エピローグ
霧崎健一という人物はこのように死んだ。彼は現代の人間に「死」を見せつけ、万人に死を思い起こさせるという目的で首を吊ったが、その結果は一体どうなったのだろうか。
結果から言えば、彼の目的は達成されなかった。霧崎健一という狂人がネット上で、自分の死を配信した事、奇怪な哲学的檄文を残した事、そうした事はネットの一部では情報として速やかに広がったのだが、あくまでも奇異な狂人のした事として一部の人間の興味を引いただけだった。彼が目的としていた、一般の、つまりは「死」を忘れ、周囲の日常生活に埋没しそれに何の疑いも抱かない人…こうした健常者が霧崎の事件を知ると、眉をひそめ、(そんな狂人の話はやめてくれ)という態度を取ったのだった。
霧崎の死体は、死後しばらくしてから警察が発見した。警察は不動産屋から合鍵をもらい、アパートの中に入った。そこには首を吊った霧崎の死体があった。警察は医師を呼んで簡単な検死を行い、自殺と判断した。霧崎の家族が呼ばれて、死体となった霧崎と面会した。霧崎の両親は遺骸となった彼を見て絶句し、涙を流す事もできなかった。心痛はあまりあるものだったが、私はくどくどとその事をここに書くのはやめておこう。霧崎の両親は、霧崎の目からどう見えていたにせよ、「普通」に分類されるようなタイプの人だった。彼らは普通の両親が普通の子供を愛する如く、霧崎の事も愛していたのだった。
霧崎の自死の件はネットの一部で広がった。檄文の事も取り上げられ、一部には文才を褒め称えるものもいたが、全体としては否定的な評価であり、檄文の内容を本格的に考察する人間もほとんどいなかった。ただ、ネット上のほんのごくわずかの人物、二、三人の人物は霧崎の事件を重く受け止めていた。これら、二、三の人間が事件を重く受け止めたのは、檄文の内容が単なる自己満足的なレベルを越えていたからであって、これらの人は事件について密かに思考し、その意味について考えこんだ。とはいえ、それは霧崎に同意するものではなく、霧崎の行った事を「事象」として捉えようとする努力だった。
ここで話は終わってもいいのだが、私は最後に、この物語の中で出てきたある人物が事件を知って、特徴的な会話をしていた事を記しておこうと思う。その人物とは大学講師の今田である。
※
講師今田が事件の全容について知ったのは、霧崎が死んでから丁度一週間後の事だった。彼は、人類学の教授に「うちを中退した学生が自殺したそうですよ、ネットに載ってます。知ってます?」と言われて始めて気づいたのだった。今田はニュースなどには疎い方だった。
今田はネットで検索をかけ、死んだのが霧崎だったという事を知った。彼の顔写真もネットには出回っており、今田はそれを見て、非常に痛々しい、辛い気持ちに襲われた。自分が真剣に話し込んだ相手がそのすぐ後に死ぬとは、辛い事であると共に、非現実感が伴う。今田はそんな非現実感に襲われながらも、(彼ならやりかねなかったな)と考えた。
今田は当然、檄文も読んだ。彼はそれを隅々まで読みながら、霧崎との議論を思い出していた。思い起こせば、学生とあれほど真剣に、哲学、人生、社会の事について議論する事など滅多になかった。彼の元に来るのは大抵、出席が足りなくて単位を懇願しにくる学生や、雑談をしたがる生徒であって、真剣に学問的な討議をする事はほとんどなかった。また、たとえそれがあっても、そうした熱心な学生は大抵どこかで身につけた一般的知識の集積を自分の思考や哲学と誤認しており、自分の思考を練り上げるという作用を知らないのだった。これはほかの大学講師に対しても言えた事だ。いずれにせよ、今田は霧崎の熱意は認めたものの、彼に同意する事は不可能だった
霧崎が自死したという事に今田は密かに、心痛を感じた。彼はこれを大きなショックとして受け取った。だが彼は同僚にも家族にもこの事を一切言わなかった。彼は霧崎との議論の際、自分は本当に正しい事を言ったのか、もっと適切な答えを返してやれば、こんな事にならなかったのではないかと自問した。彼は誰からも見えない所で苦悩していた。苦悩に対する答えは容易には出なかった。
そんな中ーーつまり、今田が霧崎の事件詳細を知ってから三日後の事、今田の元にある人物が近づいてきた。今田はその時、研究室の外の喫煙場所でタバコを吸っていた。霧崎と議論した後に今田の安否を気遣ってくれた大学職員が、今田の元に近づいてきたのだ。彼は休憩時間らしかった。職員は三十代前半で、壮健な感じの人物だった。職員は軽く会釈すると今田の隣にやってきてタバコに火をつけて吸い始めた。「聞きました?」職員は言った。
「あの…霧崎君の事かい?」
今田は言った。
「ご存知だったんですね」
職員は今田の方をチラと見た。
「先生もご存知だったんですね。あの、霧崎という奴が自殺したという事を。先生…あの時、奴は先生にどんな用事で話しかけてきたんですか? 随分と議論しておられましたけど」
今田は職員の目を横目で見た。今田は職員が自分から何かを探ろうとしているのかと勘ぐったが、職員の目には純然たる好奇心しかなかった。元々、この人物はそう複雑な人間ではない。今田はそう思い直した。
「いや、霧崎君が一体何の用事で私の所に来たのかはわからなかった。私に会いにきたと言っていたが、本当の所、何を目的としていたかはわからなかったよ。しかし、霧崎君は檄文に書いてあったのと同じ思想を私に語っていった。私は同意しなかったがね」
