表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮待ちのレール  作者: たむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/8

第八章 海の見える待合室

 八月の空白に触れてから、春口の風景はそれまでと同じではいられなくなった。


 町は相変わらず静かだった。

 朝になれば港では網が干され、昼になれば坂道の石が熱を帯び、夕方になれば海は鈍い金属のような色へ沈んでいく。列車は決まった時刻に来て、船もまた暮らしの都合に合わせて岸を離れる。何ひとつ劇的には変わらない。けれど、湊の目には、その穏やかな往復の下に、別の層がずっと流れているように見え始めていた。


 大人たちは帰る便があると思っていた。

 だから、待たせても大丈夫だと一度は思った。

 その一度の軽さが、子どもを一人、時間の継ぎ目へ置き去りにしたのかもしれない。


 その考えは、湊の胸の奥でゆっくりと固まり始めていた。

 父はきっと、その軽さの中に自分がいたことを知っていた。

 だからこそ、家庭の中で何も語れなかったのだ。

 説明してしまえば、自分が「そのとき、そこにいた一人」だったことまで言わなければならない。沈黙は卑怯さでもあるが、同時に、背負いきれないものを抱えた人間の不器用な防波堤でもある。


 朝食のあと、湊は父のノートを持って駅へ向かった。

 今日はどこかへ遠く行くつもりではなかった。ただ、これまで辿ってきた駅をもう一度、自分の足ではなく父の視線で見直してみたいと思ったのだ。春口の待合室、神尾浜の仮場、南瀬戸口の古い売店、橘浜の船着場。断片は揃いつつあるのに、それを束ねる感覚だけがまだ薄い。何かを知るためではなく、知りかけているものの形を確かめるために、再び海の見える待合室へ向かいたかった。


 赤い屋根の待合室には、朝の光が斜めに差していた。

 木の長椅子、掲示板、色褪せた写真、そして額に入れられた古い時刻表。潮待ち浜の文字は相変わらずそこにある。最初に見たときはただ不思議だったその名が、今では記憶の仮名にしか見えなかった。誰かを待たせた場所、誰かが来なかった場所、正式な駅ではないのに駅の名で呼ばれた場所。


 湊は長椅子に座り、父のノートを開いた。

 紙の間から、何か薄いものが滑り落ちた。


 封筒の切れ端だった。

 いや、封筒そのものの一部と言ったほうがいい。端が破れ、宛名の部分は失われている。紙は薄茶色く変色し、角には湿気で波打った跡があった。表には何もない。ひっくり返すと、内側の折り返し部分に鉛筆でごく小さく文字が残っていた。


 ――まだ待っている


 湊はしばらく、その五文字を見つめた。

 父の字だと思った。完全な確証はない。だが、父のノートにある簡潔で、少しだけ右上がりの筆跡に近い。

 まだ待っている。

 誰が。

 どこで。

 何を。


 待合室の外で、列車の接近を知らせる気配がした。

 レールの震えが先に来る。

 遠くの音が風に混じって近づき、やがて一両編成の車体がホームへ滑り込んできた。高校生が三人、買い物帰りらしい女性が一人降り、代わりに二人乗っていく。ほんの一分足らずの停車。その短い往来のあいだも、湊の手の中にある紙片だけが別の時間に属しているようだった。


 列車が去ったあと、ホームにはすぐ静けさが戻った。

 人の気配が完全に消える前に、木の床板が一度だけ小さく鳴る。誰かが立っていた場所の名残みたいな音だ。


 まだ待っている。

 その言葉が、春口の待合室だけでなく、神尾浜の仮場や橘浜の船着場や、父の沈黙そのものにまで重なっていく。待っているのは千紘かもしれないし、澄江かもしれない。あるいは父自身だったのかもしれない。謝罪の言葉を伝えられる相手も、真相を確かめる機会も、もう来ないかもしれないのに、それでも「まだ待っている」としか書けなかったのだとしたら。


 湊はその紙片をノートの間へ戻し、ホームへ出た。

 空は高く、雲は少なかった。風もほとんどない。遠くの海が白く滲み、その向こうに島影が淡く浮かぶ。八月にはまだ少し早いが、光だけはすでに夏の芯を含んでいた。


 午前の列車で、神尾浜へ向かった。


 車内は空いていた。

 窓際の席に座ると、線路は春口を離れてすぐに海の近くを走り出す。カーブのたびに見えたり隠れたりする内海。防波堤、岸壁、倉庫、古い工場、柑橘畑、石垣。どの風景ももう初めてではない。だが、一度知ってしまったことは景色そのものの密度を変えてしまう。以前ならただ美しいと思った海の明るさの中に、今は待たされた時間の気配が混じって見えた。


 神尾浜で降りると、駅はいつものように人が少なかった。

 ホームに立つと、崖の下から海の匂いが上がってくる。以前ここへ来たときは、仮場のような平たい場所で何かに見られているような気がした。今日はその感覚を、少し冷静に確かめたかった。


