第三鎮定軍本営へ 【アイネ・デル・サヴィオン】
「これは酷いな」
濃厚な雨の匂いに混じってかぎ慣れた臭いが鼻についた。
酸っぱさと甘さの混じったそれこそ肉の腐る臭いだ。
「殿下も気づかれましたか」
「あぁ、そちもか。これは……相当な者が死んだようだな」
泥に足を取られないよう注意しながら馬を操ってきたが、護衛のその言葉に歩みを止める。
ポンチョとして使っている油布の隙間から後続を伺えば十人の騎士が不安そうにこちらを見ていた。
「義兄上も苦戦されておられるようだ」
「第三鎮定軍の戦況は我々には伝わっておりませぬが、それは意図的に止められているのでしょうか」
「貴殿が知る必要はない」
大局を知るのは上に立つ者だけで良い。そうでなければ無用な混乱が生まれてしまう。
もっとも余にさえ第三鎮定軍の状況は伝わっていない。
それにいくらこちらが書状を出そうにもその返事もこないとあってこうして余が出てきた訳だ。
「急ごう。時間が無い。気を抜いて馬の足を折るな」
「ハッ!」
そして歩みを再会するも、すぐにそれは止まってしまった。何故なら北方街道上に馬車が立ち往生していたからだ。もっとも道幅もあるので迂回も出来るが、その荷馬車が止まった理由によっては足止めされてしまうかもしれない。
例えば敵の遊撃隊によっての襲撃とか。
だがよく見ると馬車の周囲にはそれを押そうとする者達の姿が見えた。どうも襲撃云々という空気では無いが、念のため先触れを出すと、すぐにその者が手を振ってきた。
「友軍にございます!」
その返答に近づくとその馬車に純血を表す赤、平穏を表す白、皇帝家を表す黒の三色旗を模した構図が描かれていた。
その中央にはクロスする黄色の杖――帝立魔法院の院旗だ。
院旗の描かれたその馬車を押そうと馬車の護衛らしき騎士達が悪戦苦闘している。
「これはもしや!」
その馬車の影からずぶ濡れになった老人が出て来た。出張った鼻。厚底のメガネをかけ、黒いローブをまとった古式然とした魔法使い――。
「まさか先生!?」
「やはりアイネ殿下であらせられましたか」
その名をヨハン・ファウスト師と呼ばれる魔法研究の第一人者だ。
「息災でありましたか?」
「この老体を心配していただけるとは、良き弟子を持ったものです」
「いえ、余はそんな……」
余の血は帝国の中で微妙な立ち位置であった。
賭事で言えば大穴。だがそんな博打をするより現帝陛下の正妻の子である義兄ジギスムントや義弟エドワードの派閥に属するのが得とされていたため、余に関わろうとする者は少なかった。
故に家庭教師が付かず、教育者を探しているところで余の魔法の才が明らかとなって帝立魔法院の門を潜って出会ったのがヨハン先生だった。
「そうだ。クラウス殿は? 彼も息災であればよいのですが」
「………………」
そう、ヨハン先生とは学校で出会えたが、博打をするような男が一人だけいた。当時お家騒動で予備役中佐であったクラウス・ディートリッヒだ。
「クラウスは所領に戻しました」
「おや? お体でも壊したのですか?」
「いえ、そのような事ではなく……」
言葉を選んでいると先生はそれだけで察してくれた。
「分かりました。そうだ。殿下、お時間はありますか?」
「いえ、あまり……。ですが師を捨て置くほどではありません。馬車の状態は?」
「轍に車輪を取られて動かなくなってしまって。車輪は無事なようです」
よく見れば馬車は四頭立ての大型であり、馬達も疲弊しているようだった。
だがもう一踏ん張りしてもらおう。
「手を貸せ。馬車を押し出す!」
「やや! 手では押せませぬ。積み荷が重くて重くて」
その言葉に騎士が一人、裏に回って中身を改める。すると「鉄板が多数あります! 捨てなければ動かないでしょう」と言った。
