逃走の日
土の甘く湿った匂いが鼻につく。
普段だったらまったく意識しない匂いが今日に限ってまとわりついてくるようだ。そう言えば森の暮らしからも大分遠ざかっていったな。
睡眠からの急速な意識の浮上を感じつつ瞼を開ければ薄闇がまだ辺りに立ちこめていた。
ゆっくりと身を起こせば久しぶりの野宿に体が悲鳴をあげる。
周囲を見渡すと木々の間に身をおいた選抜猟兵達がテントの布地を体に巻いてうずくまっている。
そして自身からずり落ちたテントを引き寄せ――寒い。一陣の風が野営地に吹き寄せてきた。昼間こそ暖かくなってきたもののまだ朝晩の冷え込みが激しい。
それだけじゃない。昨日の戦で塹壕に押し寄せた氷水のせいで未だ軍衣がぐっしょりと湿っていやがる。そのせいでより体温が奪われるのだ。
だが、先ほどまでなんらその寒さを感じなかったのはなんでだろうか?
背中のあった場所に視線を向ければ寒さに体を丸める幼なじみの姿があった。
硝煙に汚れた白磁のような肌。泥に汚された金の髪。そして重い瞼の陰に隠れた碧の瞳。その非常に整った顔立ちが「寒い!」と主張するように歪む。
すぐ隣に体を滑り込ませてやれば安堵したように桜のように柔らかい表情が姿を見せた。
「はぁ……」
そんな彼女の暖かさを感じると共に冷めてしまった地面の温度がせめぎ合う。それに意識を向けようとしてふと、昨晩の事がありありと蘇ってきた。
燃える大隊本部。攻め寄せる羽飾りのついた騎士。
惨敗だ。防衛線は完全に崩壊し、アルツアルやエフタルは潰走。もう俺達に敵を倒す力が残っているのだろうか……?
そもそも友軍はどこまで後退していて、敵はどこまで前進しているのだろう。もう敵中に俺達は孤立しているんじゃないだろうか?
ダメだ。考えれば考えるほど悪い方向に思考が流れて行っている。
「こんな事ならあの時、アイネを殺しておくべきだった」
廃砦での奇妙な共闘の時、しっかりあいつを殺しておけばこんな事にはならなかったろうに。
「……ん。ロォトス?」
とろんと開いた口から漏れる甘い吐息。それが俺の名を呼んだ事に快感を感じつつゆっくりと彼女の名を呼ぶ。
「ミューロン」
「ぉはよぅ」
いつになく舌っ足らずな甘い声に耳が蕩けそうにになる。
そんなドキマギする俺を余所にくわぁっと猫のように身をのばすミューロン。そしてこれまた猫のように細い指で目元を擦り出す。その動作の一々かわいいこと。
「おはよう、ミューロン」
「改めておはよう。うーん。森の中で朝を迎えるって久しぶり」
「エルフなのにな」
おかしな話だ。
三、四ヶ月ほど前まで当たり前のよに森の中で穏やかに暮らしてきたと言うのに。それなのに気が付けば森を離れ、サヴィオンとの戦いに明け暮れているんだから。
「さて、起床だ。起床。起きろ」
周囲の兵士を揺り動かしていく。
すると彼ら彼女らも体のあちこちを撫でながら身を起こしていく。こいつら皆エルフだと言うのに……。
「歩哨を交代させろ。次は三班だった」
三人の兵士が小さく返事をすると共に枕にしていた背嚢(中隊の物資集積所に残されていた分。これが残って居なければどうしようも無かった)を担ぎ、銃を点検してから街道方面に向かって歩き出した。
その間に朝食となる訳だが……。
「昨日の通り、いつ友軍と接触できるか分からん。皆食料は大事に」
今日の朝食は各自の背嚢に納められた乾飯と干し肉だ。どちらの腐らないように水分を飛ばした食料で、口の中がすぐに乾いていく。
ボリボリと堅い飯を食らい、ゴムに転用出来るんじゃ無いかと思う肉を飲み込む。
「さて、準備が出来次第、出発する。歩哨を呼び戻してくれ。今後の事を話す」
歩哨が呼び戻され、点呼を取る。
さて、人数通りだな。
「では今後の作戦について話す。俺達の現状は敵中に孤立中と言って差し支えない。よって作戦の目的は敵戦線を突破し、友軍と合流する事になる。
エフタル、アルツアルの両国も軍に損害を受けても千人単位の兵が残っているはずだ。よって後退路はアル=レオ街道を除いて無い。だから俺達は街道沿いに南下してレオルアンを目指す。その間に友軍と合流出来れば良しって所だ」
