第九章 汐騒と手紙
その日、海は朝から少し荒れていた。
荒れる、と言っても外海のように大きく波立つわけではない。瀬戸内の海は、機嫌を悪くしてもどこか内向きだ。水面に細かい皺が立ち、岸壁の縁で波が短く砕け、船の腹を打つ音がいつもより乾いて聞こえる。そのささやかな不機嫌さが、かえって人の暮らしに近かった。台風のようにすべてを奪うのではなく、ほんの少し予定を狂わせ、時間の噛み合わせをずらす。父と澄江と千紘のあいだにあったのも、最初はきっとそういう小さなずれだったのだろうと、湊は港を見ながら思った。
朝食のあと、汐里は蔵の前で古い箱を広げていた。
このところ、宿の仕事の合間に少しずつ整理を進めている。片づけというより、過去と現在のあいだにある薄い扉を、一枚ずつ開いていく作業に近かった。
「今日は風が強いですね」
湊が言うと、汐里は箱の中の封筒を押さえながら頷いた。
「船が少し遅れるかもしれません」
「こんな日でも?」
「こんな日だから、です。大きく崩れないぶん、みんな“何とかなる”と思うから」
その言い方に、八月の空白の気配があった。
何とかなる。
帰る便がある。
すぐ戻る。
その軽い見込みの積み重ねが、誰かを待たせたままにする。
箱の底から、細い紐でくくった手紙の束が出てきた。
封筒はどれも黄ばんでいて、糊はすでに乾いて剥がれかけている。宛名のないもの、あるもの、途中で破かれたもの。汐里はしばらく迷っていたが、やがてそのうちの一通をそっと開いた。
「字が……あなたのお父さんに似てます」
彼女の声は低かった。
湊は隣に腰を下ろした。
便箋は二枚。父の字だった。見慣れた、几帳面で少しだけ右上がりの筆跡。だが仕事のメモやノートに残っていたものより、筆圧が弱い。慎重に書き始めて、途中から迷いが混じったような字だ。
宛名は、三崎澄江。
湊は喉の奥が締まるのを感じた。
父は、澄江に手紙を書いていた。
しかも、それがこの宿の蔵に残っている。
汐里は一度だけ目を閉じ、それから読み上げるでもなく、二人で便箋を見下ろした。
――突然こんなものを書いても迷惑だろうと思う。
――それでも、言わずにいると、何もなかったように時が過ぎてしまう気がした。
――あの夏のあと、あなたに何を言えばよかったのか、今でも分からない。
――千紘のことを、私は探しているというより、探し続けていないといけないのだと思う。
――自分だけが遠くへ行ったような気がしている。
――あの場所に残った時間を、誰かが引き受けなければならないのに、私にはまだその言葉がない。
汐里の指先が、便箋の端で止まった。
父はここで筆を置いたのか、それとも二枚目へ続ける気力を失ったのか。二枚目の半分ほどまでは空白で、最後にごく小さくこうあった。
――もし会えるなら、春口で。
「出していないんですね」
湊が言うと、汐里は「たぶん」と答えた。
「母のもとへ届いていない。届いていたら、母の手記にもっと違う書き方が残ってる気がする」
その通りかもしれない、と湊は思った。
手紙が届いていれば、澄江は返事を書いたかもしれない。あるいは会ったかもしれない。けれど父の手紙は蔵の箱の中にあり、澄江の手記には「また春口駅で見た」としかない。父は会おうとしたが、会えなかった。あるいは、会う覚悟が最後まで持てなかった。
「まだあります」
汐里が、束の中からもう一通を取り出す。
こちらは封が切られておらず、宛名もない。だが開いてみると、やはり父の字だった。今度は下書きらしい。文章はさらに断片的で、書き直しの跡がいくつもある。
――あなたを責めているのではない。
――私もあの場にいた。
――“すぐ戻る”と言った声が誰のものだったか、今も分からない。
――だが、あの言葉に私は逆らわなかった。
――千紘は怒らなかった。
――そのことが、ずっと胸に残っている。
汐里が静かに息を吐いた。
怒らなかった。
澄江の手記にあった一文とぴたりと重なる。
「父は、お母さんを責めたかったわけじゃない」
湊が言う。
「自分も同じ場所にいたから」
「ええ」
汐里は頷いた。
「母も、あなたのお父さんだけを責められなかったんでしょうね」
二人のあいだに落ちたのは、怒りではなく、もっと扱いにくい感情だった。
誰か一人の過失なら、まだ物語として整理できる。
