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今田との議論 2

 「うまく言えないかもしれないが…」


 と今田が話しだした。霧崎は顔を上げて、今田の言葉に耳を澄ました。


 「君はある種の深みにはまり込んでいるようだね。ある思想的泥濘のようなもの…。君のような生真面目で、倫理的な人間は極端な、過激な道に入りやすい。しかし、それは間違った事ではないのかもしれない。私は長年講師をしているが、生徒達は皆一様に、同じような表情や思考をしていると感じる事がある。もちろん、腹を割って話せば、色々な事は出るがね。しかし私は思うのだよ。彼ら大学生達が皆、一様に気づいていないか、気づきたがらない事に本当に大切な事があり、それは学問によっても文学にもよっても触れる事はできないのではないか、と。私の専門は社会学だが、社会から人間を洞察しても、哲学から人間を洞察しても、うまく触れられない人間の深部のようなものがある、そのように感じる事がある。君はおそらく、人々がそれを無視している事に苛立っているのだろう。そんな気がするな…」


 今田はじっと自分の思考に集中しながら話した。霧崎は黙って聞いていた。


 「私は教師だから、何事にもうまくやっていく学生というのをよく知っている。彼らは大学に入学するや否や、友人を作り、恋人を作り、講師ともそれなりにうまくやる。単位を取る為に仲間内でノートを回し見て、論文のテーマはどこかから取ってくる。サークル活動と飲み会に明け暮れ、たまには恋人ではない異性と遊び呆ける事もあるだろう…。彼らは三年の後半になると急にそれまでの遊び人的態度を捨て、スーツを着て、就職活動を始める。これまでの遊びは子供の遊びだったという事でノウハウ本を手にとって、企業の資本金や株価を調べ始め、四年生になった時にはそれなりの企業に内定が出ている。彼らは二十代の内に、結婚し、子供も作り、それなりにうまくやっていくだろう。彼らの行く手に、偶然における危機、破綻が来るまでは彼らはそんな風に何事にも適当に、うまく合わせてやっていく。ただ、私は彼らの中に何の未来も感じない。彼らはただ生きているだけだ。彼らはただ生きているだけであり、それが何かとは決して考えない。苦悩のない所に価値はないだろう」


 「それでは、先生!」

 霧崎は思わず叫んだ。

 「先生、それでは僕と同じ主義じゃないですか! 僕達は仲間じゃないですか! そうでしょう? そうじゃ ないですか!」


「まあ、待て。落ち着け、落ち着くんだ」

今田は言った。彼の声も大きくなった。


 「落ち着くんだ。まだ全てを言ったわけではない。…落ち着くんだ。…確かに、君にはそういった人々とは違う何かがある。しかし今やそれは、間違った方向へと向かっているように、私の目には見える。どうして君の情熱はそうした方向へ行ってしまうのか…。確かに、平均的な生活を愛し、生きる事に何の疑いも抱かず、ある種の醜悪な事柄からは目を背けている人間よりも、君の方が情熱にあふれている。そう言えるかもしれない。しかしその情熱は正しい方向へと導かれなければ、単なる狂気へと陥ってしまう。セルバンテスの『ドン・キホーテ』という小説は知っているかね?」


 「はい! 知っています!」

 霧崎は異様に元気よく答えた。今田は考えつつ、続けた。


 「主人公のドン・キホーテは、自分自身を英雄騎士になぞらえて、スペインの日常的世界に出て行く。そこで、例えば風車を化物だと勘違いして襲いかかり、傷ついてしまう。…いいか、ここで大切な事は、世界的に名を残した作家セルバンテスは『ドン・キホーテ』を描いた人物であり、ドン・キホーテ本人ではなかったという事だ。君にはおそらく…時間が必要なんだ」


 「しかし、先生!」

 霧崎は思わず大きな声を上げた。近辺にいた一人の生徒が二人の方を見た。


 「先生、ですが、先生は僕の何を知っているというんですか? 僕の思想の何を? 僕はまだはっきりと自分の思想を、野心を先生に話したわけじゃありません。それに、大切なのは『時間』じゃありません。僕が一体何者か、どのような人間か、何才かではなく、僕の意見が正しいか否か、ただそれだけが問題なのでしょう! そしてこの脆弱な人間達にはどうしても死を見せつける必要があります。死を、人間達が忘れている死を!」


 今田はうろんな目で霧崎を見た。今田は霧崎の目の奥に、今やはっきりとした狂気を見た。

 「君が何をする気かは知らんし、聞きたくもない。…しかし、君はある性急な考えにとりつかれすぎている…」


 今田は霧崎から目を離して言った。霧崎は今田を食い入るように見ていた。


 「君は今、正しいか否かただそれだけが大事だ、と言った。しかし、物事はそんな風に単純には行かないのだよ。確かに、現代の人間は死を忘れているかもしれない。しかしだからといって、死を見せつけたり、死を教えたりする事が正しいとは限らない。人々は、誰かに死を教えられるのではなく自分の人生で、生の反対の死を見つけなければならない。親族の死、親の死、交通事故で死にかけた経験、これらの事が結果的に彼らに死を思い起こさせるかもしれない。しかしね、死の事ばかり考えている人生も問題だ。君は…自分を正義の光で包もうとしている。君はある信者、犠牲者として生きようとしているようだ。しかしそれが真実かどうかはわからないのだよ。たとえ君の言っている事が正しいとしても、その正しさはどのように人々に行使されねばならないのかという点の方が正しさそのものよりも大事な事だ。そして君もまた、生きねばならない。君は人生をある一つの解答に、見えやすい、わかりやすい絶対的な言語に変えようとしている。しかしそんな答えが本当にそうであるのかはとてもわからない、難しい事なのだ。いずれにしても君はまだ若い。若すぎる。時間がまだ必要だ。君には情熱があるが、粘り強さが足りない。生きていればまた違う視界が開けてくる事もあるだろう…」