つまり南に向かって逃げようと言うこと。
むしろそれ以外のルートがあるだろうか? 大軍である友軍が細い道を通るとは考えにくい。なんといっても貴族様達には従者や天幕を乗せた馬車等があるだろうし、友軍の方も兵糧を輸送するための馬車が何台もある。それらが一斉に移動するのだからルートも限られると言う物だ。
「ねぇ、もしサヴィオン人と会敵したら?」
若干、頬を赤らめたミューロンが犬歯をむき出しに聞いてきた。
現状の俺達はお世辞にも敗残兵なのにこれほど血気盛んとは恐れ入ったぞ。
「敵戦力が分からない以上、無理に行動するのは避けたい。エフタル撤退の時のような森に誘い込まれて火を放たれるような事はされたくないからな」
ミューロンは不満そうだが、すぐ頷いてくれた。
そして他に質問が無い事を確認して俺達は出発する事にした。
各自、夜具代わりにしていたテントを体に巻き付け、その上から弾薬ポーチが付いたベルトを巻く。
「各自一列縦列で進むぞ。先頭はミューロン。最後尾は俺。各自階級順に並べ」
先頭から一等兵、それから階級が段々上がるように列を作り、各自銃を手に進み出す。
飯を胃に押し込み、体を動かす事で若干ながら汗が出てくる。それを後押しするようにジリジリと気温も上がってきた。
そのせいで浅い眠りしか得られなかった体が悲鳴をあげ出す。
「………………っら――」
今、辛いと言えたらどれだけ幸せな事だろうか。
もう、体力的な問題より辛いと言えない現状が辛くて仕方なくなりつつある。その上、予備の被服や弾薬、糧秣を包み込んだ背嚢の重いこと。
手にする銃も何時になく重く感じる。
そんな中、先頭を行くミューロンが立ち止まって身を低くする。身を屈めたまま彼女の側に行くと細い指が黙って草むらの先を差し示した。
そこに軽騎兵らしき兵士達が北に向けて駆け戻る所だった。数は十。きっと俺達に襲撃される事をおそれて大人数に編成された斥候部隊だろう。
これが四とか五騎だったら殲滅出来たかもしれないのに……。
その時、クィっと袖が引っ張られた。無言で見返してやると紅潮したミューロンが期待に満ちたまなざしでこちらを居ていた。深い湖のようにすんだ碧の瞳に吸い込まれそうになりながら、彼女のお願いを却下する。
「ダメだ。数が多い。一撃でしとめきれない」
あいつ等の足は早い。一撃を逃せば生き残りが必ず敵の本営に俺達の存在を伝えに行くに決まっている。それだけは避けたい。
「ちぇ。でも分かった」
すぐに不満の色が消えた彼女は疲れたように額を拭った。それに嫌な予感を覚える。
だが何時までもミューロンに集中しているわけにも行かず、軽騎兵達が遠ざかるのを見守って再出発する事にした。だが、少し思う事が合って陣形を少し変えた。
「ねぇ、なんでわたしの隣なの? もしかして勝手に敵を撃っちゃうとか考えてない?」
「考えてないさ」
先頭を行くミューロンの隣に陣取る事にし、最後尾を分隊の中で階級のもっとも高い軍曹に譲ったのだ。
明らかにミューロンの様子がおかしいし、それに敵との遭遇を考えると即座に判断を下すために俺が先頭を行くべきだと思ったのだ。
だから先ほどまで俺がしていた落伍者への見張りを軍曹に変わってもらった。
「だったらどうして?」
「……。だったら良いか?」
汗で光る彼女の額に手を押しつける。やっぱり熱がある。
きっと昨日の戦闘から濡れていたからだろう。それと戦闘の緊張かなんかで体が弱っていたって所か。
「小休止を取る」
「わたしはまだ歩けるよ」
「他がそうじゃないだろ」
荒い息をつくミューロンがまだ口を開きかけるが、背後を振り向いてそれを閉じた。
どうやら他の兵を気に掛ける余裕も無いらしい。
「各員小休止。歩哨は第一班からだ」
三人の兵がうなづいて隊列を離れていく。さて。
「ミューロン、もう一度良いか?」
「……好きにして」
再度彼女の額に手を当てる。結構な熱がある。これじゃ行軍はキツイだろうに。
だが彼女を置いていく選択肢は無いし、だが彼女だけ特別扱いすると言うのも……。
「近くに熱冷ましの薬草があれば良いんだけどな……」
ヨモギとか生えていれば……。いや、春先だしまだ無理か?
