8
由美の退社前に、三人は一旦顔を合わせた。それぞれ今日の報告をするためだ。御子はなるべく余計な事は言わずに、こてつ組長が子犬の事で不快感を感じていることだけを伝えた。いや、伝えようとした。
「奥様が子犬を飼おうとしていた事への報告不足を指摘されたけど、あの時はまさか、あのまま子犬を連れ帰るとは思っていなかったから。奥様のために子犬を飼う事を勧めておいたの」
御子は簡単に説明した。
「勧めたって事は、組長もホントは飼う気があるって事なの?」
礼似が聞き返してきた。
「そこまでは分からないけど」
言いかけた御子に、礼似が突っかかってきた。
「あんた、そのくらいの事なら、ちょっと組長の気持ちを覗けばよかったじゃない」
「言ったでしょ。私はそういう事はしないって」
思わず御子は言い返した。
「だって、それを知っておけば、八方丸く収まるじゃない。組長の気持ちをやわらげておけば、奥様も安心して子犬を飼えるし、奥様が子犬に気持ちをとられていれば、正直、私達も楽になる。襲ってくる連中にしたって、犬が二匹もいられたらやりにくくなるはずだから、私達が本当に神経をとがらせるのは、奥様が一人になる時だけ。この仕事だってずっとやりやすくなる。あんた、本当に私達に協力する気、あんの?」
礼似は疑わしそうな視線を向ける。
「あんただって、嘘はつかないって言ってたじゃない」
御子も、むっとして言い返す。
「たしかに嘘はつかないわ。でも、あんたが組長の気持ちを確認すれば、私がうまいこと言って組長の機嫌を良くするくらいは出来るわよ。このぐらいの駆け引き、当然でしょ?これは意外とこの仕事のキモになるかもしれないのに。土間、あんたはなんで黙ってんのよ。御子に言いたい事はないの?」
礼似は土間に水を向ける。
「別に。私達は奥様を守ればいいだけなんだから。人の家庭に首を突っ込む気はないわ。それに、こんな些細な事で疑ってたら、協力し合う事なんて出来ないじゃない。礼似って随分疑り深いのね」
そのつもりはなくても、土間は心の奥のハルオの事が引っ掛って、つい、御子をかばう口調になってしまう。反面、礼似には攻撃的な言葉を発してしまった。
「土間、あんた、何をそんなにこの女におびえてるの?否定したって駄目。あんたの態度には、ずっと御子におびえているのが見て取れた。時にはおもねってさえ、いるじゃない。御子も御子だわ。あんた、力を使わないんじゃなくて、使いたくないだけじゃない。あんた達の臆病風のせいで、こっちは余計な思いをさせられるのはまっぴらよ」
土間と御子は、痛い所を突かれてカチンと来た。なんでこの女にこんな事言われなきゃならないの?
