大学へ
霧崎健一は眠っていた。眠ってしまえば、彼は平凡な、年相応の若者にしか見えなかった。
元々、彼自身がこうした過激で孤独な思想に囚われたのは、彼自身が意識していたように、自分の「正しさ」の為だけではなかった。彼は三ヶ月前の六月には大学を中退していた。大学生の享楽的な雰囲気になんとなくついていけなかったのだった。奇妙に生真面目である彼は、基本的に浮かれはしゃいだ大学生の群れに馴染めなかった。
問題はそれだけではなかった。彼は前年に、二人の女性に振られていた。一人は同じゼミだった佐倉という子で、もう一人はある授業で、毎回一つ前の席に座っていた、写真学部の吉田という子だった。霧崎はそれぞれに対して、かなり生真面目に、「あなたの事を好きだ」という告白をしたのだが、そもそも霧崎健一の事をよく知らない二人は二人とも、霧崎の事を気味悪がって振ったのだった。
それ自体は別になんでもない事だったのだが、異様に感受性と神経が膨れ上がった二十一歳の青年には、一年に女に二度も振られるという事は恐ろしい屈辱だった。彼は非常にプライドの高い性格で、人知れず自分を高い場所に置いており、女に振られるとは、「その自分が振られる」という屈辱的な事を意味していた。プライドの高い人間がこうした告白を行うという事は、その事柄に全ての自分の希望を託すという過大な意味があり、自分の願望が打ち破られたのだと、霧崎はそんな思いを抱いた。
霧崎健一の心にできた大きな傷は彼をして、孤独で狭隘な思想に彼を導いていった。彼は享楽的でふやけた世界に、自身の死を見せつけるという考えに囚われていったが、それは自分を裏切った世界に対する復讐の一種だった。
とはいえ、彼はそれを強く心の中で意識していたわけではない。彼にとって二人の女に振られた事はなんでもない事であり、大学を辞めた事はなんでもない事のはずだった。彼はその事を心のなかで消滅しようと目論んだ。彼自身、その事で受けた致命的な傷に自分で気付かず、そこから逃げ出す為に危険なアイデアに飛びついたと言う事ができた。ただ彼はそれをはっきりと意識していなかった。
霧崎は大学を辞めてから、ますます自分の中に閉じこもるようになっていた。彼の中には圧倒的に高いプライドがあり、羞恥の感情があり、些細な事でも傷つく感受性があった。彼の心は、楽しいはずの大学生活でひどく傷めつけられていた。彼にとって一番我慢ならない事は、自分が平凡な一人物に過ぎないという事だった。その事は彼の自尊心と一番折り合いがつかなかった。彼は、自分の心の傷を強引に解決する為に、危険な考えに飛びついていった。最初その考えは、単なる観念だったが毎日その事を考えている内にそれは、彼の頭の中に居座る大きな一つの現実となったのだった。
※
霧崎が目を覚ましたのは昼の一時過ぎだった。外は快晴だったが、雨戸を閉めきっていたので光は入ってこなかった。六畳のアパートの室内は彼自身の心と同じように、暗かった。
目を覚ますと起き上がり、台所に行き水を飲んだ。コップは汚れていたが、霧崎はそんな事も気にしなかった。水を飲むと腹が減っている事に気づいたので、冷蔵庫の中を見たが、何もなかった。
(食料を買いにいかないとな)と彼は考えた。霧崎は今、金銭問題でも悩んでいた。彼は大学中退した事を親に隠して、親から月々の仕送りを送ってもらっていた。大学中退が親にバレていないのは、ほとんど奇跡としか言えない僥倖だったが、いずれそれが露見するのは明らかだった。彼の心の隅には、その事に対する怖れが常にあった。
霧崎は二日ぶりに外に出る事にした。食料を買うために近くのスーパーに行かなくてはならない。霧崎は今日が何曜日か、何日なのかすらもわかっていなかった。昼か夜かもぼんやりとしか把握していなかった。彼の意識においては現実的な事は全て混濁した、淡く暗い映像のようなものとして映っていなかった。それでも彼は自分の死について、いつでも鋭く意識していた。死が、全てを救うはずだった。馬鹿げた世界をこの手で破滅させる事ができない以上、自らが死ぬ事によって逆に世界の幕を閉じる事ができる。おまけにこの死は全世界に見せつけなくてはならない。人はこの俺の死を見なくてはならないーーそれがいつでも彼の心に巣食っている想念だった。彼は外に出る準備をして、部屋から出た。