今田は言った。職員はなおも好奇心をそそられるという眼差しをしていた。
「先生は、『霧崎君』と君付けで奴の名前を呼ぶんですね」
職員は言った。そこにはどこか皮肉な調子があった。
「まだ、彼を自分の生徒だとお思いなんでしょうか?」
「…思っているさ」
今田は言った。彼の目の前には熱弁する霧崎の姿があった。
「思っている。思っていけないというわけはないだろう?」
「ですが、先生。奴はもう三ヶ月も前に中退しています。それに…あれは狂人です。先生もあの時、そう感じておられたでしょう。だからこそ、先生は私に、奴の名前と写真を警備員に伝えておくように指示した。あの時は先生だって、あれを狂人だと思っていたはずです。違いますか?」
「違うな」
今田は珍しく、毅然とした調子で言った。職員は好奇の目で今田を見ていた。
「君の言っている事は間違っている。確かに私は彼をこの大学にとって危険な人物とみなした。それは確かだ。しかしそれは彼を狂人とみなすのとは違う事だ」
「でしたら」
職員はタバコの灰を灰皿に落としながら言う。
「先生は奴の事をどんな風に考えておられるんでしょう? よろしければ、お聞かせ願いたいですね」
「私は…彼の事をこんな風に考えている。彼は不幸な人間であった、と。彼の中には確かに、大きな情熱があった。…檄文に書いてあったようにね。しかし、その情熱が一体どこにはけ口を求めればいいのかわからなかった。それというのも、この社会にも責任の一端はあるように私には思われる。自分達には都合の悪い人間、自分達のシステムにそぐわない人間には『狂人』『異端者』のレッテル貼って、システムの外側に出す。しかし、霧崎君の言うように、システム自体が一体何によって支えられているのかと疑う事も許さないシステムというのはおかしな事だ。今は色々な事が規定的になってきている。今の若者が目指す職種は安定した公務員だという。彼らは社会が不安定になってきているからこそ、安定した職を求めるのだろう。しかし、人生において皆の考える安定というものがそもそも本当にあるのか、それを決定づけるのは難しい。世界は昔の仏教徒が言ったように、幻のようなものかもしれないのだ」
「それでは先生は奴の賛同者という事になりますね」
職員は嘲笑的な口ぶりで言った。
「そうでしょう?」
「…そうではない。私は彼の事を不幸な人間であったと考えている。彼が狂人に見えるのは、私達が自分の事を正常だと信じているからだ。しかし知らない間に、私達自身、正常から異常に滑り込んでいないとも限らない。霧崎君は時代が違えば、革命家になったかもしれない。文筆家になったかもしれない。しかし彼の情熱は硬直した世界の中で閉じ込められていた。彼の情熱は彼が死んだアパートの狭い一室のように、狭い洞穴に閉じ込められていた。彼はそこで世界を向こうに死んで見せるほかに自己主張する方法がなかった。彼のした事、彼の姿は狂人がやった愚かな行為ではない。彼のように自分自身の内に閉じこもり、狭いアパートから出る事ができず、かといって世界のシステムに安易に迎合する事もできない魂はついに自分を暴発してしまう他なかったのだ。現代の我々もまたそれぞれに自分の中に閉じこもっている。我々が彼を狂人だと認めるのは、我々が彼とは違う足場に立っていると感じるからだ。しかし彼が心の奥底で感じていたもの、彼をあんな暴挙に導いたものは、その足場そのものが脆弱なもので、もうすぐにでも壊れる代物だという予感そのものだったのではないか? 彼は私達皆の孤独な姿を代表している。彼は自分自身に妥協する事ができず、他人にも妥協できなかった。だからこそあんな姿であんな風に死んでしまったのだ。私は彼を現代の不幸な人間の一人として見ている。確かに彼の中にはありあまるものがあった。しかしそれをどう世界の中で生かせばいいのか、ついに彼にも見えなかったのだ。霧崎君は私の生徒だったし、今もそうだ。彼は一人の人間として生きて、死んだ。私は彼を狂人ではなかったと考える。彼は真面目だった。真剣だった。だからこそ、あんな暴挙に出たのだ。彼は私達自身の孤独な姿の象徴として死んだと言う事もできるだろう」
今田はそれだけの事を熱意を込めて話した。職員は今田の言葉に圧倒されつつも、今田に対して軽蔑の視線を送る事で自分の論理を保とうとした。つまりは、「狂人」の領域に、霧崎だけでなく今田も放り込んでしまえばいい、というわけだった。
職員は今田に対してそれ以上反論しなかった。反論しても自分には勝てないとよくわかっていたからだ。職員は、先生のご意見はよくわかりました、そろそろ私は時間なので行かなくては、と告げ、場を去った。喫煙場には今田一人が残された。
今田は自分の述べた言葉に対して余韻のようなものを感じていた。それは快いものではなく、苦い感触だった。彼はタバコを吸いつつ、目の前の煙の中に狂人の青年の姿が浮かぶような気がした。
今田の頭には様々な事が浮かんでいた。しかしそれはタバコの煙のように、霧のように淡いものだった。やがて今田はタバコを灰皿に押し付け、火を消した。今田は時計を見て、自分には今日中に片付け無くてはならない事務作業がある事を思い出した。今田は喫煙場を後にした。今田の残していったタバコの煙は、誰かの残り香のように喫煙場にしばらくぼんやりと漂っていた。
(引用部分は江川卓訳 ドストエフスキー『悪霊』より)