「礼似、あんたこそ何よ、その態度。私達を疑うのは勝手だけど、もう少し、言葉に気をつけてもらいたいわ。あんた、一人でチームワークを乱してるんじゃないの。あんたが誰とも組めないって言うのが良く分かるわ。私だってあんたみたいなヤツと、好きで組んでる訳じゃないもの」
御子は言い返さずにはいられない。逆に、土間はますますむっつりと黙りこんでしまう。
「そんなの、こっちだって同じよ。お互い様だわ」
礼似もやり返す。
「とにかく、私は人の心は読まない。その上でこの仕事をやりきらなくちゃ、私にとっては意味が無いの。ここだけはどうにも通させてもらうわよ。あんたが何を言おうともね」
御子は礼似にそう、宣言した。
「私はそれでかまわないわよ。私だって、刀を持たないって言ったんだから」
土間はそう言って御子を支持した。
「じゃあ、勝手にすればいいわ。私、どこまで付き合えるか分からないわよ」
礼似は負け惜しみのように言う。
「少しは協調性も憶える事ね。この仕事にはそれぞれの組の未来がかかってるし」
御子も皮肉ないい方をした。
「……あんた達なら、うまくやれるかと思ったのに」
礼似はそう、ぼそりと言って背を向ける。意外な台詞に土間と御子は顔を見合わせた。
そんなやり取りの後なので、由美の退社後、今日は土間と御子が由美と同じバスに乗り、礼似は一人、バイクでその後を追っていた。その様子を見ながら、御子は、ずっと心の中にもやもやとしたものを抱えていた。
礼似のぼそりと言った言葉が、どうにも気にかかっている。あれは礼似の本音に思えて仕方がない。普通ならここでその言葉を信頼して、気持ちをぐっとやわらげることが出来るのだろう。実際、土間は礼似に対する視線が、あの言葉をきっかけに、やわらかくなったような気がする。土間は折り合いがつくかもしれない。
しかし自分は、これが一番困ることなのだが、その気になれば礼似の心を覗く事が出来る。さっきの言葉が本物かどうか知る事が出来るのだ。この誘惑は御子にとっていつも辛いものになる。
覗きたい。でも、覗きたくない。二つの思いが葛藤を呼ぶ。そんな事に悩まずに、礼似のつぶやいた言葉を信じて、自分がこの力におびえている事を認めればいいのだろうが、自分の弱点を語るには、それなりの勇気を持って心を開かなくてはならない。しかも、礼似の言葉を心から信じきらなくてはならない。
だが、自分は相手に心を開くことなく、礼似の心を覗く事が出来る。そんな事をすれば深い罪悪感と後悔に見舞われる事はこれまでの経験上、良く分かっているのに、それでも、この誘惑はいつでも付いて回ってしまう。
人って、騙されながら生きる方がある意味、楽なんだろう。礼似のように人をだまして生きていくのって、節度を守っていればそんなに悪いことじゃ無いのかもしれない。何故、礼似はああまで、嘘をつく事を嫌っているのだろう?
そんな事を考えているうちに、バスは由美の降りる停留所に着いてしまった。ここから、土間はこてつ家の近くに先回りし、御子はそのまま由美の後を追う手筈になっている。いつもならそのまま近くのスーパーに向かう由美だが、今日は犬達が気になるのか、真っ直ぐ自宅へと足を向けたようだ。少し、速足で歩いて行く。
これでは二手に分かれる必要はないので、土間と二人、適度な距離を保ちながら、由美の後をついて行く。
すると、一台の車が由美に近づいて来た。二人は思わず緊張して、由美に駆け寄ろうとした。すると、車の窓が開いて中の人物が由美に声をかける。
「由美、今帰りか?」
「あなた。今日は随分早いのね」
車の主はこてつ組長だった。二人は慌てて物陰に隠れる。夫婦の会話の邪魔をする訳に行かない。
「買い物に寄らなくていいのか?」
「今日はあり合わせのもので作るわ。子犬が心配だし。あなたこそこんなに早く帰って、仕事の方は大丈夫なの?」
「今日のところは都合をつけた。何か必要なら、買って来てやるが」
組長は妻の顔をうかがいながら聞く。
由美は意外そうな顔をすると、組長の顔をじっと見て、クスッと小さく笑う。