 旧道を歩き、あの平場へ出る。

 草の伸び方は前と変わらない。白線のような痕跡も、錆びた柵の残りもそのままだ。人が使わなくなって長い時間が経っているのに、不思議と「待つための広さ」だけは失われていない。ここに十人、二十人と立たせたら、たしかに一時的な乗降場か待機場所に見えるだろう。


 湊はコンクリートの縁に立ち、海のほうを見た。

 今日の水面は静かで、陽を受けて細かく光っている。八月の混乱の日も、すべてが暴風雨だったわけではないのかもしれない。大雨の合間に、こうして不自然なくらい静かな時間が差し込み、その静けさがかえって判断を鈍らせたこともあったのではないか。


 ここで待った。

 誰かが。

 誰かを。

 列車か、船か、迎えか、連絡か、便の再開か。

 あるいは、来るはずのない何かを。


 湊はポケットから昨日のメモを取り出し、見返した。

 八月、大雨、便の乱れ、港と駅、仮場。

 それらを頭の中で並べたとき、不意に一つの可能性が浮かんだ。千紘は最初からここへ置かれていたのではない。船と列車のどちらへ振り分けるか決まらないあいだ、大人たちの都合で一時的に待機させられていたのではないか。だから「待っていた」のではなく、「待たされていた」。自分で選んだ場所ではなく、状況に押し込められた場所としての潮待ち浜。


 その考えに触れた瞬間、胸の奥が冷えた。

 子どもは、大人の混乱のなかで一番簡単に「少しここで待っていて」と言われる存在だ。すぐ迎えに来るつもりだったのだろう。ほんの少しのつもりで。帰る便があると思っていたから。だから大丈夫だと、誰もが一度は思った。


 崖の上を列車が通過した。

 音は短く、影は一瞬で過ぎる。だがその通過に合わせるように、平場の片隅で何かが白く光った気がした。


 湊は目を凝らした。

 草に半分埋もれた、プラスチックのような白。以前も見た紙片の名残かと思ったが、近づいてみると小さなボタンだった。帽子か服から取れたものかもしれない。新しいものではない。潮風と雨で艶を失い、縁が少し欠けている。


 拾うな、と言われたことを思い出した。

 待つ場所のものは持ち帰らない。

 理由は消えても、言い伝えだけが残る。

 湊は指を伸ばしかけ、やめた。ボタンをそのまま草の間へ戻し、立ち上がる。ここで見つかるものは証拠ではなく、時間の欠片だ。それを持ち帰ることが何を意味するのか、自分にはまだ分からない。


 神尾浜をあとにして、南瀬戸口へ向かった。


 古い売店の前には、あの日会った老婦人が今日も椅子を出していた。

 夏の陽差しを避けるように半分だけ日陰へ入り、団扇でゆっくりあおいでいる。


「また来たの」

 湊を見るなり言う。

「はい」

「しつこいわね」

「そういう顔をしてますか」

「してる」


 老婦人はそれ以上嫌がる様子もなく、むしろ「しょうがないね」という顔で隣の椅子を足で寄せた。湊が座ると、彼女は団扇を止めずに訊いた。


「今日は何」

「千紘のことをもう少し」

「もう少し、ねえ」


 売店跡のガラスは光を受けて白く曇り、その向こうに海の気配だけが見えた。駅には昼の気だるさが漂っている。列車の本数が少ないせいか、停車と停車のあいだの時間が長く、そのぶん待合室や売店跡は人の不在を深く抱え込む。


「その子ね」

 老婦人がぽつりと言う。

「いつも一人ってわけじゃなかった」

「誰かと一緒だった?」

「年上の女の子といたことがある。背の高い、気の強そうな子」

「澄江かもしれません」

「名前は知らないけど、そうかもね」


 汐里の母。

 やはり澄江と千紘は、駅を共有する関係だった。


「二人とも、列車を待ってるというより、待たされてる顔だった」

 老婦人は続けた。

「子どもって、遊びの待ち方と、大人の都合で待たされる待ち方とで全然違うのよ。あの子たちは後者だった」

「覚えてるんですね」

「覚えてるわよ。駅ってそういう顔が残る場所だから」


 湊はその言葉に、深くうなずきたくなった。

 駅には、発着の時刻だけでなく、人がそこに置いていった表情が残る。だから父も海の見える駅ばかりを回ったのだろう。列車の写真を撮るためではなく、そこに染みついた「待たされる顔」の名残を見ようとして。


「雨の日のこと、何か」

 訊くと、老婦人は団扇を止めた。


「大雨のとき?」

「はい」

「私はここにいたわけじゃないけど、あとで聞いた話なら少し」

「どんな」

「船が乱れて、人が港と駅の間で詰まった。子どもも何人かいた。迎えが来る、便が動く、列車が出る、そういう話が全部半端にずれてた」

「千紘もそこに」

「たぶん」


 老婦人は首を少し傾けた。


「ただね、いなくなった子がその子だったかは、私は知らない」

「……」

「でも、あのあと白い帽子を見なくなったのはたしかよ」


 その一言だけで十分だった。

 いなくなった子が千紘と断定できなくても、「白い帽子を見なくなった」という証言は、痛いほど具体的だ。人は誰かの名前を忘れても、帽子の色や立っていた場所は記憶に残すことがある。父も、澄江も、売店の女性も、みな白い帽子だけをくっきりと覚えていた。


