表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/9

今田との議論1



 霧崎はバスに揺られていた。彼は窓外の景色をじっと見ていた。(この景色も、一週間もすれば、二度と見られないようなものになる。死刑囚というのはこんな感じなのだろう。一瞬一瞬が焼けつくようだ。時間…人間に必要なのは時間だ。最後には、「時間」だけが欲しいと思う。しかしそんなものはありはしない。それは手に入ったと思った瞬間、手をすり抜けていく…)


 彼はそんな事を考え、ふとバスの中に目を向けた。大学の方面に向かうバス。大学生に見える人間は一人もいない。通常はこちらの方面から大学生はバスに乗らない。駅近くの専用バスに乗るのが一般的だ。(人間だ…) 彼は考えた。(どいつもこいつも…) しかし、彼はそれ以上、思考を続けられなかった。彼は窓外の景色をまた、食い入るように見始めた。


 霧崎は窓の外を見ていた。彼の魂はふらふらとしていて、放心しきったようだった。彼はここ二週間ほど、自分の死を世界に見せつけるという想念にとらわれ、その決意を一人で異様に高めていたために、そこから来る神経疲労に彼自身気が付かなかった。知らぬ間に彼は彼自身を痛めつけていた。彼は放心し、もはや何も考えていなかったようだった。やがてバスは大学間近で止まり、彼は大学まで歩いて行った。大学までは五分もかからなかった。


 霧崎は門を抜け、敷地内に入った。敷地内に入った途端、彼は急に、自分の立場に怯え始めた。(そういえば僕は…もうここの大学生じゃない。もう違うわけだ。という事は不法侵入か? 不法? 法というやつが何を規定するんだ? そんなもの法学者の頭の中にある空想に過ぎない。現実には…僕は大学生の一人としか見えないだろう。ましてや、僕は少し前までここに通っていた。OB…そうだ、僕は0Bだ! 単なるOBなんだ!) 彼はそんな風に考えた。そんな風に考え出すと、急に、巡回している警備員や、道を歩いている年配の人物(おそらく講師だろう)が怖くなった。彼は自分が実は大学生ではないと、彼らが見抜くのではないかという恐怖に囚われた。(何を怯える? …馬鹿馬鹿しい。人間を軽蔑する僕が人間に怯えるだと? 死は怖くないのに、咎められるのが怖い? ラスコーリニコフのように? ああ、忌々しい…) 彼の足は自然と食堂に向かっていた。彼はよく食堂で一人で食事を取っていた。その習慣が彼の足をそちらに向かわせた。


 霧崎は食堂についた。人はまばらだった。霧崎は一応、学生らしく見せた方がいいかと思って券売機の前に立ったが、すぐそれも馬鹿らしいと考えて食堂に入った。


 当たり前だが、食堂は学校を辞める前と全く変わっていない。数カ月前と全く同じだ。にも関わらず、霧崎にはそこは以前とは別の空間であるように思えた。「大学生」というポジションはまるで霊体のように、彼の体にくっついていて、それが一度離れてしまえば世界はまた別様に見えてくる…霧崎はその事を感じた。(とすると、この世界は今も全く幽霊に支配されているわけだ…愉しいじゃないか…) 霧崎は食堂に誰か知り合いがいないか、探し始めた。


 「知り合い」はすぐに見つかった。それは以前、彼を担当していたゼミの講師だった。彼は食堂の、「教職員用席」でカレーを食べていた。霧崎はこの人物の事が好きだった。彼は「今田」という名前だった。講師・今田はごま塩頭をしていて、白の入り混じった髭がまばらに生えていた。メガネをかけていて、メガネのフレームは若干歪んでいた。全体的に身なりにはそれほど気を使わない、素朴な人物に見えた。


「お久しぶりです、今田先生」


 霧崎は疑われないよう、できる限り、凛とした声を発して今田に近づいた。今田は声をかけられ、メガネの端で霧崎の姿をとらえた。


 「お久しぶりです、どうも今田先生。お元気ですか? どうです? ここ…ここ、座っていいですか? 大丈夫ですか? お食事中のようですが」

 「かまわんよ」

 今田は言った。カレーを飲み込みながら。


 「もう食べ終わる」

 「そうですか。それでは、失礼します」

 霧崎は今田の正面の席に座った。


 「…いやー、おさしぶりです。今田先生、おさしぶりですね。僕は今田先生とまた会いたいと思っていました。以前は毎週顔を合わせていましたが、学年が変わるとまた変わってね…。僕は今田先生の話が好きでした。それにしても、ここの学食は相変わらず綺麗ですね。あ、あんな所に風景画がかかっている。あれは…クロード・ロランですかね? 綺麗だ」