「大丈夫よ。一通りそろってるわ。私も乗っていい?早く帰りましょう。あなたも子犬が心配なんでしょう?」
「まあ、新しく家族になったんだからな。なあ、子犬の名前だが、こてつというのはどうだろう?」
「こてつ?」
「小さいのに、恐ろしい目にあっても、びくともしなかったのだろう?鉄のように心の強い子だ。だから、こてつはどうだろうかと思ったんだが」
「こてつ。うん、いい名前ね。気に入ったわ。こてつにしましょう」
由美は満面の笑みでこたえる。組長は一瞬だけ土間と御子に視線を送り、由美を車に乗せて、そのまま自宅へ車を走らせた。
「子犬問題は、解決したみたいねえ」
土間はため息交じりに言った。
「私達は振り回されただけか。夫婦喧嘩は犬も食わないとは、良く言ったもんね」
御子もあきれるように言った。
それからしばらく間を置いてから、礼似のバイクが組長の自宅の近くにやってきた。尾行を気づかれずに済ませるためと、自宅周辺の安全確認をかねて、礼似は近所を一回りして来たのだ。
「特に問題はないようよ。……何?どうかしたの?」
礼似は二人の様子を見て問いかけた。
「子犬、無事に飼うことに決まったみたい。さっき、組長が奥様と話してらしたわ」
土間は気の抜けた声で説明した。
「なあんだ。結局うまいこと治まったんだ。じゃあ、こっちはかなり手間が省けるわね。危ないのは散歩中と、通勤中ぐらいなものじゃない。仕事としてはうまくいきそうね。これならそろそろ私達も解放されるんじゃない?三人も首並べるほどの仕事じゃなさそうだわ」
礼似はやれやれとばかりに、大きく伸びをした。
「そうね。三人も必要なさそうね。礼似の望み通り、私に付き合う必要は無くなるわね」
御子も同意した。
「そうよ。あんた達もせいせいしたんじゃない?」
礼似は二人を見ながら言ったが、
「いいえ、私は残念。もっと、あんた達と居たかった」
御子の意外な言葉に礼似は目を丸くする。
「私ね、今やっと気付いたのよ。礼似、なんで私があんたに突っかかりたくなったのか。あんたが最初に嘘はつかないって言ったからだわ。心を覗かれてもかまわないって。実際、あんたはとうとう嘘はつかなかった。私達を疑う心も、認める心も、包み隠したりしなかった。だから私、安心しすぎたんだと思う。あんただって自分をさらけ出す以上、相当勇気が必要だったはずなのに、そこをすっかり忘れていたのよ」
「そんなのお互いさまよ。私も意地を張ってた。ホントは私、あんたに心を読まれたかったのよ」
「読まれたかった? なんで?」
今度は御子が驚いた。
「嘘なんてね、一度つきだすと際限がないの。嘘をごまかすために嘘を重ねる。それどころか、嘘がばれないようにするために、自分自身にも嘘をつく。暗示をかけるのよ。これは嘘じゃない、私にとって本当のことだってね。でも、そんな事を繰り返していると、本当の自分なんてどこかで忘れてきちゃうのよ。自分で自分が分からなくなる。だからあんたが千里眼だと聞いて、私、どこかで安心したの。忘れちゃった自分を、取り戻せるんじゃないかってね」
「私、嘘って、そんなに悪いものじゃないって思ってるけど?節度さえあれば」
「嘘に節度なんてないわ。一つ間違えば、何処までも続く泥沼よ」
礼似はやりきれない表情を浮かべた。
「そんなの、千里眼だって同じ。人の心なんて、一度覗けば次も覗きたくなる。そうしなければ人を信じられなくなる。しまいには、そんな自分が信じられなくなるのよ。なのに、そんな私に、あんたはあけすけで。すっかり安心しちゃったんだわ。私も自分を忘れていたのね。きっと」
すると、二人の会話の途中で、土間がクックと笑いだした。そして大きく息を突く。
「まったく! 私も何をビクついていたのかしらね? あんた達は、こんなにも本気でぶつかり合ってるって言うのに。そうよ、私、あんた達に脅えてたわ。御子の千里眼や、礼似のあけすけな態度で、私の心もさらけ出されるんじゃないかと思ってた。でも、もうそんなことかまわないわ。あんた達の性根が分かってさえいれば、あとはみんな、些細なことばかりだったんだわ。ああ、私もあんた達と離れるのが惜しくなったみたい」
