襲撃
突然だが前世の会社の自慢をしよう。なんと言っても終電の心配をすることは無かったことだろう。
だってそもそも終電に間に合う訳が無かったから。それこそ入社三、四か月くらいは終電を気にしつつ帰宅できたものだが、それ以降は業務が終わらずに終電を逃す様になり、そのうち気にするのをやめた。てか二徹、三徹は当たり前。もしくはネットカフェでシャワーを浴びて出社なんてケースもままあった。
もちろんその日々の積み重ねのせいで体がだんだん重くなるのだが、今がまさにそれと同じ重さを感じていた。
「くそ……」
思わずつぶやかれた言葉に周囲を伺えば、山間から顔をのぞかせた陽光によって照らされた木々が風に揺れていた。
どうしてこんな森の中に居るんだと寝ぼけた頭が問えば、作戦中だからだよと自答する。その作戦中に愚痴を言うとはどういう事だ?
そう自分を叱咤しながら森の中に隠れる兵達を伺えば惰眠をむさぼっていてこの独り言を聞いた者は居ないようだった。
自制心が失われつつある。
フラテス大河での防衛戦以降、中隊長として越えてはならぬ一線を踏み越えてしまっていると言う自覚はあるが……。このままじゃ不味い。いずれ判断を見誤るような事が起きるやもしれない。
「しっかりしろ。ロートス。俺がやんなきゃダメなんだ」
ミューロンが居てくれたら……。彼女の細く、柔らかな手で俺を抱きしめてくれたら……。
いや、あり得ない。ミューロンに頼らねばならぬほど俺は弱いのか?
そんなのではダメだ。ダメなんだ。
寝返りを打ってから起きあがろう。もうこんな事ばかり考えていては負のループに陥って余計にミスを誘発しやすくなってしまう。
よいしょ……。
ゴロリと転がると平野に広がる森の中に居たはずなのに山が見えた。
黒い軍衣を押し上げ、今にも布地が張り裂けそうなほどのふくよかな、山脈が見える。
あぁなんて不敬罪で捕らわれても文句の言えない乳房!
朝と言うことで余計に元気になりそうだが、欲望さえねじ曲げる疲労感を前に大きなため息をつくだけだった。
「さて、殿下。朝です。そろそろ起きましょう。殿下!」
王族の肩を揺するのは畏れおおかったが、いつまでも寝させておく訳にはいかない。
ゆさゆさと揺するとそれに合わせるように山脈も、揺れる。適度な弾力を思わせるその――。あぁかみさま! なんか活力が蘇ってくる。
「――ん。あぁ。おはよう。どうしたのだ?」
「いえ、殿下! 俺、がんばります! この任務、身命をとして成功させる所存です!」
「う、うむ。良きに計らえ」
完全に「お前なに言ってるの?」状態のイザベラ殿下だったが、それでも良い。むしろそうでなくては困る。俺の戦意の不純さは軍極秘だから。「さて。朝食ですが、お口にあうか……」
王族の食事なんて想像もつかないから不安で仕方ない。
あれか? 何か鳥でも狩ってきて供するべきだろうか? いや、弾がもったいないし、即席で弓矢を作っても俺、へたくそだし……。
えぇいままよ。
「気にするな。口にできるもは食う」
「そう言っていただけると助かります」
そうして背嚢を漁っていると周囲の兵も起きだし、歩哨の交代と朝食の準備に取りかかりだした。
と、言っても煮炊きの煙から存在を知られるわけにもいかず、干し肉を噛んだり、焼きしめたパンを咀嚼したりとただ食物を接種するだけの行為に徹する。味? 考えない、考えない。
チラリと殿下を見るといつも以上に無表情で干し肉を口にしていた。
堅く、塩の味しかしないそれを噛む事で満腹中枢を満たしてやり、空っぽの胃には固いパンを押し込んで膨らましてやる。
あぁ殿下には朝食と言ったが、これは朝食なんて高尚なものじゃないな。
「さて……」
もう食事について考えているのがばからしくなったのでマップケースから作戦地図を取り出す。
細やかなパン屑のついた指をなめつつ質の悪い紙をめくり、これからの行程を頭の中に描く。
えと、まずは副街道への脱出だな。おそらくここが一番危険だろう。で、完全に危険が失せるのはセヌ大河で船を拾うまで。
もっとも安全なルートはレオルアンからセヌ大河を遡るルートだが、それくらいサヴィオンも予想するだろう。
だから二番目に安全なルートをとると言う心理戦を交えた作戦となっているのだ。もっともこれはサヴィオン軍がイザベラ殿下の脱出を察知した場合を想定しているから、このまま作戦が運べばどのルートでも安全に殿下を王都まで護衛できるはずなのだが……。
「気づく、ものなのか?」
「可能性はある。なんと言っても脱走兵が出ていたしな」
「で、殿下。失礼しました」
「かまわぬ。それで先の話だが、少なくない脱走兵が出ている。作戦が漏れる可能性もあろう」
脱走兵と言うのは初耳だった。
いや、日毎に兵員が少なくなっているのは気づいていたが、大方、戦死傷しているのだとばかり思っていた。
それにしても脱走兵か。確かに一〇一高地を巡回する憲兵が増えていたような……。
「それに一〇一高地から撤退の姿勢を見せればサヴィオンは我らの撤退を阻止するために包囲に出てこよう」
「そこまで積極的ならすでに包囲されているはずでは?」
「そこは指揮官次第だからな。アイネ殿下は正面から我らを打ち破りたかったのやもしれぬ」
それからイザベラ殿下は言葉を選ぶように押し黙り、重十秒ほどの沈黙の後に「浅からぬ因縁があるからな」と付け足す。
そんな個人的な理由で? 確かにアイネとは因縁があるが……。
まぁ詳しい事は分からないし、想像するしかない。
「ではサヴィオンの捜索騎兵がやってくる可能性も?」
「あるだろうが、二、三日のうちは平気だろう」
つまり船に乗れた頃合いに追っ手が放たれると言うことか。
頭では余裕があると思っても、それでも不安が拭いきれない。もし作戦が露見していたら? もしアイネの気まぐれで斥候を放っていたら?
