缶コーヒーの体感温度
都会の片隅で繰り広げられたであろう小さな攻防。【手】と【指】をモチーフにしたお話です。
「お疲れ様」
耳に馴染んだ声と共に視界の隅に現われたものは、机の上に置かれた缶コーヒー。
そして、そこから伸びる長い指先。
揺らぎ始めた空気に微かな煙草の匂いが混じった。
「ありがとうございます」
モニター画面に集中したまま、無意識に手を伸ばして捕らえたものは、やけに熱を持った無機質なスチールではなく、適度な温もりのある指先だった。
「あ、すいません」
その温かさに何故か驚いて、瞬時に手を放した積りが、逆に握り返されていた。
「あ、あの?」
そこでやっと机に浅く腰掛けた人物と視線が交差する。
「……冷たいな」
独り言のような小さな呟きに、指先を両の掌で合わせるように包まれて、その突然の行為に対する意図を測りかねた。
「そうですか? 冬場はいつもこの位ですよ」
『手の冷たい人は、心の温かい人』
いつだったか、子供の頃に流布した文句は、非科学的で実に他愛ないものだった。だが、それを根拠にこの差し出された体温の温かさに違和感を覚えたのも事実だった。
そんなことを真剣に考える自分もどうかしている。
「もう、平気ですから」
まだ、自分の手は、あの長い指の間に捕らわれている。
じりじりと侵食されてゆく熱。熱伝導の悪い素材に、白血球が細菌を飲み込んでゆく顕微鏡映像が重なる。
このままの状態だとやがて不規則に跳ねあがった鼓動までもが、伝わってしまいそうだった。全身の血液が、早鐘に乗ってぐるぐると巡っている。その音を感づかれる訳にはいかなかった。
飲み込まれてはいけない。
捕食者と被捕食者の関係とは程遠い。
指先は、まだ、少し離れた温かい他人の体温の中。
それは、甘美な罠。退廃的な牢獄に似て、そこに落ちる自分を夢想するには危険過ぎた。
そっと息を吹きかけられて、探るような眼差しと出会う。
小さく溜息をついてみた。気を紛らわすように。
「……人が困っているのを。楽しんでいますよね。全く、意地が悪いですよ」
そんなことは重々承知だった。
だが、生憎とそれを無言のまま諾々と受け入れるほど、心の広い人間ではない。勿論、相手もそれを分かっている。
これは、つまり遊びの一種。少々際どい感のある、性質の悪い冗談なのだ。
それに乗るも乗らぬも自分次第。
選択権は、常にこちら側にあった。
手は預けたまま。わざとらしくそっぽを向く。
さあ、次の出方は?
その隙に、柔らかく湿ったものが纏わりつく感覚がして、体が竦んだ。
どうやら相手は一枚上手だった。
見上げた先にあったのは―――ゆっくりと食まれてゆく自分の指。
輪郭をなぞるように舌を這わされて、指先に伝わる感覚よりも、その光景の居たたまれなさにきつく目を閉じた。
「そうだな」
余裕ぶった吐息が手の甲を掠めた。
「だが、いつでも振り解けるだろ?」
要するに―――お前次第だ―――と。
少しの力加減で、この均衡は崩れる。
この状況を継続させているのは一人ではないのだと。
貴方は―――ずるい人だ。
喉まで出かかった言葉をいつものように飲み込む。
「折角のコーヒー、冷めてしまいますね」
視線の先には、満更でもない言い訳。
「猫舌にはこの位がちょうどいいだろう?」
「そうですね」
相手のペースに乗せられるのはいつものことだ。
空いていたもう片方の手を缶に伸ばす。
指先に触れた小さなスチール缶は、まだ暖かかった。
軽く中身を振って、発散する熱を首元に持って行く。
頚動脈の辺り、自刃するときの角度だ。
じわじわとした温もりが心地よかった。目を閉じて、ゆっくりと息を吐き出した。
中は、もう温くなっているだろう。
それを肯定するかのように、少し先の気が揺らぐ。
手の甲にそっと羽のような口付けが落された。それを合図にゆっくりと解放されてゆく右手。
唾液に光るその指は、この体と繋がっているはずであるのに、自分の所有物ではないような気がした。
それを確めようと、広いフロア、1箇所だけ点いている電光にこの手をかざしてみた。
ここまで読んでくださってありがとうございました。単なるフェチズムと言ってしまえば身も蓋もありませんが……。