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ネットに向かって

 霧崎は今、非常に奇妙な気分の中にいた。彼は檄文を書き上げ、ネットに載せた。檄文において描かれた彼は、迷いがなく、人類の為に死ぬ殉教者だったが、現実の彼は迷っていた。彼は自分の中に恐怖も感じていたし、考えこんでもいた。


 それでも彼はアパートの壁に釘を打ち込み、ロープを取り付けていた。細いが頑丈な紐は、彼の体を支えるには十分のはずだった。首の動脈を絞めれば苦しまずに死ねるという事もわかっていた。足元の台には風呂場で使っているプラスチック製の椅子を使う事にした。霧崎は台の上に乗って首に紐を実際にかけ、皮膚が痛くないか、きっちりと動脈が絞まるか、釘が折れたりロープが切れたりしないかを何度も何度も確かめた。


 意外に難渋したのは、配信サイトで自殺を見せるという事だった。カメラ位置の調整に手間取り、首に紐をかけた状態でも配信サイトのコメントが見られるようにモニターを動かすのが難しかった。結局、霧崎は机ごと動かして壁の方に近づける事で問題を解決した。コメント欄はツールを使って拡大して映す事で対処した。


 ブログで予期した時間が迫っていた。十五分後だった。彼は、自分でも馬鹿馬鹿しいような、また妙に愉しいような、ふわふわとした時間の中にいた。しかしそれでいて無意識の奥には、自分が絶対に避けられない何かがあるのを感じていた。


 準備を終えると、彼はベッドに座り込んだ。机を動かしたせいで部屋の様子が変わっており、いつもとは違うものに見えた。(よし、これで準備はできたな。紐さえ切れなければ多分、僕は死ねるだろう…) 霧崎は非常に茫漠とした気持ちだった。彼の心は深い闇の中にとらわれ、同時に、薄く、明るい光にとらわれてもいるようだった。(奇妙だ、奇妙な感じがする。後、一時間後には僕は地球にはもういない。その頃、僕の魂はどこかの宇宙を飛んでいるだろう…唯物論の馬鹿共はこんな空想を笑うだろうか? 馬鹿め! …だが、連中だって、死の前になれば、お祈りの一つくらいあげるに違いない。金とセックスの事しか考えていない奴だって、死ぬ前には般若心経の一行くらい読むかもしれないな。それに、現代の物理学はまわりまわって、僕らの魂が死後遊んでいる場所を発見するかもしれない…。量子論、ブレーンワールド、多元宇宙…。もちろん、こんな事は戯れ言だが…)


 彼はぼうっと考えた。(これから僕は死ぬ。…しかし、本当に死ななければならないのか? なんて事だ! 精神もあり、肉体もあるまだ若い男がどうしてこんな風に、醜悪な死に方をしなければならないのだ? しかも、自分の意志で? ああ、なんてひどい事だろう。これがまだ死刑で死ぬんだったら、僕だって悲劇的な幕引きを期待できるのに。僕は人類に同情の涙を注いでもらえるだろうに。なんだってこんな醜悪な? どうしてだ? どうして、この閉塞感は破れない? 閉塞感、閉塞感! こいつだ、問題はこいつだ! こいつだよ、僕はこいつを破りたいばっかりに自殺を決意した。死ね、死んでしまえ! …だが…そうだ…本当に「死」は解決なのだろうか? なんてひどい社会だ。大学中退したら、もう行き場がない。中学や高校を中退したらどれほど能力があっても行き場がない。逆にどんな馬鹿でも、学歴やらなにやらで良い会社に入れたりする。保守的な社会だ。ひどい…嘘だな…誰かは言うだろう。お前の努力がたりないのだ、と。バーカ、お前を殺してやる…僕は…死ぬんだ…くだらない…)


 時間は迫ってきていた。


 (僕はさっきから何を考えている。死刑になった人間は、処刑台までの瞬間瞬間を明確に覚えているという…それに比べて僕の意識は薄暗い。ああ! 僕は自分の人生を一瞬足りとも生きた事はなかった! 本当に自分自身を満喫した事は一度もなかった! それで奇妙な考えに取り憑かれて死ぬ事となった! なんて愚かなんだ! なんて馬鹿馬鹿しいんだ! ……ククク、でも、やってやろう。これは…本当の事だ…「嘘」じゃない……)


