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「まったく、あの時はあんたの度胸の良さに舌を巻いたもんよ。こてつ組の組長室で、周りはよく知らない組員だらけ。そのど真ん中で、ああも自分をさらけ出せる人間がいるなんて、思いもしなかったから」
土間は懐かしそうに話しながら、出されたお茶をすすっていた。
「あら、そういう土間だってたいしたものじゃない。あの場で刀は持たないって宣言したんだから。これからこてつ組のために働かなきゃならないって、分かっている場所だったのに。いい度胸だわ」
自分だけ特別扱いされて、礼似は言い返してきた。
「最初にはっきり宣言しておいた方がいいと思ったのよ。それなりの自信はあったし。でも、あの時あんたが、御子に心をごまかす気はないって言ったのは、結局正解だったわね。あれで御子が感じ取った安心感は、相当大きかったはずだから。私じゃハルオの事が引っ掛っていて、あんな台詞は出なかったわ」
「私だって組む相手があんた達で心強かったわよ。御子には嘘をつく必要はないし、土間なら私の暴走を止められる。なんの躊躇も必要が無かったんだから」
礼似も今ならさらりと本音が言える。
「だから、あんたと御子は特別なのよ。あんたは嘘をつかなけりゃ生きていけなかった事に、ほとほとうんざりしていたみたいだったし、御子は、自分の能力に罪悪感をずっと持っていたみたいだし。それが、あの時二人とも直感したんでしょう。この相手なら、自分達は呪縛から解き放たれるって」
「大げさに言うわね」
礼似が思わず笑った。
「大げさなんかじゃないわ。私は女になる事で、自分の呪縛から逃れる事が出来た。でも、あんた達はそうはいかない。特に御子は、自分じゃ絶対に逃れようがない能力を持っている。人って、自分さえも無意識のうちにごまかさずにはいられない程、キレイな生き物じゃないわ。そんな所を何度も見てしまっていたら、普通なら人間不信どころか、自分自身にも不信感を抱くでしょうね。御子は、真柴組にずっといたからこそ、生きてこられた。でも、組の外の人間にかかわるのは、相当プレッシャーだったはず。だけど、あの場で出会ったのは礼似、あんただった」
「土間もいたじゃない」
礼似は笑うのをやめている。
「私はダメ。あの時はハルオの事で頭がいっぱいだったし、そのせいで御子に脅えていた。出会ったのが私ひとりだったら、御子は潰れていたかもしれない。礼似、あんたがいたからこそ、私達は組む事が出来たの。あんた達二人は、特別な組み合わせなのよ。御子が良平に言えない事があるのなら、話す事が出来る相手は礼似、あんたしかいないわ。」
土間は湯飲みをもてあそびながら、お茶を見つめている。
「分かったわ。私が御子に、問いただしてみる。一人で悩ませておくのも、なんだしね。でも、本当に誰にも言えないことだってあるから、言ってくれるとは限らないけど」
「かまわないわ。私達はいつでも御子の話を聞く気があるって事が、伝わればいいんだから」
そういって土間は一気にお茶を飲み干すと、立ち上がった。
「そろそろ行かなくちゃ。業者が来る時間に合わせないと」
そそくさと玄関に向かおうとする。
「土間」
礼似がその背中に声をかけた。
「何?」
土間が振り返る。
「御子、きっとあの時気づいていたわ。あんたが脅えているのは御子自身にじゃない。我が子を守り切りたいっていう、あんたの親心が、御子の能力に脅えていたんだってことに。だから私達は組めたのよ」
「それも御子に聞いといてよ。やっぱり、あんた達は特別だわ」
土間は笑って部屋を出ていった。
「でも、仕事そのものは複雑な事はないわね。単純に女性を一人、警護すればいいんだから」
組長室から出た直後、こてつ組長から渡された資料に目を通しながら、土間は言った。
「そう、一筋縄でいくかしら? 知ってる? 前にこの仕事をしていたこてつ組の組員達、次々と入院しているのよ」
礼似がそっと声をひそめていった。
「ええ? だって堅気の暮らしをしている女を守るだけでしょう? なんでそんな事になるのよ」
御子が驚く。
「それはこれから私達で体験できるでしょ。仮にも街一番の組の長の妻なんだから、狙われているのなんてしょっちゅうだろうし、それを本人に気付かせるな、なんて無理な注文もついているんだから。結構、この仕事、ハードかもしれないわよ」
礼似は嫌な予言をした。三人はそれが当たるかもしれないと、漠然と感じてしまった。
案の定、この仕事は意外なほどハードだった。技術だけではない。体力的にもだ。
こてつ組長の妻、つまりは、由美の事なのだが、由美の日常はごく普通のオー・エルと変わりはなかった。
こてつ組長を送り出すと、いつもの時間、いつものバスで職場に向かい、いつもの席でデスクワークをする。
昼に持参した弁当を食べ、同僚達との会話を楽しみ、午後も同じ仕事を繰り返す。結構残業もあるようだが、だいたい似たような時間のバスで帰り、自宅に近いスーパーに寄って、似たような時間に帰宅する。ここまでは、どこにでもいる、共働きの主婦の日常だろう。
三人も毎朝同じバスに乗り、同じ道で由美を見守る。通勤時にいつも同じ顔ぶれがいるのは、決して不自然な事ではない。むしろたいていは、そうなるものだ。