 「あれはクロード・ロランじゃない」

 今田はもうカレーを食べ終えていた。彼は冷ややかな目で霧崎を見ていた。

 「あれは違う。何か用でもあるのか?」


 「…いえ、用というほどの事でもないんですけど。先生、別にそう冷たくする事もないじゃないですか…僕達は同じ人間ですし、それぞれの人間がいつも敵意をギラつかせて、睨み合わなければならないって事もないでしょう…」


 霧崎は明らかに奇妙な態度、奇妙な表情を見せていた。彼の顔には仮面が、深くかけられていた。今田はチラリと霧崎の顔を見た。


 「…ところで、君は三ヶ月前に大学を辞めたと聞いたが? 今日はどうしてここに?」

 今田は尋ねた。霧崎は動揺した。彼はすぐにそれを隠そうとした。


 「はい、そうです。確かに僕はここをもう辞めました。今は違う所に行っています(霧崎は咄嗟に嘘をついた)。でも、ふとここが懐かしくなって来てみたんです。食堂で食事を取るくらいは別に大丈夫でしょう? それに、僕は元ここの大学生だったわけですし?」

 「別に君を責めているわけじゃない」


 今田は皿を横にどけた。今田は正面からじっと霧崎の姿を見た。霧崎健一はどことなく不審で、挙動がおかしく、何かを隠していると共に、隠している何かを見せたがっている…そんな風に見えた。


 「別に悪いとは言っていない。それぐらいはかまわない。ただ、君は三ヶ月前にここを辞めて、それ以来、顔を見せていない。それで…今日、急に来たというのか? 懐かしいというだけの理由で? どうもその…腑に落ちないな」

 「いえ、僕は正直に言って、今田先生に会いたかったのですよ。他の誰よりも」

 「私に?」


 今田は眉を顰めた。今田は霧崎を最大限に疑っていた。

 「私? どうしてだ? 何かあるのか?」

 「…ええ、先生。僕は先生に会いたかったのですよ、本当に。先生、覚えていますか? 先生がゼミでいつの日にか、ハイデガーについて話してくれたのを。僕はその事をよく覚えていますよ。あの日の太陽の傾き具合、風の向き、雲のかかりぐあいだって覚えている。…ハハハッ、それは誇張ですがね」


 霧崎は一瞬だけ、爆発的な笑いをした。ハハハ、ククッ、というような、自分で自分を俎上に載せて笑いを上げるような、奇妙な笑い。今田は霧崎に明らかに狂気性を嗅ぎとっていた。


 「ハイデガーだって?」

 今田は考えこんだ。

 「そんな事、話したか?」


 「ええ、話しましたよ。先生、それは、確かに話しました。先生は僕にハイデガーの、『死の決意』について教えてくれました。僕は今でもその事をよく覚えています。現存在である人間は、いつも死を忘却しているが、本当は死というものを踏まえて生きなければならない。誰しもが今や『死』というものから目を逸らして生きているが、それは退廃した生き方であって、人は自分の『死』を踏まえて、本質的に生きなければならない。僕は…感動しました。僕はね先生、あの時感動したんですよ。ハイデガー! ハイデガー派ですよ、僕は!」


 「それで?」

 今田は注意深い眼差しで霧崎を見た。

 「ハイデガーがどうしたと?」

 「『どうした』じゃありませんよ、先生。見てください!!」

霧崎は大きな声を出すと、食堂全体を両の手で指し示して見せた。霧崎は熱狂していた。


 「見てください! 先生! この体たらくを! どいつもこいつも、『死』というのを忘れている。先生、思わないですか? 誰も自らの死を見ていない。退廃ばかりですよ、この世にあるのは。僕はね、先生。今の哲学者や作家というものが大嫌いなんですよ。あんな連中、嫌いだ! 連中はいつも、自分の姿を後生大事に後ろの方に取っておいて、手とか、頭の先っぽの方で哲学や文学をこねくり回してみせる。それで、『ハイデガーは…』なんて言ってみせる。でも、連中は自分の死を見ていない。連中は自分の死については考えないが、ハイデガーについては考え、論じるんですよ! こんな馬鹿げた事がありますか、先生。先生、僕はね、最近の文学とかいうものにも我慢ならないんですよ。平和の中で漫然として、退廃しきった馬鹿が書く作品ばかり。なんですか、あれは? あれが文学ですか? 少女漫画の主人公みたいにチマチマした恋愛ごっこ、好きだの嫌いだの同棲だの結婚だの就職だの、こまごましたくだらない事ばかり書き連ねやがって! あんな事、地の果てまで書いたって一片の価値もないですよ! なんですか、あれは? …くだらない。ああした事は全く、世界の退廃が産んだものだと考えていますよ、先生。つまり、死の忘却です。死というものから逃げて、平和と倦怠の中でぼんやりと自分の技術を成熟させて、後は『リアリズム』の路線でチマチマとくだらぬ日常を書いていればそれで一丁あがりって算段です! なんですか、あれは? 文学なんて言葉だけ、形ばっかりで、僕は確かに文学というものは日本の退廃を現していると、本気でそう思っていますね! 現在の僕達が忘れているのは『死』ですよ、つまりは、ハイデガーです。先生…僕はキリーロフが好きなんです…」


