ロープを買う
食堂を出た霧崎健一は激高していた。彼は激しい興奮状態の中にあって、周りが見えなくなっていた。
(なんだ、あいつは? なんなんだ、あいつは? クソ! 奴こそは僕の思想の理解者だと思ったのに! 畜生、俗人共を本気で信じた僕が馬鹿だった! ああ、馬鹿だった! なんて事だ! 僕は馬鹿野郎だ! これで何度目だ! 人間共め! ウジ虫め! 僕は奴らとは違う生を生きてやる! 彼らに僕の事は理解できまい。何も考えず、何も信じず、何も理解できないゴミ共め! 連中はこうして考える僕に対して「お前の方こそゴミだ」と言う。連中が背後に背負っている正当化の理念の源は、単なる多数派であるという事に過ぎない。畜群はその数を頼みにして王にのし上がった。魔女狩りが行われていれば魔女狩りが正しいという理屈が現れ、学歴社会であれば学歴が正しいという理屈が現れ、仏を祈る事が行われていれば仏を祈る事が正しいという理屈が現れてくる。理屈は後から出てきて、先にあるのは畜群共の妄念に過ぎない。今田! 奴もていよく真理の側をすり抜けた畜群の一人に過ぎない! ああ!)
霧崎はそんな事を考えながら、でたらめに道を歩いていた。周りには大学生達がちらほらといる。
この時、霧崎は気づいていなかったが、彼の足は以前には毎週通っていたゼミのある校舎の方へ自然と向かっていた。彼は熱に浮かれて歩いていたが、道を曲がった時、ふいに見覚えのある女を目の前に見た。女はブラウンの長髪で、白いブラウスを着ていた。横顔がチラリと見えた。女はこちらに気づかなかったが、霧崎はすぐ元来た道を戻って身を隠した。それは、霧崎を以前に振った佐倉恭子という女だった。
霧崎は建物の陰に隠れて、じっとしていた。彼は、今田との対話においても、もう彼自身死ぬ気であったので、まるで自分が鬼神であるかのような感覚で会話に望んでいたのだった。彼にはもう何も怖いものがなかった。自分が恐れるものなどこの世に一つもなく、世界のあらゆる事は彼には見知った事に過ぎないはずだった。…にも関わらず、彼は自分を振った女の姿をわずかに見ただけで、極度の恐怖に怯え、彼女に自分の姿を見られたくないという気持ちに駆られたのだった。
(あの女! 佐倉! 僕を振りやがって! 僕をコケにしやがって! どうして僕が気に入らなかったんだ! 僕は…あんな女なんてどうでもいい! あんな女なんてどうでもいいじゃないか! くだらない、くだらない奴だ!)
霧崎は佐倉をくだらない奴だと心の中で罵りつつも、彼女について考える事をやめられなかった。…結局の所、彼女は、彼女そのものがなんであれ、霧崎にとっては決して「くだらない」存在ではなかったのだった。
(あの野郎! 僕を振りやがって! ろくでもない、何の考えもなしの女のくせに! くだない、どうしようもなゴミのような奴だ! ただ、ぼんやりと大学の中で生きているだけの茶髪で、顔だけはそれなりに綺麗に整い、中身は空っぽの……そういえば、あの後、佐倉は演劇科の男と付き合ったって話を聞いたな。確か、軽音楽部でバンドマンだっけ? くだらない! 大体、演劇科のくせにバンドマンっていうのはどういうわけだよ! なんだ、それ! へっ、ギター弾けてればそれなりにかっこいいってか?)