 霧崎は立ち上がった。彼はパソコンの前に行った。配信の時間まではあと五分だった。彼はマイクをつけて、配信開始時間を待った。彼は息を潜めて、時間を待った。霧崎にはその五分は、まるでブラックホールに近づく宇宙飛行士のように、時間が無限大に伸びている気がした。意識は朦朧として薄暗いにも関わらず、頭のどこか一点に明かりがついていて、完全な無私になれない自分がいた。頭が何事かを考えていたが、全てはくだらないものに違いなかった。それにも関わらず、考える事をやめられなかった。

時間が来た。霧崎は配信ボタンを押した。配信サイトが開かれる。霧崎は配信番組のタイトルを既に入力していた。「自殺配信ーー人間達に死を見せつけてやる」というのがタイトルだった。(配信番組では『檄文』のURLも関連情報として載せていた)


        ※


 現段階において霧崎の精神は極限的なものとなっているわけだが、語り手の私はここで、少しだけこの微分的な時間を省こうと思う。


 というのは、霧崎の精神の極限的な状態に比べて、配信サイトの方での視聴者はほとんど集まっていなかったからである。彼が地獄に居座っているような気持ちで配信ボタンを押してから二十分経っても、視聴者数は二人しかいなかった。しかも二十分の間にコメントは一つで「はやく死ねや」というものだった。

霧崎は極限的な気持ちだったが、さすがにこのような状態では首を吊るには忍びないと感じた。彼の行いは、彼の中では世界中が瞠目しなければならないものであって、もちろん、無名の人間の配信にそうそう人が入る事はない事は知っていたものの、それにしてもあまりにも惨憺たる有様だと霧崎は判断したのだった。それで、霧崎は死ぬのを延期して、人が入るを待った。


 そこからは彼自身、予期していない長い夜が始まった。彼にしたところで、全てが決定された今になり、こんな馬鹿げた時間を浪費するという事は予想外の事だっただろう。霧崎の命を賭けた自殺配信にあまり人は入らず、人は、どこぞのアイドルやどこぞの歌手がやっているくだらない「公式チャンネル」に殺到しており、彼の命を賭けた行為には全く興味が無いのだった。霧崎はその事に立腹したが、その立腹も、どちらかと言うと、人々への諦念をたっぷり含んでいたので、本格的な怒りにならなかった。


 また、なおかつくだらなかった事は、少数の人間が書き込むコメントが実に低劣だった事だ。(質の高いコメントは元々期待していなかったが) それは、「はやく死ね」「死ぬのが怖いんだろ」「首吊りで死ぬ? ビビってんなよ、刃物で腹かっさばけや」のようなコメントであって、自殺を諌めるコメントも「自殺? まあ、やめとけよ」とか「世の中にはもっと苦しんでいる人がいる。お前のエゴで勝手に自殺するんじゃねえ」という理屈のよくわからないコメントもあった。霧崎はそれらのコメントを読み、それに対してマイクを使って返答していたのだが、やっている内に実に馬鹿馬鹿しい気持ちになってきた。


 一人の人間が自らの命を賭けてある行為をしようとしているのに、傍観者的な、いい気分の連中というのは一体なんだろう。彼らの人生こそが、最初から最後まで傍観者であり、何一つまともな事をできはしない低劣な人生であり、彼らこそ、最下等の人間である…霧崎はそんな考えで自分を慰めようとしたが、コメントに対する苛立ちは収まらなかった。彼はコメントに受け答えしつつ、三島由紀夫が自決した時の事を思い出した。あの時も、三島由紀夫の極限的な行為に当時の自衛官達は野次を投げつけるという低劣な行為しかできなかったのだった。霧崎からすればそれは畜群共の畜群意識を代表したものと言えた。


