっと可愛くなろうか」
カットが始まる。お尻まであった髪は背中あたりの長さに。懸案だった前髪は眉の辺りで切りそろえる。そのままでは市松人形のようになってしまうが、プロの技でそんなことにはならない。
客観的な視点から美月はこの少女の顔立ちが可愛いことは認識していた。しかし自分の顔であるという自覚はあまり持ち合わせていなかった。モゲタンの力で創りあげられた仮初の存在でしかない。本当の自分とは違う。
しかし鏡の前で変化していく姿に妙な気恥ずかしさのようなものを感じた。可愛いのが、さらに可愛くなっていく。
それから女性の心理を一つ学んだような気がした。髪型でこんなにも印象が変わる。桂がアレンジにこだわっていた理由が今になってようやく分かった。
「それにしても長いのに綺麗な髪質してるよね。何か特別な手入れでもしてた?」
美月は何もしていない。一緒にお風呂に入っている桂がいつも頭を洗髪してくれていた。
「そうですよね、いつも髪を洗いながら思うんです。いいな、羨ましいなって。それにドライヤーを使わなくてもきれいに乾くんですよ、変な癖も全然つかないし」
先にお風呂から上がる美月はドライヤーを使用して髪を乾かしてはいなかった。バスタオルで軽く拭き、後は自然乾燥。これには秘密があった。モゲタンが体をサポートしてくれているので髪についた余計な水分もすぐに飛ばしてくれていた。髪質も管理してくれていた。自分で乾かす面倒がなく美月もその点については文句の一つも言っていなかった。
「ドライヤーで髪を傷めてないのがいいのかもしれないね。成瀬さんは少し痛んでいるから気をつけてほうがいいわよ」
「……はーい」
美容師の思わぬ注意に桂は力無く返事した。
「ねぇ、ねぇ、美月ちゃん制服着てみて」
美容院から帰ると桂が美月に言う。髪を切る前にした買い物は来週から着用する中学の制服。
モゲタンの力を借りて地元の中学に通うことにした。本心を言えば桂の勤める私立高校が良かったのだが、この幼い少女の身体はどこかどう見ても高校生には見えない。それどころか中学生だって怪しい。小学生の肉体だった。だが今更ランドセルを背負うのには若干の抵抗があった。そこで協議し、妥協点として見出したのが中学二年生。
真新しいセーラー服を箱の中から取り出し着る。一番小さいサイズを購入したはずなのに身体に合っていない、ブカブカだ。
鏡に映る姿は紺と白のセーラー服を着ているのではなく、着られているように映ってしまう。
「……はぁぁ」
出すつもりなんか全然ないのに、勝手にため息が一つ
〈どうした?〉
「……もう一度中学生になるなんて思わなかったな。それも今度は女子で」
〈すまない。ワタシの力不足で〉
「……いいよ別に。お前がこうしてくれたから、また桂と会えたんだから」
〈そう言ってもらえると、ワタシの気も少しは楽になる〉
「美月ちゃーん、準備できたー?」
ドアの向うのリビングで桂が美月のセーラー服姿を楽しみに待っている。照れと恥ずかしさがあるが、覚悟を決めて出て行く。が、羞恥心を完全に払しょくすることができずに美月はモジモジとしながら桂の前に立った。
「スカートが長い」
開口一番鋭く桂が言った。サイズの大きいスカートは完全に美月の膝をその内側に隠していた。
まるで古風な女学生のよう。
「……でも、これでいいんじゃ」
着方としては間違っていないはず。
「ちょっと見せてね。……ああ、やっぱり下げすぎ。これをもう少しあげて」
スカートに慣れていない美月はズボンの感覚で穿いていた。当然位置が下へと下りる。桂はそれを本来の高さに調整する。
「これでもまだ少し長いわね。もう少し上げないと可愛くない」
膝はもちろんだが太ももの大半までがスカートの裾の外に出る。これではまるで男を誘うみたいだ。美月は桂の手を振りほどき元の位置に下げようとした。
「これじゃ短すぎるんじゃないのか」
まだ慣れてないスカート。脚がスースーして、少し落ち着かない。
「可愛いわよ。それに若いんだから足をださなくちゃ。年を取ったら出すのに勇気がいるんだから。今のうちに楽しんでおかないと」
後半の声はなぜか沈んでいた。
「丈は後で調整するとして、今度は髪の毛で遊んでみよっか。美月ちゃん、コッチに来て座って」
桂は美月を鏡台へと手招きして座らせた。手にはブラシとゴムが握られていた。手早く髪をいじり素早くツインテールに仕上げる。
「こういう子供っぽいのも似合うよねー。それじゃ今度は」
解いて今度は一本にする。ある程度高さで纏める。ポニーテールが完成する。
「セーラー服にポニーテール、キリっとした顔立ちしてるし。後はヨーヨーと警察手帳があれば完璧かな」
「それじゃ、スカートの丈は長くなくちゃ」
「あれ、美月ちゃん知ってるの?」
桂にそのドラマの映像を観せたのは昔の美月だった。知っていて当然である。だけどこれ以上余計なことは言わなかった。何かの拍子でボロを出してしまう可能性がある。
「意外と昔の知ってるんだね」
そんなことには気付かない桂が美月の知識に驚嘆した。
「……変?」
これから中学生として生活していくのに、そんな昔のことを知っている。それはおかしいことなのかと思って聞いた。
「ううん、気にしなくてもいいから。温故知新という言葉もあるの。古いことを知っているのは悪いことじゃないわ」
勝手な勘違いをして、そして気を使って桂が言った。
「それじゃ今度は、これの元ネタはわかるかな?」
今度は三つ編みだった。すぐには思いつかず美月は首を傾げた。古今東西三つ編みのキャラクターなんて多すぎる。これだけでは桂が何を意図しているのか思いつかない。
「これだけだと無理か。あれはセーラー服じゃないし、それに髪の色も違うしね。……それじゃヒント一、そばかす」
ヒントを貰ってもまだ思いつかない。美月は首を振る。
「それじゃヒント二、あ、……これだとすぐ分かるから別ので。……美月ちゃんは転校生になるんだからからかってくる同級生の男子の頭を石版、は今時無いから、ノートで叩いたら駄目だからね」
そのヒントで答えが分かった。桂が好きな本だ。
「そんなことはしないよ。プリンスエドワード島の赤毛の少女じゃないんだから。それに、ここにはおじさんがいないよ」
「正解。それを言うなら私はおばさんじゃないわよ。それじゃこれは……」
桂が笑いながら美月の髪型をまた代える。
楽しい夜は更けていった。