霧崎は佐倉に見つからないように、来た道を引き返し始めた。彼は、裏門の方に向かって歩き出した。彼は、急に冷静な心持ちになり始めた。
(…いや、違うな。別にギターが弾けるからってわけじゃない。おそらく僕が振られたのは僕が「気持ち悪い」からだ。僕がそんな風に、大学の一部で噂されていた事を知っている。当時は連中を軽蔑していたが…。確かに、それは一理あるかもしれない。しかし、それはそうじゃないのだ。僕には内面の過剰性があって、それは人とは違う豊かなものなんだ。何もわきまえず、理解しもしない奴らが無下に馬鹿にしていい事じゃない。僕は……しかし、あの女、佐倉やら何やらが世の中に期待しているものは、僕の中にあるドス黒いものとは全く違うものなんだ。僕は…正しい。何よりも、正しい。おそらくこの世でもっとも物事を考えぬいた正しい存在だ。でも彼らにはそんなものは関係がない。人間がなんであるか、人間は何によって己を決定しなければならないのか、この世界は何なのか…そんな事は彼らには関係がない。彼らはただうすらぼんやりと、就職やら恋愛やらで適当に生きていければそれで十分なのだ。それで、僕のような人間は「気持ち悪い」というレッテルを貼られる。自分の存在について思い悩む事は…罪だ。この世界では。そういう事になっている。なんて堕落した世界だ。その世界の中で僕が生きているとは、これまたなんて馬鹿な事だ…)
霧崎はそんな事を考えつつ、裏門から学校を出て、バス停に向かった。バス停には人はまばらだった。学生達はいない。霧崎はわざと、学生が使うのとは違うバス停に向かったのだった。
彼は放心したように、ベンチに座り込んだ。良い天気だった。外には太陽が美しく照っていた。目の前には大きな空き地があり、草が生い茂っていた。草は光があたりキラキラとしていて、風に揺れていた。それはごく当たり前の自然の光景だった。霧崎の内面から一番ほど遠い景色だった。
霧崎はぼんやりと草が揺れているのを見ていた。そしてふと、今までの自分の考えは全て妄想だという考えが起こった。自分がこの世界の為に、自分自身の為に自殺し、それを世界に見せつけてやるーーそれによって己の尊厳を保ち、自己の意志の強さを世界に証明すると共に、世界に死というものをもう一度教えてやる。彼のそのような思想、奇妙な計画はよく考えれば、薄暗闇の中で思案された単なる妄想に過ぎなかったのではないか。目の前には風に揺れている草むらという平凡な光景がある。この光景こそがよく考えれば普通の現象であり、それに比べれば、薄暗い計画に熱中していた自分は間違っていたのではないのか。
霧崎は急にそんな思いに駆られた。彼は顔を両手で覆った。(そうだ、そうじゃないか……) そう考えると、全ては合点が行くような気がした。大学をやめ、それを親にも言わず、今彼は窮地に立たされている。しかし元の道に戻る方法もあるのではないか。大学に復学する? …いや、それは無理だろう。しかし、親に全てを正直に告白し、就職先を探し、また毎日のつまらない生活の只中に戻る。最近の「リアリズム」作家が一様に書いている退屈で平凡な現実へと帰っていく。まるで、それ以外は現実ではないと言わんばかりだ…。死を忘れた生活。死を、塀の向こうに隠して、自分達で仲間を作って楽しく生きる生活。誰かが末期癌にでも犯されれば、その人間に同情の涙を与えつつ、そっと、その人間を自分達とは関係のない領域に放り込んで、自分達でまたもとの平穏な世界を形作る。そんな世界、そんな平穏な世界。
バスが来た。霧崎健一は迷いの中にいた。彼は無意識的にバスに乗り、ポケットからICカードを取り出し昇降口の読取り機に押し当てた。その間、彼の顔面は硬直しており、ロボットのようだった。彼はガラガラの車内で、最後尾の席に腰掛けた。
