帝都ベルヌス
サヴィオン帝国帝都ベルヌス。
整然と区画整理された都市の大路には正規の商店の他にも露天商達が厚手の布の上に商品を並べた市が広がっており、非常に活気に満ちている。
もっともそれは大路だけであり、本来であれば細い路地裏にも広がっていた市はその規模を縮小していた。
その一角で商品となっている馬鈴薯――もしくはジャガイモと呼ばれる商品を睨んでいると店主がおずおずと「どうです?」と優しい声音で話しかけてきた。
「お二人さん。その赤髪からして東方人ですね。ならこれは珍しいでしょう。ここ、二、三年で帝都に出回るようになった新種だからね」
「いえ、もうこっちに住んで長いのでそれほど珍しくは。うーん。それより値段が……。ねぇ母上――母さん」
「そうねぇ」
ブラウスにエプロンドレスをかけたの女盛りの婦人が体にしなを作りながらチラリと店主を見やる。まったく、もう四十に片足入れているような年齢なんだからやめて欲しい。
だがそれでも主人が鼻の下を長くしているのを見るに、確かに母は年齢の割に体に張りがあり、まさに熟れた果実のように甘い身をしている。別に悔しくは無いが。
「いやいや、奥さん。ダメですよ。これでも大分良心的なんですから」
「確かにそうねぇ。でもお値段の割に小振りじゃないかしら」
「今時、戦で塩も麦も値上がってるんですよ。これ以上下げたらこっちが飯を食えなくなっちまう」
「うぅん……。困ったわねぇ」
「へい。まったくです。戦のせいで何でもかんでも高くなっちまっていけません。御上を悪く言うつもりは毛頭ありやせんがね、飯を放ってでも亜人を懲らしめてやる価値があるのかあっしには分かりません」
「そうね、戦争は早く終わって欲しいわ。それと、他のお店を見てから考えるわ」
「お待ちしております。言っておきますがどこを見てもここより安い店なんてありませんぜ」
愛想笑いと共にジャガイモ売りに背を向ける。店主が言った通り二、三年前から市場に出回りだした品だが、あのもさもさとした食感がどうしても好きになれないでいた。もっともいざ食べろと言われれば食べられる程度の好き嫌いではあるが……。
それよりも本題に入ろう。
「ねぇ母さん。私、イヴァンさんの所に嫁ごうと思ってるの」
「久しぶりに帰って来たと思ったらいきなりどうしたのよ。前は興味ないって言ってたじゃない」
「ちょっと思うところがあって。それに皆もそうするべきだって……」
「なるほどねぇ……。それで貴女はどうするつもりなの?」
「迷ってて……」
「誰が何を言っても貴女がしたいようにすれば良いじゃない。それが東方の民って奴よ。女は度胸なんだから」
「そう言われても……」
「それに貴女も良い歳なんだからそれくらい自分で決めてみたら良いじゃない。それじゃ、母さんは別の通りを見てから帰るから。たまにはお父さんにも顔を見せてあげて。心配しているんだから。あとクラウスさんに迷惑かけちゃダメだからね」
「いや、だから家に帰えらないように――。それにクラウスはもうって聞いていないし……」
余の話を全く聞かないとは母上はいつもいつも――。いや、ここで怒っても詮無きことか。あの人はいつもそうだ。
だが、母上は余のイヴァンさんへの嫁入り――イヴァノビッチ家を名乗り、東方王に即位する事に対して肯定的なのかもしれない。いや、分からない。母上も帝国の后であるし、諸手を上げて余が帝国に反旗を翻す事に何も思わないはずがない。
それでも余が煮詰まっている事に違いはなく、苦渋の決断で母上とお忍びで会う段取りまで取り付けてしまった……。
そう思いつつぶらぶらと市場を眺めているが、先の商人が言ったように何もかもが値上がりしていた。
たぶん開戦前より二倍近く様々な物が値上がっている。それは戦争による所も大きいのだろうが、義兄上がアルツアルにおいて糧秣等を全て自前でそろえようと帝国中の馬車をアルツアルに集めてしまったせいだ。
そのせいで帝国の物流が滞り始めている。
「確かに戦は早く終わって欲しいものだ」
さすればアルツアルに残してきた東方辺境騎士団を東方に帰す事が出来る。
余の失態により義兄上の不興を買ってしまったのは今思い出しても下策であった。何が悲しくて指揮官が部下よりも先に帰らねばならんのだ。
だが事を起こすのなら有力諸侯が出征中の今に限るとも言えるし、同時に東方辺境騎士団の本隊の帰還を待ってからとも思える。
はぁ……。何も決まらない。
そもそも帝国に帰ってきたは良いが、そろそろ東方に行かねば晩夏の巨人族討伐に間に合わない時期だ。予定していた貴族への根回しも手応えを感じないし……。
はぁ……。根回しと言うのは戦より大変なのだな。