部屋から出ると、外は明るかった。その眩しさに霧崎は思わず目を細めた。霧崎は自分の体が何かに糾弾されているような、そんな気がした。それでも彼は外に出た。アパートを離れ、街路を行く。
外は…通常の世界だった。普通の人が生きる普通の世界。だが、霧崎の目にはそれは全て憎悪の対象にしか映らなかった。どうしてそうなったのだろう? …もちろん、彼はそんな風に考えなかった。
(人間というのは『必要』という事柄の為に全てを失ってしまう。人間というのは、今自分が必要だとか、望んでいるとかいう事の為に色々な事を犠牲にするが、そうやって得られたものが本当に、犠牲をあえてするだけの価値があるかとは考えてもみない。馬鹿共め…。この馬鹿共め。死を忘れて生きている人間共め。必要なのは天井と釘とロープだ。首を吊る。この僕は死ぬ。それによって世界は目を覚ます。…いや、決して目を覚まさないだろう。馬鹿げている。多分、僕の妄想自体が馬鹿げているのだ。どいつもこいつも生きている価値などないのに幸福にはなりたがる。哲学の授業で聞いた話だが、カントという爺さんは「人は幸福を目指すよりも、幸福に値する人間になる事を目指さなければならない」と言ったそうだ…。カント爺さんの言った事は正しいな、きっと。どいつもこいつも幸福になる事ばかり考えて、自分が何かとは考えない。くだらない、生きている価値などないのだ、こいつは。犬にでも食わせてやれ…)
彼の足は目的のスーパーに向かっていなかった。彼は足任せに、いい加減に歩いていた。彼の歩き方は奇妙でふらふらとしており、一目で彼が普通の人物ではないと判断できるほどだった。
霧崎は川の方に向かって歩いていた。住宅街の中を通って行く。子供が二人、路地の奥でキャッチボールをしていた。霧崎は二人の姿をチラリと見ると、(こいつらも死ぬのだ)と考えた。(いずれな) 彼は緩やかな坂を下っていった。信号のところで右に曲がった時、前方に髪の長い女を見つけた。女はスタイルが良く、黄色のぴったりしたパンツを履いていた。彼はその後姿を見て、ふいに、ぞっとした思いに囚われた。女の後姿は、彼を振った一人目の女によく似ていたのだった。彼はすぐに女から目を逸した。心の中にひどい苦痛を感じていた。
(あの女…! どうして僕を振ったんだろう。僕の事を「気持ち悪い」とぬかしやがった。…告白した後に、偶然立ち聞きしたんだ、学校で。僕はあの時、女を絞め殺してやればよかった。いや、強姦しても良かった。あの野郎。一体、何様だというんだ? …最近の女はこれだからな。若くて、スタイルが良いとくれば王様同然の態度をしやがる。「私は女よ、私はモテるのよ、私と『ヤりたかった』ら、私の前に跪きなさい。私と『ヤリたい』男なんて、他にゴマンといるんだから。私と『ヤりたけれ』ば、それ相応の手土産を持ってくるか、それなりの社会的地位を持っていないとね」 くそったれ! 何の才能もくせに思い上がったブスが! 馬鹿のくせに、自己主張だけはいっちょまえだ! しかし、僕はあの女に告白して振られたのだ。辛かったさ、それは…しかし、こんな事がなんだ? あんな女、あんなクズなどどうでもいいじゃないか? あの女が死のうがどうでもいいし、別に殺したっていいじゃないか? 罪になりゃしないさ! …どいつもこいつもクズばっかりだ。僕を含めて…)
霧崎は内心に苦痛を感じつつ、女の姿から目を離せなかった。やがて女は角を曲がり、見えなくなった。霧崎はなおも川に向かって歩いていた。川の近くに小学校があって、彼は小学校の横を歩いた。
彼は今しがた、女の後姿から触発された内心の苦痛を調停しようと必死だった。(クソ! あの女! あいつもどうせクズだったんだ! 生きている価値などない。ただ、髪が長くておっぱいがでかいだけの女。僕はその姿に少々引っかかったんだ。皆、そうだ。男は皆そうで、女だってそうだ。なんて愚劣なんだろう…)
霧崎の前方から小学生達が列をなして、こちら側に近づいていた。霧崎はその事に気づいた。小学生達は皆黄色い帽子を被り、ランドセルを背負っていた。やんちゃ坊主そうな男の子やおとなしそうな女の子、意地悪そうな子供やら何やらを含んだ列は霧崎の方に近づいてきていた。霧崎は道の左側を歩いていて、小学生達は右側を歩いていた。