「ええ。きっと三人とも性根は悪くないわ。それだけで十分よね?私も久しぶりに自分に自信を取り戻せた見たい」
礼似がすがすがしそうな顔をすると、他の二人もゆっくりと頷いて見せた。
「これも、組長夫妻の夫婦喧嘩のおかげね」
御子はクスッと笑いながら言う。
「あの二人だって、お互いのモトが分かっているから、すぐ、許しあえるんでしょ?」
礼似もほほ笑んでいる。
「あの子犬、組長夫妻だけじゃなく、私達も繋いでくれたのかもしれないわね」
土間は穏やかにそういった。
「私達は、三人で組んでから気がついたはずよ。人の本音にだって、色々あるって。おおもとの人間性が信頼できれば、多少、その時の気分に振り回されたって、たかだか知れているのよ。ちょっとぐらい、その場の本音が不快だったからって、脅える事は無いんだわ。知ってしまった本音よりも、それを飲みこんだり、受け入れたりしようと努力する、心の動きの方が、ずっと大事なのよ」
やや、手元が怪しくなってきた礼似に変わって、土間がグラスに酒を継いでやりながら言った。
「そうね、そうだったわね。御子は憶えているかしら?」
礼似がグラスの氷を見つめながら言う。
「忘れるもんですか。たとえ記憶の上で忘れてしまっていても、きっと今に思い出すわ。ああいう気持ちは忘れられるものじゃ、ないはずよ」
「そうよね。御子はそんなに、ヤワじゃないわよね。子供への心配ごとで一時的に困惑しているだけよね。まったく、千里眼なんか持ってると、何でも先読みして余計な心配するんだから!一人でグタグタ考えてるからいけないのよ。とっとと良平に白状すればよかったんだわ」
礼似はやや、いらついた態度を見せるが、
「あら、そんなの心配いらないわよ。きっと御子、今頃良平に白状してるわよ」
土間は自信ありげに言った。
「よく、分かるわね?」
「あんたが良平に話すって言った以上、観念したはずよ。どうせなら自分の口で話したいに決まってるじゃない。それに、あんたに話した事で、覚悟も決まったはず。あの二人の事だもの、きちんと話し合えばちゃんといい解決の仕方をするに決まってるわ」
「それもそうねえって、ちょっと、土間!」
礼似は酔いからさめたように声をあげる。
「なに?」
「それじゃ、あんた、御子の事をあおらせるために、私を差し向けたんじゃないの!」
「あら、私、あんたにあおれなんて一言も言ってないわよ。御子の悩みを聞きだして、私の伝言を伝えるように頼んだだけ。あんたが勝手にカッカして、御子をあおっただけよ」
土間はのんびりと返事を返すが、おそらく予想がついていたのはその顔色を見れば分かる。さっきも言っていた。御子は私相手の方がボロが出やすいって。
「あんたって、人を利用するのがトコトンうまいわね」
礼似はあきれ気味に言った。
「だてに、経営者や、組長なんてやってないわよ。言ったでしょ?あんた達は特別なんだって」
「特別ねえ。私達は三人とも、因果な組み合わせだとは思うけど?あんたこそ、人を手駒のように利用してないで、御子に正面からぶつかったら?御子も言ってるじゃない。自分で聞きにきなって」
「御子らしいわね。そうね、聞きに行かなくちゃ。でも、行ったらもう、解決してるでしょうね。どうせ御子の事だから、良平の本音を覗きそうでビクついているんでしょうけど、そのくらいの事で、良平がうろたえるもんですか。御子も分かってるはずなのに、自分が生みの親を知らないものだから、変に脅えているんだわ。すぐに分かることなのに。血は水よりも濃いって」
「そうよねえ。あんただって、ハルオをずっと見守ってたんだものねえ」
「分かってんじゃない。ね、私も一杯もらうわ。乾杯しない?」
土間は自分のグラスを用意する。
「何に?」
「勿論、御子と良平に。それから」
「生まれて来る、子供にもね」
二人のグラスが合わせられると、チン、と、小いきのいい音が鳴った。