職場内での由美を守るために、土間は由美の職場の清掃員として潜り込んだ。御子はパンの配達員として、昼時に毎日通う事にした。由美は昼食を持参しているので直接顔を合わせる事は殆んどないが、その方がかえって都合がよかった。下手に近づきすぎて、疑われても困るのだから。
その間、礼似は由美の職場に出入りする人間をチェックしていた。だいたいいつも、同じ人間ばかりが出入りしているので、変わった事があればすぐに分かるはずだ。
帰りは三人が入れ替わりであとをつける。誰か一人が同じバスに乗り、同じスーパーで買い物をして、由美が自宅に入るまでを見届ける。ここまでは、ごく普通の仕事だ。むしろ楽なくらいだった。
ところがこの由美という女性は、おっとりと見える、ややふっくらとした見た目とは対照的に、良く言えば、かなり活発で行動的、悪く言えば、じっとしていられない、落ち着きのない人物だった。
まず、朝が早い。それ自体は健康的で大変良い事なのだろうが、どうしても夜型に偏りがちな三人には結構つらいものがある。何せ、朝の早さが普通ではない。由美は愛犬を連れて、毎朝四時には散歩に出かけるのだ。
今は街中の生活は、どんどん夜型になっている。人の動きも、流れも、活発なのは日中から、夜中にかけてだ。
つまり、早朝こそが、都会の時間のエアポケット。人々が寝静まる、夜明け前のうす暗い星空の元、人の気配のない道は、下手な真夜中よりも物騒になってしまう。
そんな時間帯なので、この時は三人がかりで由美を見守る。土間は自転車で由美の周りを行きつ、戻りつし、礼似はジョギング姿で、由美と距離を計りながら走り続ける。御子はウォーキングスタイルで、由美の後ろにピッタリ着いて歩く。身体を動かしながら気も使うのも楽ではないが、さらに、由美の歩く距離にも悩まされた。
由美は「愛犬の健康のために」と、毎朝十キロ、かなりのハイペースで歩き続けるのだ。
うす暗い早朝、無防備で元気だけは有り余っている相手を守らなくてはならない。これは結構きつかったのだ。
しかも、予想通りに、由美の周りには怪しい人物が頻繁に現れた。それはそうだ。つけ狙う人間にしてみれば、こんなに無防備で絶好のカモなんて、ちょっと見あたるまい。
由美は誰にでも気さくに声をかける。自分と同じような早朝散歩らしき人物は勿論、ジョギング中の人、新聞配達員、牛乳配達員、早朝清掃員、朝帰りの酔っ払いや、怪しげなホームレスまで。
たいていは害のない人物だが、由美は常にこてつ組への敵対勢力に狙われる身の上。中には危険な人間も混じり込んでいる。しかし、由美は気付かない。
さっきすれ違ったはずの男が、また由美に近づこうとする。御子はスッと由美を追い越して、男の足を引っ掛ける。
「あら?大丈夫ですか?」
助け起こすようなしぐさで、手の中のナイフを奪い取り、そのままその刃を首筋に充てる。
「騒ぐんじゃないわよ」
小声でそういいながら、由美の死角に男を連れていき
「命が惜しかったら、さっさといきな」
と、男を突き飛ばす。男は慌てて逃げていった。
「へえ。鮮やかな腕前ね。よく、うまいこと足をひっかけられたこと」
土間が目を丸めた。相手だってプロなのだ。
「これが私の千里眼の使い方。相手の動きが細かいところまで先読みできるの。どんな相手でも直後に起こす行動が完全に分かっていれば、たいていの事は何とかなるのよ」
御子は自信ありげに笑う。
その直後に今度は酔っ払いがふらふらと、由美の方に近づいていく。由美の目前にくると、ふらついていた足取りが急に変わった。しかしそこで礼似が男を捕まえてしまった。
「まあ、顔色が悪い。呑み過ぎで気分が悪いんでしょう?頭を冷やした方がいいわ」
そういいながら、腕をまわして後ろで関節を決めてしまう。相手は声も出ない。
由美が去っていくのを確認すると、手刀で一撃。相手をのしてしまった。
「腕がいいのは詐欺だけじゃなさそうね」
今度は御子が感心した。
「私はもともと、腕っ節にも自信があるの。喧嘩の場数じゃ、人に引けを取らないわよ」
礼似も変に自慢げだ。
すると今度は土間、礼似、御子を、男達が取り囲んだ。三人が護衛している事に気づいたようだ。
「今度は束で来たって訳?」
土間はそう言って、自転車のサドルの中から、木刀を(!)引き抜いた。
礼似や御子が、動く暇もないうちに、土間は次々と木刀を男達にたたきつけ、全員、あっという間に倒れてしまった。
「木刀だからって、舐めんじゃないわよ。本気で急所を突けば、人だって殺せるんだからね。そんな真似、する気もないけど」
土間がふふん、と、鼻でせせら笑った。
「どうやら、三人とも、それなりの腕っ節はあるみたいね」
礼似の言葉に、他の二人も認めあった。
逆にいえば、これほどの腕前が無ければ、この護衛はこなしきるのが難しい仕事という訳だ。どうりでこてつ組の組員達が、次々と病院送りにされた訳である。
そんな事には一切気づくことなく、由美は愛犬とともに、機嫌よく散歩を終えた。
「さあてと。早く帰ってお弁当、作らなくちゃ」
鼻歌交じりで自宅の中へと入っていく。
周りでこれだけバタバタとしても、なんの違和感も感じることなく、いつも通りの様子の由美に、三人は、今、自分達の起こした事も忘れて、驚き、あきれてしまった。
精神力(というか、鈍感力?)では、この、こてつ組長夫人が、一番のツワモノかもしれない。三人は由美の背中を見ながら、しみじみとそう、考えてしまっていた。