すると先生は顔をしかめて首を横にふった。
「これは一つも捨てられません」
「……先生がそこまで言うのなら仕方ないか」
ブケパロスの下に戻り、その背に縛り付けてあった杖を取り出す。それと共に腰に吊られているマップケースから地属性の魔法陣を一枚抜く。
「皆、離れよ。土魔法で轍を消す」
と、言ってもこの雨だ。すぐに元通りになってしまうだろう。
だがこのまま立ち往生というのもよろしくない。手早く油紙に描かれた魔法陣を展開し、魔法式を唱える。
「【豊穣なる地よ、主の作られし我らが肉よ。我が願いを聞き届けよ】」
魔法陣が光り輝く。そして体を流れる魔力が循環する暖かさが沁みてくる。
「【大地よ】!」
大地への呼びかけにより車輪がグググと押し上げられる。それが終わるや、護衛の騎士や荷馬車の従者などが一斉に馬車を街道に押し出す。
「ほぉ。良き魔法式です。『主の作られし我らが肉よ』はご自分で?」
「えぇ。東方にてそれを知りましたので」
「力強い言葉を見つけましたね。いやはや、良い弟子を持ったものです」
雨天を吹き飛ばすほどの笑みを浮かべる先生に安堵が漏れる。
そして互いに目的地も同じとあって急いではいるものの、先生と同行する事になった。
余の隣で馬を操る老齢の魔法使いはこの老体に義兄上からお呼びがかかった事を誇っていると話してくれた。
「御呼びがかかったとは言え、わしは歳が歳です。もう魔法は使えません。目を覚ますたびに生力が抜けていくのが分かるのです。故に生力に依存する魔力も枯渇して久しい」
「それで立ち往生されていたのですか。荷は捨てられないと言われてましたが」
「あれは印刷機です」
サヴィオンにもたらされた東方の技術の一つである印刷は東方よりも遙か東の国によって生み出されたと聞いている。
それを東方征服によって帝国に持ち帰り、今では魔法陣量産に無くてはならない物となった。
そもそも印刷機が導入される以前の魔法陣を複写しようと思えば手描きくらいしか方法が無かったのだ。故に複写をすると書き手の癖等によって陣が歪になって本来の性能を発揮できない事さえあった。それに魔導書の写本ももちろん手描きだったために高価であり、強力なサヴィオンの魔法を多くの者が使えたとは言い難い状態だった。
その問題を解決したのがこの印刷だ。
「ジギスムント殿下から野戦印刷局を作るよう命じられましてね」
「第三鎮定軍では魔法陣が不足しているのですか?」
「それもあるかと。ですがそれより攻城魔法陣を考案したのですが、それがちと大きくて。現地で刷るしかないのです」
持ち運び不可能の魔法陣とはいったいどれほど大きいのだ……。
そんな呆れを覚えているとやっと目当ての第三鎮定軍本営が見えてきた。それと同時に先ほどから鼻につく腐臭が濃くなってきている。
「殿下! 道ばたに、兵が……」
護衛役の騎士の言葉に視線を向けると、野晒しの躯が点々と転がっていた。
それもかなり多い。
「……やはり義兄上の戦況はよろしくないようだな」
よく見ればまだ小さく蠢いている者もいるが、長くはなさそうに見えた。
どうもアルツアルの気温とこの長雨がよろしくないようだ。これのせいで傷口は膿、腐っている。
もっとも余の兵とて同じだ。傷口に治療魔法が施されても麻痺が残ったり、そこから四肢が腐り落ちてしまう事さえある。まぁ戦場ではよく見る光景だ。
それを横目に本営につくと、先生達は馬車の扱いについて調整があるとの事でまず余から義兄上の下に行くことにした。
「義兄上! 失礼いたします」
そう言って本営に入るとまるで喪中と言わんばかりに暗い空気が漂っていた。その陰気を出している張本人――サヴィオン帝国第一帝子がジロリと余を睨んだ。