さて、そろそろ時間か。足を帝都の貴族街に向けようとした時、ふと背後から刺さるような視線を感じて振り返る。だが雑多な往来の中から視線の主を探しきる事が出来ず、足早にその場を去るしかなかった。
◇
暗殺慣れしているとは我が身の数奇さを物語る言葉だろう。あの鋭い視線は物取りやスリの類ではなく、殺意を込めたものだと今までの経験が物語っている。
故に出来るだけ人通りの多い道を選んで東方よりの貴族であるミヒャエル・オスト・デルソフ辺境伯の家に転がり込むとまず家人に驚かれた。
なんと言っても街娘が貴族の屋敷に飛び込んできたのだからさもありなん。
「いやはや。殿下、家人がご無礼を働いたようで」
そう言うのは色の薄れた赤髪を頂く老齢の騎士だ。年老いても引き締まった体躯のその人こそ母上の実家にして東方貴族と帝国辺境伯デルソフ領の領主だ。
元々、彼の領地は東方の西部――サヴィオン帝国東端と隣接している土地を治めており、東方三大貴族に数えらる名家であった。
また、母上の実家であり、東方にありながら親サヴィオン派であったデルソフ家を足がかりに東方平定に当たっていた事から帝国貴族の中ではもっとも信頼出来る家だ。
「構わぬ。余も不躾な来訪であったからな。途中で着替える暇もなかった」
「しかしまさか影が出るとは……。まさか感づかれたのでは?」
「否定出来ぬな」
本来なら帝国に長居せずに東方に帰ってしまう余が長々と一月も帝都に滞在しているのだから疑われるのも道理か。いや、不味いだろ。
そのうち父上から問責を受けるやもしれん。やはりそろそろ潮時か。
「やはり東方王即位は時期尚早か」
「しかし、東方貴族はそれを了承しているのですよね?」
「う、うむ。そうだ」
嘘だ。そもそも東方騎士団の中で内々に余の東方王就任を望む者は居るようだが、それが家の方針かと問われれば絶対に首を横に振る者が出るだろう。
それに余も未だ迷いがある。余なんかが王に即位して本当に良いのか。イヴァノビッチ家が守ってきた東方を余は戦火にさらそうとしているのに、それで良いのか。
そもそも余は政治が分からぬ。
前帝陛下の側室であった母上を現帝陛下が手を付けられた事で余の血には政争の種が埋まっていた。故に政争に巻き込まれて暗殺されぬように政の場から出来るだけ遠ざかるようにしてきたせいで手習い程度の政しか覚えが無いのだ。
そんな者が王位を僭称するなど正気の沙汰では無い。やはり東方王を名乗るべきでは無いのではないか?
……ダメだ。考えるだけで迷いが出てくる。
だがそんな迷いを出していては話も進まないと交渉にあたっている帝国貴族には東方の総意は得たと言って回っているのだ。
「殿下の足踏みを東方貴族が許すでしょうか。一番の危惧は殿下の意志とは別に東方貴族が暴走する事です」
「それは分かっている。だが、父上に睨まれてはな……」
逆賊討つべしと言われればそれまでだ。
「……畏れながら殿下には真に東方を統べるお気持ちがおありなのでしょうか」
その言葉に思わず詰まってしまう。
確かにその通りだ。覚悟がない、そう言われてしまえばそれまでだ。
とは言え……。
「事が事だ。慎重に動きたい」
「これはご無礼をお許しください。殿下のおっしゃる通りです」
どうすれば良いのか相変わらず案は出ずに時間ばかり過ぎていく。
かと言ってそれを相談出来る相手もおらず……。
確かにデルソフ家は信厚き家である。だが東方王即位の是非を問うて良いかと言われれば疑問だ。
母上とて答えを濁されたし……。
「さて、余はそろそろ東方に帰ろうと思う。こうなっては帝都におられまい」
「左様でございますな。帝都での工作はどうかわたくしめに――」
「うむ。では余は巨人と一合戦してくるか」
「そう言えばそのような時期ですな……。昨今は帝都ばかりで所領に戻っていなかったので、いやはや。懐かしい。昔は私も巨人相手によく槍を振るったものですが、今やれと言われたら出来るかどうか」
「東方三大貴族のデルソフ家が当主が何を言っておるのか」
晩夏になれば北から巨人族が毎年のように攻めてくる。奴らは肥沃な土地を求めて毎年毎年南下してくるのだ。
奴らもなかなか懲りなく、逆に関心するばかりである。
「さて、では城に帰るとするか」
「殿下、暗くなって参りましたし、よろしければ皇城までお送りしますが」
「いや、構わん」
「しかし、暗殺者の事もあります。殿下の身に万一があれば――」
「案ずるな――。と言いたいが、そうだな。では頼もう」
「では馬車の手配を致しますのでしばしお待ちを」
「……何から何まですまぬ。祖父上殿」