 それでも霧崎は人が集まるまで待った。別に、今この時、万人が見ている必要はなく、今見ている人間はこの私ーー霧崎の語り部となればいい。彼はそんな風に考えていたが、しかし、集まる人は少なく、霧崎が配信を始めてから三時間が経過して、リアルタイムの視聴者は五十人という所だった。彼はその数を見て、もういっそこのタイミングで死んでしまおうかと思ったが、百人までは待とうと思いとどまった。


 もちろん、こんな事は実に馬鹿馬鹿しい事だった。五十人だろうが百人だろうが、もっと言えば、千人だろうが万人だろうが、よく考えれば大した違いはないはずだった。霧崎が命を賭けて自殺しようと、人にとっては所詮他人事で、他人が死のうが死ぬまいが、人は知った事ではないのだった。それでも、霧崎は自分の正義心に駆られて、それをしようとしていた。彼はその滑稽さについてはよくわかっていた。霧崎は何時間も配信画面を見続けてつくづく、人生はドラマではないという事を思い知った。この人生の最期の時に…。人生とはドラマではなく、滑稽で無残で、皮肉的なもので、馬鹿馬鹿しく退屈なものだった。人は命を賭けた行為や、真剣な哲学、全てを描いた文学などには見向きもせず、大抵は今この瞬間のみすぼらしさを糊塗してくれるアイドルやお笑い芸人や役者やら何かのイベントやらに殺到するのだった。霧崎は今や孤立していた。彼は本気で自殺を中断しようかと思い悩みすらした。


 霧崎が配信を開始して、五時間が経った。既に時刻は深夜となっていた。彼はその間に、自分が本当に死ぬのだという事を示そうとして、実際に首に紐をかけて、机の上のマイクに向かって「もう死ぬぞー。これから、本当に死ぬからな」と呼びかけたりもしたのだった。しかし、視聴者のコメントは別に変わらず、「さっさと死ね」「はやく死ね」「お前みたいなのはこの世にいらないんだよ」というもので、諌めるコメントも「不動産業者に迷惑だからやめろ」「どうせパフォーマンスなんだからやめとけ」と言った類のもので、真剣なコメントは一つもなかった。つまる所、全員が他人の死に対して(おそらくは自分の死に対しても)傍観者なのだった。


 ちなみに、霧崎は、何故自分が死ぬのかという哲学的な話も、少ない聴衆に対して語ってはいた。だが、視聴者はまともに聞いておらず「哲学(笑)」のような嘲笑コメントがパラパラ流れるばかりだった。


 霧崎は今になって改めて、キリーロフの言葉を思い出さずにはいられなかった。「だれもが記憶にとどめるのだ。だれもが知るのだ。顕るるためならで、隠るるものなし」 キリーロフはこの言葉を、薄暗い穴倉のようなところで、ピョートルという軽薄な革命家に対して語ったのだった。キリーロフは自身の命を賭けた、自殺という行為の意味を、自分が嫌悪する人間について語らざるを得なかった。彼の時代にはインターネットのようなものはなかった。だからこそ、彼は自分の死がピョートルのような軽薄な人間を通しても世界に対して明らかにされなければならないと信じるほかなかった。当初、霧崎は自分はキリーロフのようにはならないだろうと思っていた。世界は狂い、濁っているにせよ、少なくとも『瞠目』ぐらいはするだろうと霧崎は考えていた。


 しかし、今この土壇場になってみると、彼は相変わらず、キリーロフが死の前に口走った信念を自分もなぞらなければならないのだった。人はこちらの話を聞いておらず、嘲笑するか諌めるかのどちらかで、それが一体何か、今から霧崎が死ぬのはどういう思想的意味があるか、そんな事にはてんで興味が無いのだった。


 霧崎はそういう状況を自覚しつつあり、あまりの馬鹿馬鹿しさに苦笑すらした。精神の極限は配信ボタンを押す前に体験しており、今はあれから五時間も時間が経って、高揚も萎えてきた。霧崎はふいに哄笑しつつ、全てをバラバラに破壊したく思ったが、これまでこの計画の為に作り上げてきた自分の信念やら哲学やらを考えると、そうもいかないのだった。