小学生の列の先頭には、子供達を引率する大人がいた。大人は眼鏡をかけた中年の女性で、正義感の強そうな感じだった…。女性は霧崎を人目見るや、霧崎を直ちに、「普通ではない人物」だと感じ、一瞬、きつく睨むような視線を彼に浴びせた。霧崎はその視線を敏感に感じたが、それ以上は何も反応しなかった。小学生の列は霧崎の横を過ぎ去り、霧崎自身もまた、自分には「それなりの用事があるから急いでいる」かのような様子を外界に振り向けながら、その場を通り過ぎた。
(なんだ、あのババア…) 霧崎は考えだした。(何だ、あの野郎。人を不審者のように見やがって。人間というのはどいつもこいつも、胸についたバッヂやら名刺やらしか見えないのか。パリッとしたスーツでも着てれば、あのババアは僕にあんな視線を浴びせなかったに違いない。異端者、不審者。小学生の列に車を突っ込ませた奴がいたな、現実に。だがそうなると、あの婆さんは、小学生達を守れないだろう。それどころか、自分が真っ先に逃げ出すかもしれない。…僕は…いや…どいつもこいつもくそくらえだ)
霧崎の足は川べりについた。それは中くらいの川で、水の流れは緩やかであり、日光を受けてキラキラと光り、美しかった。霧崎は自分が川に着いた事に始めて気がついた。
(何だ? どうして僕は川についた? 川? …ここは? 僕は、何をしにアパートを出たんだ? 誰か人を殺すため? フフ……川岸の小学生達を殺すため? 何を言っているんだ、僕は…。ああ、あそこで子供らが少年野球をしている…) 霧崎は川べりを歩きながら、グラウンドで練習をしている少年野球のグループを見つめた。彼は子供の頃、少年野球チームに所属していた。彼は野球などまるでできなくて、補欠もいいところだった。彼には、少年野球をしていた頃の自分が、まるで違う宇宙の違う存在のように、遠いものに感じられた。
(どうしてこんなに時間が経ったのだろう? どうしてこんなに多くの時が流れてしまったのだろう? 僕は…自殺を考えている。今日は明るく美しい日なのに、僕は死の事ばかり考えている。正しい、僕は正しい…しかし、正しさにはどうして血が必要なのだろう? 人間共…どんな思想も許容し現実は進む。人は殺しても殺しても後から湧いてくらあ…)
霧崎は川沿いに歩いていた。その内、彼はふと立ち止まり、ガードレールの切れ目から川の方に降りていった。階段があり、階段の下にはアスファルトでできたごく小さな空間があった。彼はそこで川を見ながら休むつもりだった。
川は光を受けて、キラキラと光っていた。霧崎は川をじっと見ていた。(どいつもこいつも死んでしまえ…) そう思いながら、彼は川の美しさに目を向けていた。陳腐な比喩で言えば、宝石箱のように光っていた。彼は川に目を向けながら、アスファルトの空間のところまでたどりついた。川の流れは緩やかだ。霧崎は、アスファルトから川に入り込んでいる階段に腰掛けた。彼はじっと川を見つめ始めた。そしてそこに鯉がいる事に気づいた。
(鯉がいるな。鯉がいる。あの小さな黒い物は別の魚だろうか…? 素早く動いているぞ? …しかし、そんな事はどうだっていいじゃないか。人間共に僕はうんざりだ。少年野球…ボールを投げたり打ったりして一体何がどうなるというのだ? 車を子供達の行列に突っ込ませる。ひどい話だ…ククク…ひどい事というのはどうしてこんなに愉しいんだろうな。ネットを見てみなよ。皆、正義漢ぶっているが、どいつもこいつも誰かをぶん殴りたくて仕方ないって様子だ。鬱憤溜まって、誰かを殺して晴らしたくてしょうがないけど、その為には一応「正義」という衣装を着なきゃいけない。ハハハ…死んでやる、僕は自分の死を世界に見せつけてやろう。愉しいな、愉しいなあ。自分が死ねるという事がありがたい。人間共には死を見せつけてやらなくては。僕は逃げ出さないだろう。いや、逃げてはならない。殺してはならない、自分を殺す。殺すという事は……)
霧崎健一はそんな風に、ずっと自分で自分に向かって話しかけていた。しかし、突如として彼は、〈誰か、人としゃべりたい〉という欲求に囚われた。それは本当に不意の事だったので、彼はそのタイミングで急に顔を上げて周りを見渡したほどだった。彼はもう一週間も誰とも話していなかった。
彼はふいに立ち上がり、さっき降りてきた階段を駆け上った。足の筋肉をろくに使っていなかったので、階段を上がりきっただけで膝がガクガクとした。霧崎の頭の中にあったのは、以前まで在籍していた大学だった。ここからそう遠くない。彼は、大学の中の誰彼と〈話そう〉と考えた。その対話は…死の前の、有意義なものにしたかった。霧崎はそんな風に考えていた。