「アイネ! どうしてここに!?」
「どうしても何も書状を幾たびも送ったではありませぬか。しかれど一向に返事がこないので直接こちらに足を運びました。
兵達は大丈夫です。寡兵よりレオルアン攻略は無理ですが、防衛策の策定はしております故――」
ふと、義兄上が余の話を聞いていないように思えた。
それに周囲の幕僚もどこか疲れ気味。これはいよいよ攻城がうまく行っていないな。
「それで、義兄上。余の東方への帰還をお認めくだされ。すでに陛下には許可をもらっておりますが、あとは総大将たる義兄上の許可がほしいのです」
これから東方に戻って晩夏にやってくる北方巨人族の討伐を行わねばならない。故に東方に残してきた騎士団をまとめて巨人共と合戦するために東方に帰らなければならないのだが――。
「貴様が戻る必要があるのか?」
「えぇ。書状に書いた通り、東方王家の滅亡により東方を束ねるのは今のところ東方総督である余しかおりません。それに東方に帰り、精強な騎士団を増援として連れ帰る事ができればレオルアン攻略も容易となります。どうか帰還の許可を」
だが義兄上はうんとは言わない。あぁこれは中々許可が降りないな。
義兄上の性格上、眼前の問題が好転しなければ他の物事に手を出されない。仕方ない。
「義兄上。どうです。余に騎士団を預けてはくれませぬか? お手伝いさせていただきます」
「何も知らないと言うのに口を出すか」
「義兄上の苦痛は帝国の苦痛でもあります。さぁおっしゃって下さい。あれほどの都ですからな。攻略が難しいのもまた然り。
中州の要塞攻略ですか? それとも王宮の攻略?」
すると幕僚の一人が血相を変えて「第二帝姫殿下ッ!」と鋭い制止を発したが、それはいささか遅かった。
「……吾はまだ、第一城壁しか落としておらぬ」
義兄上の言葉に周囲を見渡せば、沈痛な表情を浮かべる幕僚ばかり……。悪い冗談ではないのか。
「何があったのです?」
「銃だ。奴らは銃で武装している。奴らに勝てる手だてがない」
銃――ロートスの使う武器か。そう言えばドラゴンに乗った奴を取り逃してしまったな。いや、奴が率いていたのは小隊ほどもない部隊だった。もしかすると中隊の可能性もあるが、だがそれだけの戦力で第三鎮定軍の進軍をくい止められるとは思えない。
と、言うことはイザベラだな。奴が銃を使う部隊を量産しているのだろう。確かにあの轟音を初めて聞く者は畏怖を覚えてしまう。
だが――。
「されど殿下。奴らの使う銃は音と煙ばかりです。数が少ないうちに叩くのが吉かと」
「うるさい! 銃の脅威も知らないお前が何を言ってもダメだ」
「しかしこれだけの兵が居るのですから犠牲を省みずに攻撃すれば敵は疲弊します。さすれば我らの勝ちでは?」
「いや、だめだ。相手は銃を持っているのだぞ! こちらがより強力な魔法戦力を揃えなければいたずらに犠牲を増やすだけだ!」
どうも義兄上は銃を警戒しているようだ。
もっとも余としては銃よりもロートスの方が脅威だと思うのだが……。だがこれでは埒があかない。
「では作戦を変えましょう。確かに銃は脅威です。ですが、あれは精々、三百メートルほどしか届きません。でしたらまだ長弓のほうが脅威です。ですが我らはそれさえ凌ぐ武器があるではないですか」
「……魔法か」
そうだ。魔法で氷を投射すればだいたい三百メートル以遠から攻撃できる。それにアルツアルはちょうどよく長雨だ。水の魔素も濃くなって術も発動させやすいだろう。
「これでまず王都を耕しましょう。徹底的に破壊の限りを付くし、街ごと敵を葬ればよいのです。あとはゆるりと入城すれば、義兄上の勝利です」
「……そこに暮らす民はどうする」
民? 敵国の民?