こればかりは心配してもしきれないか。取りあえず緊張感だけは保持しておこう。
「ではそろそろ出発としましょう」
やっとの事で噛み応え抜群の干し肉を飲み下し、地図をしまう。
さらに歩哨の交代を命じ、一度、銃の簡易な点検を行う。うん。出発前にハミッシュに見てもらって良かった。
油を吸って乾いた銃床に錆をこそげ落とした銃身。撃鉄の動きも確実。引き金の遊びも俺の好みに調整されている。良い感じだ。
「総員集結!」
各自、余った食料を背嚢に戻し、着崩れていた軍衣を整え、そして脚絆を巻き直す。
それと同時に手近な木に上って周囲の地形を観察し、だいたいのルートを思い描く。
「では出発する」
欠員無し。総勢十一名。
黒い軍衣に汚れたテントを着込んだ集団が歩き出す。先頭は俺。次いで殿下と言う順番で、後は階級の低い順から並んでいる。
生い茂るクマザサを踏みしめ、その生え具合から窪地が隠れていないかを見極めつつ行軍していく。エルフにとってこれ以上ないほど楽な行軍なのだが、人間であり、王族でもあるイザベラ殿下には少々酷なようだ。歩き出して一時間ほど。殿下が肩で息をしている。
小休止を入れるべきだろうか? だが行軍速度を保ちたい。
「殿下、少し休みますか?」
「いや、構わぬ。続けてくれ」
陶器のような白い肌に汗がこぼれ落ち、青い髪が頬に張り付いている。そして息苦しそうに上下するたわわな胸。め、目に毒だ。
「分かりました」
歩くペースを若干落としつつ森を進む。出来るだけ殿下が歩きやすいよう道を選び、下草や小枝をわざとへし折る。任務の性質上、こうした歩き方はよろしくない。
エルフでは無くても練達した狩人ならそうした痕跡から獲物を追跡できるのだから。俺も前世の狩猟でそうした跡を辿って獲物を探したものだ。
だが森歩きに慣れていない殿下の事を考えれば仕方ないし、それに追っ手がかかるには時間がある。追っ手がこの痕跡に気づいてもその頃には船の上なのだから問題もあるまい。
ちなみにアル=レオ街道を使用していないのは別の一隊が街道を南下しているからだ。それに街道ならサヴィオン軍の騎兵がたまたま斥候として出ているかもしれない。それと不期遭遇しても面白くないと言うもの。だからこうして道無き道を進んでいる。
だがそれも限界だろう。
「そろそろ小休止としましょう」
「う、うむ。助かる」
比較的開けた場所に皆が思い思いに腰を下ろし、休息の姿勢を取り出す。だがそんな彼らにモリソン軍曹が「歩哨を出さんか」と叱責され、四人のエルフは慌てて腰をあげる。
その様を見守りながらマップケースを開く。
「それで今はどこらへんなのだ?」
「えと……。って殿下。お休みになられては?」
「予の事はよい。……それに、王族が真っ先に休んでいては不安に思う者もおろう」
そう言う事なら構わないが……。だが慣れぬ森歩きに疲労が溜まっているのが目に見える。
それに殿下が座られないと俺も座る訳には――。いや、何考えてんだ。元々座れる立場じゃないだろ。指揮官が尻を地面につけるのは寝るときだけだ。しっかりしろ。
「それで、現在位置は?」
「え、えと……」
大ざっぱに描かれた地図でどこらへんと言うもの難しい。
だが朝の野宿した場所からだいたいまっすぐに行軍して二時間ほど経っているから――。
「おそらくこの辺かと。あと半日も南に下ればじきに副街道に入れるでしょう。まぁ木に登って確認しなければ詳しくはわかりかねますが、だいたい合っているはずです」
「本当か? 森の中で度々進路を変えたろう」
「エルフの方向感覚を舐めちゃいけませんよ」
ふむ、と地図に顔を寄せてくる殿下。か、顔が近い。そんでいい匂いがする。ツンとした汗の臭いに混じって甘い香りがするが、女ってみんなそうなの?
