滅びの呪文
学生が日々の生活の中で、危機を感じるのはどういうときであろうか。授業中にトイレが我慢できなくなったとき。駅前にたむろする不良の前を横切るとき。都市伝説だと思っていた赤い点数が目の前にあるとき。
私たちは結構な頻度で、こういった『小さな危機』に直面している。だがしかし、上記の事態は気の持ちようで解決できることも多い。素直にトイレに行きたいと言えばいい。堂々と通り過ぎればいい。甘んじて追試や補習に臨めばいい。案外、自分で感じるほど他者に意識されてはいないのだから。ただしテストは後日頑張りましょう、どうにもならない状況に発展しかねません。
問題は実害が降りかかるタイプの『避けられない危機』である。この場合危機を感じたら時すでに遅し、あとは裁きを待つだけとなる。つまり、私が何を言いたいのかというと、
「じゃあ二人組を―」
言わせねえぞおおお!ということである。
二人組以下略、言わずもがな滅びの呪文である。耐性を持つ者には全く効果がないが、環境適応能力によっては致命傷となりえる。目の前が真っ白になり、徐々に体温を奪われ、やがてボッチに至る。これが現代人の一部を恐怖に陥れていることは、もはや周知の事実であろう。既にボッチだからこそ致命的という指摘は受け付けない。
私は生まれ出でてからの17年間を総動員し、最悪のモデルケースとなる道を回避しなければならない。考えろ考えろ、感じてなどいられない。憎きあの教壇に立つ悪魔(大変な偏見である)に屈してはならない。光り輝く未来を創り上げる瞬間がやってきた。
「真田さん、二人組だって。面倒だけど頑張ろうね」
大体、軽々しい発言の前に考えてほしいものである。誰にかと問われれば、先程謂れのない侮蔑を受けた佐藤教員に他ならない。まず栄光あるわが白石高等学校2年4組、在籍人数37人、まぎれもなく奇数である。担任ならば把握してしかるべき情報であろう。机に空きはなく、当然ながら欠席者などいない。ここ2ヵ月ほど誰も休んでいない、健康優良児たちの巣窟となっている。
クラスで一番体調を崩しやすい田中君も健在だ。彼は季節の変わり目には必ずと言っていいほど風邪を引くのだが、何のイレギュラーか今年は秋の寒空の下でも体調を維持する秘策を手に入れたようである。おかげで二人組、いやここは敢えてツーマンセルと表現しようか、横文字ならばまだ大丈夫、戦える。話が逸れたが、ツーマンセルではカバーしきれない人員が発生してしまう。
「じゃあ先に机合わせておくから」
クラスのみんなも薄情ではなかろうか。見て見ぬふりをして、ここに私というボッチ候補がいるではないか。湯笠君、なぜ君は彼女である柊さんとの共同作業に和気藹々と勤しんでいるのか。三上さん、なぜあなたは漫研の吉田さんと共に、男子の二人組を食い入るような目つきで見つめているのか。
リア充、許すまじ!
「真樹、いい加減にしなよ。島田さんが待ってるのに」
「ちょっと待って、まだ対抗呪文唱えてるから。ここが瀬戸際だから」
どこからか私に対する罵詈雑言が聞こえるが無視する。
やはり、もう別の選択肢はないようである。一通り教室を見渡した後、私はゆっくりと立ち上がり、
「あれ、私の机がないではないか」
椅子しかない。これで椅子もなければ完璧なマジックなのだが。せっかく掃除の時にもわかりやすいようにと、特製のアートを施してあげたというのに。そういえば二人組は机を揃えている。その中に一つ空きがあるではないか、世紀の大発見である。しかもあの模様は間違えようがない、使い慣れた私のものである。所有権は学校に属しているが、私の方が愛情を持って接していることは疑いあるまい。よくよく確認すれば、私の机の向かいには委員長の島田さんが座っている。なぜ?
島田さんは見つめる私に気付くと優雅に手招きしてきた。普段の凛とした佇まいからは想像しにくい、見るものすべてを魅了する微笑みを浮かべながらである。その誘惑に耐え切れずふらふらと吸い寄せられる私。その道中で私は己のなすべきことを思い出し、そこそこの意志の強さで踏みとどまる。そして、クラスの端へと目を向ける。
「秋津さんも一緒に行こうよ。そして私の代わりに、静香から怒られてくれたまえ」
静香とはそれなりの仲のはずだが、どうも知らないうちに刺激してしまったらしい。厳しい態度でこちらを睨んでいる。憮然としている、とも言いかえられそうである。ひい、島田さんと結託して私をどうするつもりだ。
その点、秋津さんはおとなしい。そそくさと必要な教材を持って立ち上がり、無言のまま私の隣に並んでくる。椅子を忘れたらしく、慌てて机まで戻る姿も愛おしいというものである。素朴な雰囲気のある彼女が、今度はしっかりと椅子を持って近づいてくる。
「いつもありがとう、真田さん」
並びざまに感謝されたが、はて私が何をしたのであろうか。不可思議な彼女に笑いかけ、島田さんと静香のもとへと向かっていく。なぜか晴れやかな気分だ。
しまった、椅子を忘れた。