 霧崎は勢い良く立ち上がった。彼は激高していた。


 「先生、先生はやはり、大学の先生なんですね! 先生がそれほどの理解力を持ちながら、僕の思想を拒絶された事が僕には不愉快ですよ、先生! 先生、先生は温和主義だ。日和見主義ですよ。そしてそれは、今の腐った大学システムの中にいる一大学教師というポジションから生まれてくる、濁った汚れた考えです! 先生はそうやって色々な事に対してお茶を濁して生きているから、今のいままでそういうぬるいポジションでのうのうと生きていられたんでしょう? 先生は死の事を理解しておられる。にも関わらず、先生は相変わらず、ぬるま湯の生の中にいて、くだらない大学生共と仲良くやっている。先生、先生は結局、畜群共と同類なのですよ! 先生はきっと、畜群の中では一等優れた存在なんでしょう。ですが、それは単に優れているというだけであって、それ以上の意味ではない。ぼんやりと人生を生きて何も考えず…いや、考えたとしても、何もすることのできない臆病者です、先生は!」


 霧崎は声高に叫んだ。周りにいた幾人かの生徒は、もう霧崎の方を異常な人間として見ていた。今田はただ、苦笑していた。


 「君は自分だけは畜群ではないつもりかね?」

 今田は問いかけた。

 「君だけは何か違う存在だというのかね? 君は一体…何をするつもりなんだね? あまりいい未来は見えてこないのだが」


 「未来なんてクソ食らえですよ! あなた方は『未来』の事ばかり言って、この瞬間、現在の事を考えない。あなた方は結局、畜群だ! 未来を進歩を、調和を、来るべき新しい事ばかり宣伝していて、現在では全くろくな事はできない。馬鹿な大学生に適当に授業しているか、馬鹿な大学生共はみんな、勉強して就活して、馬鹿な大学生ともうまくやれる馬鹿な大学教師的な人間に育っていく! それ以上の事はありません! 何も!」


「君は何をやるんだ? 一体、何を?」

「それを先生に教えるつもりはありません! ですが、僕は畜群共に、自分が彼らとは違う存在だと証明してやりますよ!」


 霧崎はそう言うと、今田の前のテーブルを片手でバンと一度叩いた。今田は驚かず、むしろ悲しげな目つきをしていた。霧崎は凶暴な足取りで、食堂の出口へ歩いて行った。


 テーブルには今田が残されていた。彼は時計を見て、自分が三十分以上も霧崎と話していた事を知った。(随分時間を使ってしまったな…)と彼は考えた。今田が立ち上がろうとした時、側から誰かが近づいてきた。今田はその人物を見た。それは大学の職員で、今田とは世間話をする程度の仲だった。


 「大丈夫ですか、先生?」

 職員は今田の事を心配して近づいてきたのだった。彼はたまたま食堂にいて、五分くらい前から、霧崎と今田の対話のただならぬ雰囲気を感じていたのだった。


 「うちの生徒ですか、あれは?」

 「いいや、あれは霧崎健一と言って、少し前にここを中退している。三ヶ月ほど前に。何やら、狭隘な過激主義に毒されているらしい…」

 今田は立ち上がっていた。今田と職員は差し向かいで話していた。


 「そうですか。大丈夫ですか? 何か、暴れていましたが。何かされませんでしたか? あいつ…大丈夫でしょうかね?」

 職員は心配そうに言った。今田は苦笑していた。


 「何もされていない。大丈夫だ。ただ、彼は…駄目かもしれないな。きっとまだ、若いんだ。しかし、今のスノッブな人間よりはマシかもしれないがね。ああした人間も…まだいるんだな」

 「奇妙な奴でした。声を荒げていましたね」


 「ああ、あれは何かするかもしれないな。もう一度ここに来たら、警察に通報する事になるかもしれない。彼は自分の観念に取り憑かれている。ああいう人間は何をするかわからない」

 「危ないやつでしたよね」


「確かに、そうだ。ただ、あの手の人間には情熱がある。情熱というのは…難しいものだ。一体、どんな方 向へ走っていくのか、判断ができない。色々な事が綺麗にならされてしまった今、ああした人間が出てくる事は喜ばしいのかどうか…彼は一体どうなるのだろうか…。このままではまずい方向に行ってしまうだろうが…。とにかく、もう一度来たら、警察に通報するはめになるかもしれないから、用心した方がいいかもしれない。うちの警備員にも、顔と名前を伝えておいた方がいいだろう。三ヶ月前に中退したばかりだからデータは残っているはずだ。その件、頼めるかい?」


「あ…はい。大丈夫です。やれます」

「やれやれ、今日は大変な日になったよ。それでは研究室に戻ろう」


今田は職員と共に食堂を出た。二人は道々、霧崎の事について話した。今田の脳裏には、霧崎が目を剥き出しにして喋る異様な光景が明示されていた。



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