 熱狂した様子でそんな風に話す霧崎を、今田はじっと見つめていた。彼は冷静に相手を観察していた。


 「キリーロフと言うと……ドストエフスキーの『悪霊』に出てくる人物の事だろうか?」


 「そうです! 先生、僕はキリーロフは正しいと思うのです。人間達には、自己の意志で何ができるかを、示さなくてはならない! そう思うんです! 人間共は…どいつもこいつも、死というものを忘れている。それをいつの日にか、思い出させなければならない。こんな退廃した社会、どいつもこいつもぼんやりと幸福になる事しか考えていない社会では、どうしようもないです! 『死』ですよ、先生。『死』が僕達の生には必要なんです!」


 霧崎は目を輝かせながらそれだけの事を語った。彼は何かに取り憑かれているようだった。今田は霧崎の事をじっと見つめ、ある思いを口に出そうとしていた。


 「以前から、君の事は、それなりに、優れた素質…そういうものがあると感じていた…」

 「そうですか? ありがとうございます!」

 「まあ、待て。待ちたまえ。話しは終わってない」

 今田は無意識的に眼鏡の弦に触れた。それは、今田が自分の心の中で「仕切り直し」をする時の癖だった。


 「私がそんな風に感じていた事は確かだ。君にはどこかしら…熱狂のようなものがあると、私は前から感じていたよ。君を学生として受け持っていた頃からね。これは嘘ではない。君には確かに、周りの学生達のようにただ周囲の状況に流されていくだけの感性や感覚とは違うものか備わっているように見えた。私は確かに君の中にそういうものを感じた。そして君も私の中に、君に近いものを見たからこそ、君は私に好意を…それに近いものを覚えてたのかもしれない。あるいは今日、君が私の元に来たのは単なる偶然かもしれないが…それでもそこに何か意味を見出すとすると、どこかしら君は私の中に惹かれるものがある。そういう風に考える事もできるのだろうね。もっとも、私は君が今持っているような熱狂は、とっくの昔に捨ててしまったけれども」


 今田はそう言うと、また眼鏡の弦に手をかけた。彼は一息入れてから話を続けた。


 「私は今言ったように、確かに君の中に人とは違う素質を見ていた。ある種の生真面目さ、生に対する倫理性…そのようなものだ。確かに、これは現代において一番欠けているものだ。現代思想と呼ばれているものも、そのような欠陥がある。逃走、切断、繋がりといった事が叫ばれ、抽象的な理念の弄び、テクスト論や、記号と戯れる事が良しとされ、それらは私達の実存的な生ーーそんなものがあるとすればの話だがーーとは全く違うものになってしまった。文学でも事は同じで、君のように生真面目な倫理を漂白した文学というものはほとんど見られない。また、あっても回避される方向にある。人は確かに文学や哲学というものを一種の道具として弄んでいる。おそらくそこには、マルクス主義など、哲学や文学というものに深い倫理性、定言命法を負わせすぎてしまったという歴史的反省があるのだろうが、確かに、君の言う通り、現代の作家達はあまりにも…ある種の事柄を知らない。しかし、君は知らないかもしれないが…そんな事柄を知るという事は、暇な時に、災害のボランティアをして得られるという類のものではないのだよ。もっと…そう…哲学書でも知る事のできない…魂の奥深い部分で知らなければいけないのだ…」


 「だとすると、僕は正しいのではないでしょうか?」

 霧崎は食い付くように言った。彼の目は鋭く光っていた。


 「だとすれば、畜群達と、畜群にうまく外部の危機を覆い隠す羊飼い共に、狼の存在がいる事を示してやるというのは、正しい事なのではないでしょうか? 彼らに、死の、実存の危機を見せつけてやる事は正に今の僕達ーーいいえ、僕のすべき事ではないでしょうか? キリーロフのように」


 今田は目を上げ、霧崎健一の顔を見た。そこにはやせ細った顔、尋常ではない眼差し、乱れた髪…つまりは、狂人の相貌があった。今田はなんともいえないような、苦い顔をした。


「君は死ぬ気なのか?」

 今田は尋ねた。

 「…あるいは」

 霧崎は答えた。ふと、重たい沈黙が訪れた。二人は一分ほど黙り、それぞれが自分の内心を覗き込んでいた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