異常な思考回路
九条冬弥は考える。どうすれば彼女を自分のものに出来るのかを。
彼女、八馬夏奈は彼から見ればお人よしの世話焼き。俗にいうおせっかいなのかもしれないが、彼女の場合はそれがすべて人のためだ。やられているものは感じ取るのだろう。素直に尊敬してしまう。
可もなく不可もなく平凡。それが彼女の言葉だ。彼女が発した言葉を、九条は覚えている。彼女の声で紡がれた言葉は決して聞き漏らしてはダメなのだと、そう思っている。
異常な執着。彼のこの思考を聞いたものはそう言うだろう。しかし彼はそうは思わない。自分は彼女の為だけにし存在して、彼女は自分のために存在する。彼女の姿を見たときから、この無価値な世界が途端に価値のあるものに見えてしまった。だから自分の世界は彼女中心に回っているのだ。
そう思っていた。なのに、このざまだ。
彼女の親友と名乗る少女は置いておこう。利用はできる。彼女の幸せが一番らしい少女は、一番無害で一番邪魔な存在だが…それは置いておいた方がいい。自身の幼なじみも置いておこう。幼なじみは少女の方に気がいっているから。
問題は彼女の知り合いである風紀委員長だ。なぜあいつは彼女の隣にいる、彼女と笑っている、彼女に触れている。憎たらしい、そう思う。頭の中にその情景が浮かびあがり、九条は舌打ちをする。家の中でよかった、ナツに見られたら幻滅される。場違いなことを考えて安堵の息を漏らした。
今の彼は何よりも、八馬夏奈に嫌われることを恐れた。そばにいてほしい、離れないでほしい。孤独な心に彼女はまさに癒しだ。ぽっかりと空いた穴をふさぐ役割ではなく、自身の存在意義を示してくれる誰よりも大事で、大切で、愛している人。
ナツ、ああ、愛してる、誰よりも、何よりも。笑い声を漏らして彼は思った。口には出さない。言っても意味がないからだ。無駄なことはしない主義である。
「ああ、冬弥。帰ってたんだ」
「…やあ姉さん。仕事が終わったのかい?」
「そうだねえ、一応。あんたさ、また好きな子に迷惑かけたの? 不器用だねえ」
リビングと廊下を繋ぐ扉を開けて入ってきたのは、だらしない恰好をした女。九条冬弥の実姉である。自分と同じ、めんどくさがりやな姉は少女漫画家だ。しかも今有名になっている人物だ。姉には彼氏の存在がいるのだが、こんな姿見せられないだろうな。思って以前口にしたことがあるが、相手は家庭的な男性らしい。自分は家庭的な子を見つけろと言われた。
閑話休題。
そんな姉はぼさぼさに跳ね上がったボブの髪をくしゃくしゃとかく。何も知らないくせに、そう小さく呟けば聞こえていたのか姉は豪快に笑った。
「そうだね、そうかもしれない。でもわたしは弟の恋を応援したいだけなのさ。ただそれだけ」
紙パックの牛乳をコップに注ぎ、一気に飲み干す。風呂上りのおっさんみたいな姉に、彼氏に逃げられそうだと思った。性格は治らない――自分の思考がこうであるように。
九条は睨みつけるかのように姉を見る。
「嫌われたらダメなんだ。彼女に嫌われたら、僕はもう生きていられない。慎重にしないと、彼女に嫌われてしまう。姉さんにはこの気持ちがわからないだろうね」
乱暴に開け放たれた扉から自室へ向かうため、荒々しく扉を閉めた。
怒らせちゃったなあ。姉はしみじみと思い、ため息を吐く。これは不器用どころの話じゃない。それを知っている。――自分に、似ているから。でもそれ以上にあの人に似ていた。相手を囲うように落し、洗脳するかのように愛をささやいた。やはり家族だから、似ている。
「お父さんに似てきたな」
彼女の方、無事だといいけど。異常な愛はそのままだ。誰にも止められない。
数年前に母と心中自殺した父と、同じ結末だけはやめてほしいと願った。