ミューロンもそうだが、女って良い香りがするんだなぁ。
ミューロン、どうしてるかな。
「だらしない顔だな」
「え? そんな顔してました?」
地図から顔を跳ね上げるとイザベラ殿下の冷徹な表情がこちらを見ていた。
先の短い言葉と併せて糾弾されているような気がする……。いや、きっとそうだ。
「その、申し訳ございませんでした」
「そこまで謝罪せんでいい」
「……怒ってます?」
「よく勘違いされる」
どこかすねたような口調に思わず頬がゆるむ。本当に失礼な事だが、かわいらしい一面だなと思ってしまった。
それに心の緊張がゆるむのを感じつつマップケースに地図をしまい込む。
あと少しこのまま前進し、その後、南下してから副街道に入れば良いだろう。おそらく森の中であと一泊するかしないかで副街道にいけるはず。
「総員、装具をまとめろ。もうすぐ出発だぞ」
その言葉に兵達がテキパキといつでも行軍が出来るよう準備し出す。それと同時に歩哨に出ていた兵達も帰ってきてモリソン軍曹が点呼を取り出す。
それが済むと彼は報告のために俺達の前で綺麗な敬礼をした。
「ロートス支隊現在総員十一名、事故無し」
「よろしい。では早速――」
その時、モリソン軍曹がグラリと倒れた。その背中には矢が突き刺さっており、黒い軍衣を赤く湿らす液体が漏れで始めていた。
「て、敵襲!」
反射でそう叫び、茂みの中に身を隠す。
一体なんだ!? 何が起こった?
第二射を恐れて地に伏せたまま周囲を警戒するが、そこかしこに隠れるエルフ以外の気配は感じられない。近くにはいなさそう――。
狙撃か! 弓兵による狙撃――!
「総員、そのまま聞け。弓兵に狙われている! 頭を上げるな!」
その時、倒れ伏していたモリソン軍曹から「うッ」とうめき声があがる。それを聞いた一人の兵が「軍曹殿!」と駆け寄ろうと立ち上がり、その頭に矢を生やして倒れた。
「頭を上げるな! 頭をあげるな!」
矢が放たれた方向はなんとなく分かった。それに矢の弾道は弓なりでは無かったから相手は長弓ではなさそうだ。射線の限られる森の中と言う事もあるし、相手の射程はそんなにない?
なら即座にこの場を離脱すべきだ。まず危険から部隊を遠ざけなくては。
――ってそんな事できるか。
「軍曹! モリソン軍曹! 頑張れ! 今、助けにいく!」
「よせ、狙われている!」
立ち上がろうとした瞬間、イザベラ殿下に胸元の飾りひ紐をむんずと捕まれる。
「放してください! モリソン軍曹が――!」
「取り乱すな」
「ですが――」
いや、殿下の言うとおりだ。今、頭を上げては狙撃手の思うつぼだ。
かと言って軍曹を見捨てるなんて――。
その内心を見透かしたように首を横に振る殿下。
それに視界が真っ赤になるほどの怒りを感じた。いや、それがお門違いも良いところなのだと言うのは分かっている。分かってしまっている――。
「殿下はエルフじゃないから、そう言えるのです!」
「……その通りだ」
思わず殿下の胸元を掴みかえす。その女性らしい膨らみさえ、今の俺にとって怒りを増長させるものでしかなかった。
だがすぐに己の愚かさを悟る。
王族にする態度では無い。
「ロートス大尉。兵を引かせよう」
言葉が喉に詰まる。命令を発しようにも声は息としか漏れない。それが、それが指揮官失格の意味を示している。情けなかった。自分が、非常に――。
「ぎゃあああ!」
軍曹にさらなる矢が刺さる。今度は右腕。それも狙いすましたように急所を外している。
「軍曹!!」
痛いと叫ぶ軍曹の悲鳴に殿下の「兵を引かせよう」と言う言葉がグルグルと頭の中を駆け巡る。
くそ、くそ!
俺はどうしてこんな目にあっているんだ。俺はただ穏やかに村で暮らしたかっただけなのに。貧しくも慎ましやかな狩猟生活をしたかっただけなのに。ただ、ただただミューロンと共に生きたいだけだったのに――。
「大尉!」
その声に視線を向ければ近くの草むらに伏せていたマルコム伍長がすがる様に俺を見ていた。
「大尉! 指示を!」
指示!? 指示なんて決まっている。決まって――。
「どうすりゃ良いんだ――」
モリソン軍曹を助けたい。だが――。
そう、だが無理なのだ。のこのこと助けに行けば狙い撃ちにされる。なら軍曹を見捨てるしかない。
しかし――。
どうすりゃ良いんだ……。
これからちょっと鬱展開。出来るだけ鬱憤を晴らせるような展開に持って行くのでどうかお待ちを!
それではご意見、ご感想をお待ちしております。