けれど実際には、混乱のなかでそれぞれが少しずつ判断を誤り、少しずつ軽く見て、少しずつ相手任せにしたのだろう。だからこそ、誰も完全には赦されず、誰も完全には責めきれない。
昼前、汐里は縁側でその手紙をもう一度読み返していた。
風が強く、庭のオリーブの葉が裏返っている。海のほうから断続的に波の音が聞こえる。いつもの穏やかな瀬戸内ではない。けれどこの程度の崩れ方こそが、この土地の厄介さなのかもしれなかった。全部を止めるほどではないから、人はつい動いてしまう。つい「まだ大丈夫」と思う。
「母の気持ちが、少し分かる気がします」
汐里が言った。
「何がですか」
「怒りたいのに怒りきれないことです」
湊は黙って続きを待った。
「子どものころ、母が亡くなったことに対して、私は誰に怒ればいいのか分からなかったんです。病気なら病気で、運命みたいに言われるでしょう。でも、ほんとうは病気になる前から何かを抱えていたのかもしれない。抱えたまま誰にも言えなかったのかもしれない。そう思うと、医者や病気だけじゃなくて、もっと手前の、言葉にならなかった時間にも怒りたくなる。でもそれって、相手がいないじゃないですか」
「いますよ」
湊は言った。
「いるけど、形がない」
「そう、それです」
風が縁側の簾を揺らした。
汐里は膝の上の手紙を見たまま続ける。
「あなたのお父さんにも、母にも、その“形のない責任”があったのかもしれない」
「父もきっと、そうだったと思います」
「だから家庭で黙っていた」
「ええ」
湊は自分の父を思った。
夕食時に必要なことだけを話し、休日は黙って新聞を読み、たまに電車で少し遠い町へ行っては何も言わずに帰ってきた人。あの沈黙の大半を、自分は性格だと思っていた。けれど違ったのかもしれない。父は、話さないことで自分を守っていたのではなく、話せば崩れてしまう何かを持ちこたえていただけなのではないか。
午後、湊は一人で春口駅へ向かった。
誰かに会う約束があったわけではない。
ただ、父の手紙を読んだあとで、あの待合室に行かずにはいられなかった。
赤い屋根の下は、昼の光でも少し薄暗かった。
長椅子に腰を下ろすと、木の表面に残った古い傷が目に入る。誰かが硬い荷物を置いた跡、子どもが靴で蹴った跡、長年の手垢で艶を持った縁。待合室とは、通過する人たちの身体がほんの少しだけ重なる場所だ。ほんの数分、十数分、長くても一時間。だがその短さゆえに、言えなかったことや、飲み込んだことが残る。
湊は父の手紙の文を思い返した。
自分だけが遠くへ行ったような気がしている。
あの場所に残った時間を、誰かが引き受けなければならない。
その言葉には、後悔だけでなく、ある種の義務感があった。父は千紘を探すことを、感傷ではなく負債として抱えたのだろう。見つけられるかどうかとは別に、探し続けることでしか自分の時間を進められなかった。
扉の鈴が鳴った。
振り向くと、藤堂元駅長が立っていた。
「おると思った」
老人は言った。
「顔が、待合室の顔になっとる」
意味の分からないような、分かるような言い方だった。
藤堂は隣に腰を下ろし、帽子を膝に置く。
「また何か出たか」
「父の手紙が」
「誰宛て」
「三崎澄江さんです」
「……そうか」
老人はそれだけ言って、しばらく黙った。
やがて、低い声で続ける。
「あの二人は、会うべきやったのかもしれんな」
「会っていなかった?」
「春口駅で顔を見ることはあったろう。じゃが、ちゃんと座って話した形跡は、少なくともわしの知るかぎりない」
「どうして」
「話したら、あの日のことを誰かが一つの形にせなならんからや。けど、あれは一人で背負えるような話やなかった」
湊は父の下書きにあった一文を思い出す。
あなたを責めているのではない。私もあの場にいた。
父は、会えばそれを言うつもりだったのだろうか。
それとも、最初から言えないと分かっていたから手紙だけが残ったのか。
「千紘は、見つからなかったんでしょうか」
湊が訊くと、藤堂は目を細めた。
「見つかった、という言い方が何を指すかやな」
「生きていたか、亡くなっていたか」
「記録としては何もはっきりせん」
「記録としては?」
「人の話はいろいろある。島へ渡ったはずや、いや本土側におった、親戚に引き取られた、海に落ちた、どれも決め手がない」
「父は?」