**
自室の寝台へと倒れこむ。柔らかな感触に少しだけ安堵し、悲しくもなった。彼女がいない時間が虚しく、無駄だと感じる。一分一秒でも彼女とともにいたいだけなのに。姉は何もわかっていない。
九条はゆっくりと起き上がり、一枚の紙を撫でる。写真。それをいとおしそうに撫で、優しく手に取った。
「…ナツ、愛してる」
かすかな明かりで見える、彼女の写真。目線はあっていない。盗撮、隠れて撮っていたものだ。彼女に会えない日がとても辛い。何よりもつらい。彼女がいれば自分は何でもできる。痛みも、辛さも感じないとさえ考えている、思っている。異常な思想。自分でもわかってはいるけれどやめられない。知られたら、嫌われるだろうと頭の片隅で考えてはいるが。
明かりで見にくい。顔をあからさまにしかめた彼は、部屋の電気をつける。カーテンは閉めた。否、閉めなければならない部屋だ。
壁一面に張られた写真。すべて同じ人物だけをとらえている。八馬夏奈。九条の愛する人であり、九条の世界を形成する人。彼女に会っていなければ自殺するかもしれなかった、そんな彼を救ったのだ。
彼の視界に、一度入っただけで。彼女は知らないだろう。彼がこんなにも愛しているのを、一目ぼれということなのだと――異常な愛を持っているのだと。知る必要はない、彼女はただ自分のそばに在るべきだ。僕の存在を許してくれているんだ。
だから、彼女に近付く風紀委員長は消さなければならない。精神的に痛めつけて転校させてやろうか、殺しは犯罪だから駄目だ、事故を装って…ばれたらだめだ。ああ、どうしよう。あいつは邪魔だ、消さないと、僕とナツの世界に入ってくる邪魔者だ。早く、早く消さないと。
「…あっはは…ねえ、ナツ、ナツは僕のだよね。あいつなんかいらないよね」
暗く深い目。前髪で隠れた藍錆色の目が、暗くなってきている。狂っている、誰もがそう思う目つきをして、九条は笑い声を上げた。笑い声の合間に紡がれる彼女の名前。大事そうに紡がれる。
ゆっくりと腕を、手を伸ばす。指先は彼女の映る写真。目線は向いていないが、彼にはこれで十分だった。恍惚とした笑みを浮かべる。写真の彼女の頬をなぞる。本物に触れたい。そんな欲はあるものの、そんな大層なものは願わない。願ってしまえば後戻りはできない。ああ、これだけで十分だ。
「殺してしまいたい。でもナツは人殺しの恋人なんか嫌だよね。わかってるよ、大丈夫。やらない、ナツがそう望んでいるならやらない。だから嫌わないで、嫌わないで、僕のそばにいて、お願いだから、」
子供のようだ。冷静な思考でそう感じた。でも自分には彼女しかいないのだ。幼なじみは必要ない。彼女さえいれば自分の世界は成り立つ。おおよそ、彼の父親も同様のことを考えていただろう。家族とは似るものだ。姉は運よく母にだったから免れたが、九条は母と父の性格を調和せずに父の性格に似たらしい。なんと皮肉なことだ、姉がいたらこう思うだろう。
九条は写真に写る彼女を見て静かに涙を流した。不安だらけの彼を受け止めてくれない無機物は、酷く現実を突き付けてくる。現実に、彼女は自分に恋情を抱いていない可能性があるのを、彼は知っている。
今は友人という地位を守り抜かなければならない。誰にも奪われないようにしなければならない。これは今彼が持っている、彼女の隣にいるための権利なのだから。
だからナツ、
「愛して、僕は誰よりも君を愛しているから」
誰にも渡されないように、閉じ込めてしまいたい。
九条は己を抱きしめてうずくまる。この空虚感はいまだ満たされない。彼女と話した時だけ、彼女に会った時だけ、彼女に触れた時だけ。自分を満たしてくれるのは、ナツしかいないのだと。
涙を流しながら、九条は眠りについた。
第一幕終了、ということになります。