「義兄上が心痛める事ではありませぬ。それにここは亜人の土地。破壊してなにが悪いのです。アルヌデンではそうしたではありませんか」
「アルヌデンは亜人の街と言うではないか。故にあの庭園を燃やしたのだ。だがここは事情が違う。ここには人間も住んでおる。それも何万と。その者達を殺めろと言うのか?」
「必要な犠牲です」
蟻を気にしながら暮らす訳にはいかない。
「ならぬ! それに今、街を攻撃しなくてもすむ策を打ってある」
「どういう事でしょうか」
「新式の攻城魔法だ。理論では五キロ彼方まで攻撃できるという。これで王宮を直接攻撃すればすぐに敵は降伏するだろう」
なるほど、それで先生を呼んだわけか。と、言うかまずそんな遠距離を攻撃出来る訳がない。
少し考えればわかるが、理論として五キロ先を攻撃出来るとしても五キロ先から攻撃地点を見る事が出来ない――つまり当たっているかどうか分からないでは効果もたかがしれている。
大事なのは理論ではなく、それが安定的にもたらされるか、だ。それに――。
「義兄上はその程度の攻撃でアルツアルが帝国に下るとお思いで?」
「なに――?」
「帝国と王国は決して相容れませぬ。故に奴らは王都――首元まで刃を突きつけられても抵抗する事をやめないのです。
奴らは己が種族が絶滅するまで戦うことでしょう。民を思うお心は立派ですが、それで負けてはどうしようもありません。
我ら帝族の肩には帝国の未来がかかっているのです。それを良き方向に導くために我らはこうして異国に居るのではありませぬか?
どうか義兄上。兵に無駄な犠牲をしいらないで下さ――」
「だ、黙れ!」
しまった。義兄上は人から――特に年下から説教されるのを嫌っていた。まさか墓穴を掘ってしまうとは。これではいつ東方に戻れるかわからんな。だがここまで言ってしまったのだ。兵のためにもう少し言ってやろう。
「では考えてはどうです。あの都は、悪都である、と。奴らは義兄上の慈悲を突っぱねた不届き者です。その者共に義兄上は忠罰を下すのだと」
もうこんな言葉でいいからさっさと攻城をすませてもらおう。
もしくは陛下からの帰還命令だけで東方に帰ろうか。
そんな事を考えていると義兄上がやっと決断をした。
「……哨戒から帰ったラーガルランドに伝えよ。明日より作戦方針を転換し、都市へ魔法攻撃を行うと。吾はエルの天幕に行く」
そして颯爽と去っていく義兄上。すると本営の空気が幾分も緩んだ。
手近な幕僚に「エルヴィッヒは病か?」と訪ねる。この時間から本営に出頭できないとあればそれくらいしか理由が思いつかない。
「それが、初戦で負傷されて――」
「ほぉ、あやつが?」
他人の不幸は蜜の味と言うが、本当だな。久々に爽快な気持ちになれた。
「それで、フリドリヒ公爵は右足を失われて……。もう馬に乗る事は出来ないと」
「フン。そんな兵など掃いて捨てるほど居るわ。それより療兵はどうしたのだ。外にあれだけの患者が居ながら姿が見えなかったぞ」
「殿下の命で公爵閣下の治療に集められていて」
……それはあまりに不憫すぎる。いや、不満が高まってしまう。
せめて傷をおっても療兵がいると思えば兵の恐れを低減させる事が出来る。それなのに傷ついても治療は貴族だけと知れば他の者達は戦意が鈍るし、草むす屍となる戦友を見て士気を下げてしまう。
「殿下はご立派なお考えをお持ちです。しかし、兵達の略奪を禁じていて……。余計な争乱にならねばよいのですが」
……ダメだ。兵の士気をあげる要素がない。これはいけないかもしれない。
ご意見、ご感想をお待ちしております。