デルソフ家は母の実家でもある。もっとも母上は東方王家であるイヴァノビッチ家の出ではあるが、帝国と政略結婚のために当時唯一皇帝陛下より爵位を賜っていたデルソフ家の養子になってから帝室へと嫁いだのだ。
故に血のつながりはなくても祖父は祖父である。
「殿下の御為ならばこの老体になんなりと申しつけくだされ」
その後は当たり障りのない世間話をしていると家人が「馬車の支度が整いました」と丁寧に出迎えてくれた。
そして祖父上殿と共に屋敷の玄関に向かうと一台の箱馬車が準備を整えており、そのそばに祖父の執事が控えていた。
「お待たせいたしました」
「よい大儀であった。では祖父上殿、どうかお体にお気をつけて」
「ははは。まだ殿下に心配されるような歳ではありませぬ。あぁ。そう言えば我が領地もジャガイモのおかげで発展して来たところで、まだまだやることが残っております故」
「あまり無理をしてくれるな――。と、言いたいが、無用そうで安心した。しかし、東方でもジャガイモが育つのか」
「えぇ。内政に一家言ある第一帝子殿下が発見された麦に変わる糧秣であると、領内で栽培を奨励しているのです。
帝都で出回り出した頃に買い付けて栽培させておるので……。そうですな、もう三、四年になりますか。あれのおかげで所領はいよいよ賑わってきたものです。殿下も東方に帰られる際に種芋を帝都で買われては?」
「アレは連作が良くないと聞くが、大丈夫なのか?」
「確かに第一帝子殿下はそうおっしゃられましたが、しかしこのご時世、作っても作っても租税を取られてしまいますし、より実入りの良いジャガイモを作る者が多いようです。噂ではフリドリヒ公爵家は昨年から麦畑を潰してジャガイモ畑を増やす触れを出したとか」
「左様であったか……。考えておこう」
未練がましく長話になってしまった。
名残惜しい物を感じつつ箱馬車に乗り込み、デルソフ家を後にする。
がらがらとうるさく動き出す馬車に閉じこめられ、窓にかかったカーテンを閉める。
そもそも馬車というのはあまり好かない。やはり人馬一体となって野を駆ける方が気持ちの良いものだ。
まぁ東方に帰ればイヤでも馬に乗らねばならぬから贅沢な悩みなのかもしれない。
そう言えば帝族の嗜みとして初めて乗馬をしたあの日、内股の皮が剥がれるし、獣臭いしで散々泣いて侍従であったクラウスを困らせた事があったな。
……いや、別にクラウスの事を案じているつもりはないし、帝都に屋敷を構えるディートリッヒ家を見舞おうとも考えてはおらん。
しかし、己一人で立ち回るのに限界を感じているのは確かだ。
いや、ただ単に後押しが欲しいだけなのか?
待て、そもそも後押し云々で東方王に即位するなど言語道断ではないか? やはり母上が仰られた通り己で決めるべきでは――。
と、その時突然馬車が止まった。チラリとカーテンを開けてもそこは城などではなくただ暗いばかりの路地であるようだった。
そしてうなじをチリチリと焦がす殺気を感じ――。
箱馬車の扉が突然開け放たれる。
「【火炎よ】!!」
反射的に扉に向かって火炎魔法を打ち込み、その勢いのまま車外に転がり出す。
それと同時に火だるまになった賊を見咎め、周囲には短剣を手にした商人のような者達が五人ばかり――。
ハメられたか……。
「か弱き乙女に五人か。恥ずかしくないのか?」
だがもちろん誰も一言も発さずジリジリと包囲の輪を縮めてくる。
対してこちらの得物はスカートの中にかくしていたイチイの短杖のみ。魔法による攻撃のみが頼りだ。
詠唱を必要としない初級魔法なら連射は可能だが、相手はおそらく手練れだろう。誰かを犠牲に一撃――そんな事を考えているに違いない。
「く、フハハ。おもしろい。もっともこのアイネ・デル・サヴィオンの首は易々と落ちぬぞ。心して参れ!」
とは言え、だ……。
周囲は活気のない路地ばかり。救援もなにも無いだろう。
いささか油断が過ぎたな。
その時、一筋の矢が距離を詰めて来る男の一人に深々と突き刺さった。それも厚い胸板のど真ん中。
微妙に急所を外したその一撃に影は息苦しそうな悲鳴を上げる。それに他の影達も意識を一瞬だけ取られた。いや、正確に言えば仲間を狙撃した敵を探しているのか。だがどちらにしろ好機だ。
「【永遠に燃え続ける柴よ、我に力を貸し与え給え――炎よ】」
火炎のカーテンを周囲に展張しつつ、矢の突き刺さった男の脇を駆け抜ける。そうして闇夜への逃走劇が幕を開けた。
今回から初外伝です。時系列としては前章と同じくらいか、トロヌスでの決着がつきそうな頃です。
前章ではまったく出番の無かったアイネの活躍に乞うご期待!
それではご意見、ご感想をお待ちしております。