「亮介さんは、そういう噂を全部集めとった。じゃが最後は、行方そのものより、“なぜ誰もその瞬間を見ていないのか”のほうを気にしとったように思う」
それは湊にも分かる気がした。
千紘がいなくなったこと以上に、誰もその瞬間を見ていないことが怖いのだ。
大人たちがそれぞれ別の用事や焦りや期待に気を取られ、ほんの一瞬だけ視線を外した。その隙間に、子どもの時間だけが落ちた。父はその「見ていなかった側」の一人であることを、ずっと許せなかったのだろう。
夕方、宿へ戻ると、汐里は帳場で母の小箱を開いたまま座っていた。
顔を上げると、どこか決意したような目をしている。
「もう一つ、見つけました」
「何を」
「母の書きかけの手紙です」
便箋は半分だけ埋まっていた。
宛名はない。だが文面から、それが父宛てであることは明らかだった。
――あなたが春口へ来るたび、私は駅へ行ってしまう。
――会いたいのか、会いたくないのか、自分でも分からない。
――千紘のことを、あなたが忘れないでいるのは分かる。
――でも、忘れないことだけでは、人は戻ってこない。
――それでも、忘れたふりをして生きることも、私にはできない。
そこで文は途切れていた。
最後の一行は途中で止まり、インクが少し滲んでいる。
澄江もまた、父と同じ場所にいたのだ。
忘れられない。
だが忘れないことだけでは人は戻らない。
その二つのあいだで立ち尽くしていた。
「似てますね」
湊が言うと、汐里はかすかに笑った。
「誰が」
「父とお母さん」
「そうですね。似ていて、だから会えなかったのかもしれない」
その言葉に、湊は返事ができなかった。
似た者同士は、傷の形まで似る。
同じものを見て、同じものを失い、同じ沈黙を抱えた者同士ほど、向き合うのが難しいこともある。
夜、風はさらに強くなった。
港のロープが鳴り、窓の外の木がざわめく。春口の海は見えないが、音だけで少し荒れているのが分かる。そんな夜、湊は部屋で父のノートと手紙の束を前に、長く考えた。
父は何をしたかったのか。
千紘を見つけることか。
澄江に謝ることか。
自分を赦すことか。
どれも違うようで、どれも少しずつ正しかった。
だが手紙を読んではっきりしたことがある。父は「真相を知れば終わる」とは思っていなかった。むしろ真相の不在ごと背負い続けるしかないと知っていた。それでも春口へ戻り、駅に立ち、港を見て、海の見えるホームを巡った。探すこと自体が、父にとっての罰であり、祈りだったのかもしれない。
ノートの最後に近いページに、小さな鉛筆書きがあった。
――手紙は出せなかった。
――会えば言えると思ったが、会えばなおさら言えなかった。
――言葉にすれば、あの日が一つの形になってしまう。
――だが、形がないままでは、千紘だけがいつまでも待つ。
湊はしばらく目を閉じた。
千紘だけがいつまでも待つ。
その一文が、この旅の中心だった。
父は、自分のためにではなく、千紘を“待たされたまま”にしないために春口へ戻っていたのだ。見つけられなくても、真相が曖昧でも、少なくとも誰か一人は忘れずにいる。それが供養なのか呪いなのか分からないまま。
窓の外で、遅い列車の音がした。
波の音と重なって、レールの響きが一瞬だけ濁る。海と鉄道が同時に鳴る夜だった。
汐騒と、手紙。
どちらも届いたようで届かない。
けれど、その届かなさの中にしか残らないものもあるのだろう。
湊は父の手紙を畳み、澄江の書きかけの手紙をその隣へ置いた。
出されなかった言葉同士が、何十年も経ってようやく同じ机の上に並ぶ。
それを見ていると、父と澄江が会えなかったことの痛みと同時に、会えなかったからこそ残ったものの重さも感じられた。
明日、何かが分かるとは限らない。
だが、もうこの物語は幻の駅や昔話の域には戻らない。
ここには、実際に待たされ、怒らず、いなくなったかもしれない一人の少女がいる。
そして、その不在を引き受け損ねた大人たちがいる。
父も、その一人だった。
夜更け、風は少しおさまった。
波の音だけが遠くで続いている。
湊は灯りを消し、暗がりの中で父の一文を思い返した。
――千紘だけがいつまでも待つ。
それは、父がもっとも恐れていたことだったのだろう。
そして今、その待ち時間の一部を、自分が受け取り始めているのだと、湊は静かに知った。




