春の妖気
十年間、この日を待っていた。
この日のために生きてきたと言っても過言ではないくらいに。
僕は、森林公園の中を歩いていた。この季節になると百を超える桜が一斉に開花し始め、見物客を圧巻させる。マスコミもわく。つまり、桜で有名な公園だ。
右手にはビールを入れたビニール袋。ときどき風で舞った桜の花びらが、その中へ吸い込まれるように入っていった。
花見客が多くなる季節だが、今はシートを広げて、大々的に騒いでいる人はいない。この公園の管理者によって、花見開きの日が決まっているからだ。それが明日。だから今日はまだ見物客とそれに扮装した場所取りの人、あとは目を光らせる警備員くらいだ。お祭りごとには危険が付きものだということがよくわかる。
先へ進み、小高い場所に出る。そこから見回すと世界が二つの色になる。空は当然青く、そして地面は綺麗な桃色だ。等間隔で植えられた桜だが、枝が広がり、隙間をなくしている。下からも上からも楽しめる。風が吹けば花びらが散り、さらに幻想的な世界になる。明日になれば、ここにも多くの人が訪れ、目を奪われるはずだ。
今日ここへ訪れたのは他でもない、同窓会のためだ。高校のときのクラスメイトが明日ここに集結する予定で、僕は、その下見に来たのだ。
僕だけじゃない。たしか、数人のクラスメイトも来るはずだ。このことは一週間前に、事前に連絡があった。
腕時計を見る。まだ待ち合わせの時間には早かった。
公園の最も高い位置に堂々とそびえ立つ一本の桜。反対側に回り、一瞬立ち止まる。それから息を吐き出し、どっしりと幹の下に座った。
景観は最高だが、ここまで来るのには、かなり体力を使う。入口から一番遠く、長い坂を歩かなければならない。
僕は深く息を吐き出した。社会人になってから、もともとなかった体力が、より減ったような気がする。もう限界だ……。
袋から缶ビールを取り出し、プルタブを引き、渇きを癒すために一口飲んだ。
体内に染みわたる感覚。
これが心地いい。
思わず、一缶飲み干してしまうほど。
誰が来るのだろう、と思考を巡らす。記憶を辿る。電話で聞いていた名前とクラスメイトの顔を思い出しながら、照合していく。顔と名前が一致するように、一人ずつ確かめる。卒業アルバムは貰っていなかった。
名前を一つ思い浮かべ、クラスメイトたちの顔と照らし合わせる。
違う。この組み合わせじゃない。
そう……、この名前の主はきみだ。
この作業には時間がかかった。その代わり、顔から名前を思い出せるまでになった。
十年前のあの教室も思い描ける。
卒業式の日まで僕が座っていた席も、そこから見える情景、聞こえる話し声、なにもかもを思い出せる。
どれも懐かしい。
大人になった今では、あの空間にいたことが不思議なように思える。
本当に高校生だったのか、
僕はあのクラスにいたのか。
たぶん、この感覚を持ったら、大人になった、ということなのだ。
それは、社会に染まった、と換言できる。
二つ目のビールを取り出し、一口飲んだ。
いつからビールを飲み始めたのか憶えていない。大学生のころだったか、もしくは就職して上司との付き合いからだったか。
アルコールが回ってきて、夢心地になってきた。
気持ちいい……。
幸せだ。
この瞬間が、最高だ。
できるのなら、
保存しておきたい。
記憶しておきたい。
いつでも味わえるように。
いつでも思い出せるように。
だけど、
それは、
叶わない。
保存もできないし、記憶もできない。
忘れてしまう。
忘れさせられてしまう。
だから、求める。
それが生きるということ。
空き缶が、五つほど転がり始め、ようやく気分が最高潮になった。
幹に手をかけながら、ゆっくりと立ち上がる。ぎりぎり支えがなくても立てる程度だ。
顔を上げ、ぶらさがる親友を見た。
待っていると言っていたのに、とんだ嘘つきだ。
いや、これも一つの待ち方なのかもしれない。
僕は親友が用意してくれた台に乗り、そして輪の作られたロープを掴む。
最高の景色だ。
最高の気分だ。
さて、親友が僕を待っていたように、僕も待つとしよう。
だけど、待ち人が来たとき、今の僕はもういない。
汚く、醜い社会にさようなら。
汚く、醜い社会に染まった僕にさようなら。
汚く、醜い社会を教えてくれたクラスメイトにさようなら。
台を蹴り、ロープが首に食い込む。
痛みはない。
なぜなら、僕は今、最高の気分だからだ。
ずっと待っている。
僕たちを苦しめたクラスメイトたちを。
あるいは、僕たちと同じ境遇の人を。
この桜の木の下で。
僕は待ち続ける。