霧崎はぼんやりとしていた。彼は窓外の景色を見ていた。そこには雑然とした町並み、住宅街やら市役所やら、駅前の繁華街やらがあった。人々はいつもどこかに向かって忙しそうに歩いていた。彼らの真の目的が何なのか、結局の所、霧崎にはわからずじまいだった。
彼は自分の自殺の想念を弄んでいた。それが正しいようでもあり、正しくないような気もした。どっちつかずの思考の中に彼はいた。車内に「次、停まります」という機械的音声のアナウンスが流れ、バスが減速して止まった。霧崎は反射的に体を起こし、運転席の方のドアからバスを降りた。降りる時、読み取り機にICカードをかざす事を忘れて、運転手に注意された。そんな事も別に彼には気にならなかった。
霧崎はバスを降りて、すぐ異変に気がついた。そこは、自分のアパートに一番近いバス停ではなかった。最寄りのバス停から一キロほど隔たった所だった。
どうしてこんな所で降りたのだろう、と霧崎は自分を訝り、ふいと顔を上げた時、目の前に大きなホームセンターがあった。彼はその場所を見た時、何もかもを合点した。(ああ、そうか。僕は…ロープを買っていなかったんだな。後、釘も買ってなかった) 彼は、自分の行動の不可解さ…あるいは合理性を直感した。彼はアパート近くのバス停で降りず、ホームセンター近くのバス停で降りた。彼はそれをほとんど反射的に、無意識的に行ったのだった。彼は直前に自分の自殺計画に疑問を感じ始めていた。にも関わらず、彼はごく当たり前の、「当然そうしなければならない事」のようにして、その場所に降り立ったのだった。
しかし、霧崎にはこの事は大した疑問を起こさせなかった。不思議だった事は、彼がこのバス停で無意識的に降りた事ではなく、彼がその事を知ってなお、その事に疑問を抱かなかったという点にあった。彼は当たり前のように、首吊り用のロープを買うために、ホームセンターの方へ歩き出した。
彼はホームセンターへと歩きながら、自分が以前から、計画の実行の為にはロープと釘を買い忘れており、それを隣町のホームセンターに買いに行かなければならない、と意識していた事を思い出した。その思いは彼の無意識的に溜まっていて、それが彼をして、近くのバス停で降車させたのだった。
霧崎はその事を自分で反芻しつつ歩いたが、その事は何の感興も起こさせなかった。全ては明瞭に決定された事であるかのように感じた。彼はさっきまで自分が感じていた迷いを綺麗に忘れ、自分の首を吊る用の道具を買いに、ホームセンターへと向かった。
霧崎はホームセンターに入り、目当ての品物を買った。ロープに釘。彼は縊死について事前に調べていて、それが成功率が高く、手軽に死ねる行為だと知っていた。また、失敗しないように、首を絞める実験も行っていた。彼はその時、タオルで実験して、気を失いかけたのだった。
霧崎はロープを買ってレジに持って行った時、「ねえ、君。僕はこいつで首を吊るんですよ、どうですか?」とアルバイトのレジ打ちに言ってやりたくて仕方なかった。レジを打っていたのは普通の、野暮な感じの若い女だったが(おそらく学生だろう)、彼は彼女に話しかけたくてたまらなかった。「ねえ、今から僕はこいつで首を吊るんです。どうですか? どんな感じがします? 首吊り用のロープを売るっていうのは? 時給八百円のあなたにも、こんな特別な時間が訪れるんですよ。…なにせ、僕はこいつでこれから首を吊るんですからねえ。…しかもですよ、あなた、僕は自分の首吊りをネットで世界中に中継するんです。どうです? 名誉なものでしょう? あなたが売ってくれたロープで、全世界に死体があらわになる僕の首が見事に吊られるんですからねえ? 愉しいでしょう? え!? そうでもない? …そんな馬鹿な、アハハハ…」
もちろん、霧崎は実際にはそんな事は喋らなかった。彼はただ妄想していただけだ。レジ打ちの女は霧崎に普通にロープと釘を売り、その事に何の感慨も起こさなかった。霧崎は毎日、沢山やってくる客の中の一人に過ぎなかった。霧崎はぶつぶつと独り言を言いながら、店を出た。