思案していると壮年のエルフが側にやってきた。
「中隊長殿。臨時少尉殿がいかがされました?」
「いや、その……」
「……熱でありますか?」
チラリと見ただけで彼はそれを言い当てた。さて、兵の手前どうしよう。そう無言で聞くと彼は周囲を探ってため息をついた。
「もっと明るい所であればヨモギが生えてるかもしれませんな」
「街道に出ろと? 危険は犯せられない」
「でしょうな。さて……。とにかく水を絶やしてはいけません。臨時少尉殿。水を」
「うぅん」
弱々しい声を出しながらも彼女は素直にベルトにひっかけられた水筒を引っ張り出して口を付ける。
喉が妖艶に動き、水を飲み下していく。
「ぷは」
「水筒を貸して」
若干、赤みの引いた頬を傾げつつ差し出された水筒に水魔法を唱えて満タンにしてあげると急に彼女が目を見開いた。
「ちょっと! そんな事しなくても大丈夫だよ!」
「良いんだ」
「わたしは良くない」
「どうして?」
「……ロートスの負担になりたくないから」
余りにも可愛らしい理由にむず痒さを覚える。それを共に見守っていた軍曹も安堵したように頷いた。
「それだけ余所に気を使えるのなら大丈夫でしょうな」
「助かった。えと、確かモリソン軍曹だったか」
「はい。そうです中隊長殿」
確かエンフィールドの近くの村の出身だったはずだ。再編前の配置は銃兵第一小隊の先任軍曹だったか。
なんと言うか、下手すりゃ俺と同じ年代の子供が居てもおかしくない大人を指揮していると言うのは奇妙な感じがする。
「……中隊長殿? 何か?」
「いや、なんでもない。それより他の兵員に気を配ってやってくれ。疲労のせいで背嚢を捨てる輩もでるかもしれない」
「お言葉ですがもっとも背嚢が担げなさそうなのが臨時少尉殿ではありませんか」
うーん。その通りなんだよなぁ。
だが対してミューロンは横になりながらも「平気です」と無理に立とうとする。
「良いから座ってろ」
「でも――」
「今は少しでも休むように。中隊長命令」
「……了解です」
さて、どうすっかな。早く友軍と合流したい所だが……。
依然、我らは敵中に孤立し、援軍も無し。幸いに敵に居場所を察知されていないのが救いか。
このままミューロンの体力と相談しつつレオルアンを目指す。それしかない。
あれ? これってなんかデジャブを感じる――いや、まんまじゃねーか。スターリングから公都に撤退していた時とまんま一緒だよ。
せめて俺達がたどり着くまで落ちてくれるなよレオルアン。
「ミューロン、辛かったらすぐに言ってくれ」
「サヴィオン人を殺せないのが辛いかな」
「それくらい我慢しろ」
軍帽の上からぽんぽんと軽く頭を叩いてやるとにへらと柔らかい笑みが顔をのぞかせた。あぁくそ。かわいいな。さすが俺の嫁だよ。
幸せすぎて恥ずかしいくらいだ。それを隠すように軍曹を呼びつけると、彼も困ったように顔をゆがめながら小走りにやってきた。
「はいはい」
「小休止だが、これからはどうすべきだ? 頻繁に回数を取っても大丈夫か?」
「長距離行軍となる可能性もありますし、サヴィオン軍の追撃に兵達は消耗しましょう。ここで落伍者を出す訳にも行きませんし、臨時少尉殿の体調を抜きにしてもこまめに取るべきです」
「分かった」
その後、歩哨をしている兵達の方に赴き、街道を監視する。
どうも先ほど敵の斥候が駆けていった以外に人通りは無いようだ。サヴィオンの主力兵科が騎兵なのだからどうしても足は俺達より早くなる。
つまり軽々と俺達を追い越せるはずだ。それなのに斥候が帰って行ったきりと言うのはどういう事だろう。フラテス大河からそんなに離れた訳でもないし、敵の主力――東方辺境騎士団が迫ってきても良い頃合いのはず……。
まだ敵は部隊の再編中なのか? もしくはさらなる援軍の渡河を待っているとか?
どちらにしろありがたいな。出来るだけあの騎士団とは距離を取っておきたい。
「よし、そろそろ出発するぞ。装具をまとめろ」
今度は軍曹を先頭に最後尾に俺とミューロンがつく。
いやだって病でふらふらしそうなミューロンを兵の前に置いといては士気に関わるし。
本当なら無理はさせたくないが、それでも敵と距離を取りたいし、何より残りの糧秣について考えると頭が痛くなってくる。
やはり早々に友軍に合流しなければならないだろう。
「中隊長殿! 総員の装具まとまりました」
「よし。それでは一列縦隊。戦闘はモリソン軍曹。最後尾に俺とミューロンが付く」
その言葉に兵士達が淀みなく整列していく。やはりこれくらいの小グループは指揮がやりやすいな。
「これより街道沿いを南下、友軍との合流をはかる。各自、警戒を厳とし前進せよ。前へ進め!」
湿った落ち葉を静かに軍靴が踏みしめていく。
恐らく森の中に息を潜めて居れば敵はこちらを察知できないだろう。それは自信と言うより確信。
そもそも冬の選抜猟兵の活動がそれを示していた。森の中なら大丈夫。
だが――。
「う……」
隣を見ればふらふらと銃と背嚢の重みに揺れるミューロンが。
もういっそのことおぶってしまおうか……。いや、兵の前で彼女だけを優遇するのは――。でも……。
「……あの、大尉」
俺達の前を歩いていた伍長が耐えかねたように振り向いた。
「臨時少尉の荷物を持ちましょう」
「いや、お前も自分の荷物を持っているだろ」
「なに、臨時少尉が倒れられるより自分が疲れた方がマシでしょう」
「……良いのか?」
「良いも何も、同じエルフ仲間じゃありませんか」
なんて甘美な言葉だろう。だがミューロンはその言葉に首を横に振って応える。
「歩けるよ」
……くそ。持てと命じるのは簡単なのに――!
「なに、持たせてください。臨時少尉は敵に相対してこそ力を発揮するのですから」
「……分かった」
俺は指揮官として最低の命令を下す誘惑に勝てなかった。
おまたせ。
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