 そうした中、ふいに一つのコメントが目に入った。


「お前は自殺配信するとか言ってるけど、ただビビってるだけだろうが。やれるものならやってみろよ、クズが。お前はどうせ死ぬ勇気なんてないとわかってんだよ笑」


 霧崎はコメントを見て、瞬間的に頭に血が昇った。もちろん、そうしたコメントが単なる煽りであり、ただの暇つぶしの哀れな人間が発したメッセージに過ぎないとは霧崎も理性的には理解していた。しかし彼はそのコメントを見た瞬間、自分の頭に血が昇るのを感じ「じゃあ、やってやろうじゃないか!」とマイクに怒声を放ち、立ち上がって吊ってあるロープの方に行った。彼は台の上に乗り、首にロープを巻いた。コメントには「はやく死ね」「やめろ、通報するぞ」などと言った言葉が並んでいたが、霧崎はもう見ていなかった。


 その時の彼の心境としては、まだ本当に死ぬつもりではなかった。彼は単に逆上にしたに過ぎないのであって、死ぬのはもう少し先だと彼は考えていた。霧崎は首にロープを締め付け、「よしやるぞ!」とモニターに向かって叫び、足元の台を蹴っ飛ばした。


 実を言うと、その時、彼は足場を蹴る振りだけをして、またそこに乗って、ロープをほどくつもりだった。彼はまだ死ぬ気ではなかった。しかし、実際には彼は間違えて、台を思い切り蹴ってしまい、それは思いの外、遠くへ飛んでいってしまったのだった。それは歩けば三歩くらいのほんの近い距離だったが、今の彼には無限に等しい距離だった。


 首にしっかりとロープは食い込み、彼は反射的に両手でロープに手をかけた。首が締め付けられ、即座に呼吸ができなくなる。その時、霧崎は目の前に白い光のようなものを見た。それがどういう脳の反応によって見えたのか、もちろん、彼には理解できなかったがーーそれは聖性の暗示に見えた。霧崎は自分が、自分とは違う何物かに変貌していくのを感じた。全身が一つの感覚となっていて、その感覚は何かに激しく刺激されていた。


 霧崎の首にロープはしっかりと食い込み、彼はもはや自分が取り返しの付かない所まで来た事を理解した。その先の事はもう考える事はできなかった。霧崎の意識は、すぐに途切れた。彼は両手をだらんと降ろし、もう呼吸していなかった。ロープは彼の首にしっかりと巻きつき、彼を絶命させるのに十分な角度と力を保持していた。彼の左手は痙攣でピクピクと動いていた。



 霧崎の意識が途絶えてから、ネット上では色々な声が流れていた。配信画面には霧崎がロープにぶら下がった姿が映し出されている。「やばい、やばいぞ」「これ本当にやばくねえか?」「あーあ、死んじまったよ、馬鹿だなあ」「いや、これはフェイクだろ。実際の首吊りはこんなものじゃねえぞ」…などなど、色々な書き込みが成されていた。そうした中で、霧崎が首を吊る直接のきっかけとなったコメントをした人間は、もし霧崎が首を吊って本当に死んだとしたら自分に罪が及ぶのかもしれないと考えて、その事に恐怖を感じて始めていた。ネットの向こうのこの匿名の人物は、すぐにインターネットブラウザを閉じた。この人物はそこから、(自分は悪くない、自分は悪くない…)とずっと続く言い訳を始めた。


 霧崎が絶命したのはそこから二十分後の事だった。彼の左手は始終ピクピクとしていたが、痙攣も次第に収まった。彼は、ほんの僅かな溝を乗り越えて、生者から死者となったのだった。彼は自分が新たな時代のキリーロフになれたかどうかを知る事はできなかった。しかしとにかくも、彼はそんな風にして死んだのだった。


 ちなみに、インターネット上で起こったこの事柄が、配信サイトの運営に伝えられたのは霧崎の絶命から二十分後の事であり、運営側は配信サイトの異常性を見て(そこにはぶら下がった霧崎の死体が映っていた)、配信を強制遮断した。運営から警察に連絡が行き、警察から、プロバイダに情報が行き、霧崎の住所を特定するまでにはかなりの時間がかかった。現実の死体が発見されたのは、彼が絶命した時から、五十時間ほどが経っていた。

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