 午後、橘浜へ移ると、船着場の待合には誰もいなかった。

 時刻表の紙が少し端からめくれ、柱の影が床に細く伸びている。湊はベンチに座り、しばらく海を見た。島は近い。けれど、見えることと行けることは違う。船が出なければ渡れない。便が乱れれば、それだけで人は時間の途中へ留め置かれる。


 もし千紘が島へ渡る予定だったのなら。

 あるいは島から本土へ戻る予定だったのなら。

 待機場所に押し込められたその一瞬に、彼女の時間は簡単に宙吊りになる。


 父のノートを開く。

 以前見た一文の少し前に、見落としていた短い記録があった。


 ——待合の陰に三人。

 ——澄江、千紘、もう一人は港の手伝いの若い者。

 ——「すぐ戻る」の声が、誰のものだったか思い出せない。


 湊はページを押さえた。

 すぐ戻る。

 その言葉はあまりに日常的で、あまりに危うい。

 大人はよくそう言う。すぐ来る、すぐ戻る、大丈夫。

 子どもはそれを疑わない。

 あるいは疑いながらも、その場で待つしかない。


 待合の外で、小さな影が動いた気がした。

 顔を上げる。誰もいない。

 ただ、陽射しの加減で、柱の影が一瞬だけ人の立ち姿に見えただけだった。


 それでも、ここへ来るたびに、現実と記憶の境目が薄くなる感覚がある。

 父も同じだったのかもしれない。何度も駅や待合室へ戻るうちに、今の景色に昔の人影が重なって見え始める。追っているのが人なのか、自分の後悔なのか、分からなくなっていく。


 春口へ戻る列車は、夕方の少し前だった。

 車内の窓から西日が入り、床に長い影を作る。乗客は少なく、向かいの席に釣り道具を抱えた若い男が一人いるだけ。列車がカーブを曲がるたび、海がちらりと見え、そのたびに白い帽子の残像が脳裏をかすめた。


 その夜、夢を見た。


 潮待ち浜のホームだった。

 以前と同じく、白地に青い字の駅名標が立っている。海はすぐ向こうにあるのに、音はしない。代わりに、発車ベルと遠いエンジン音だけが交互に響いている。ホームのベンチには父と少女がいた。今度は少しだけ距離が近い。父は若い。澄江らしい少女もいる。二人ともまだ子どもで、ホームの端で海のほうを見ている。


 誰かが言う。

 すぐ戻るから。

 すぐ来るから。

 その声が父のものか、大人たちの誰かのものかは分からない。

 少女――千紘が、帽子のつばを押さえたままじっと前を見ている。怒っているのでも泣いているのでもない。ただ、待つ顔だ。

 その顔だけが、ひどく静かだった。


 湊は夢の中で父に声をかけようとした。

 だがいつものように声が出ない。

 代わりに父が振り向く。初めて、夢の中でこちらを見た。

 その目に、驚くほどはっきりした負い目があった。


 目が覚めたとき、まだ夜明け前だった。

 障子の向こうが薄く白んでいる。海の気配だけが遠くにあり、列車の音はまだ聞こえない。湊はしばらく布団の上で動けなかった。夢は単なる再生ではない。自分の想像が混じっている。だが、混じっているからこそ見えてくるものもある。父は千紘の失踪そのものより、「待て」と言った側に自分がいたことを恐れていたのではないか。


 朝、居間へ下りると、汐里がすでに朝食の支度をしていた。

 味噌汁の湯気が立ち、窓の外の港にはまだ淡い光しか差していない。湊が座ると、彼女は顔を見て言った。


「夢、見ましたか」

「分かるんですか」

「少しだけ」


 相変わらず不思議な言い方だと思いながら、湊は昨夜の夢を話した。

 潮待ち浜のホーム。

 父と千紘と澄江。

 「すぐ戻る」という声。

 そして、父の目。


 汐里は静かに聞いていたが、「待てと言った側にいたのでは」というところで、手を止めた。


「たぶん」

 彼女はゆっくり言う。

「それが一番、言えなかったことなんでしょうね」

「そう思います」

「母も、誰かを責めたいのに責めきれなかったのかもしれない」

「父一人のせいではなかった」

「でも、だからこそ余計に」


 誰のせいかはっきりしていれば、人は怒りの向け先を持てる。

 けれど、混乱のなかでみんなが少しずつ軽く、少しずつ遅く、少しずつ見落としていたのだとしたら、その空白は長く残る。父が背負ったのは、たぶんそういう種類の負い目だった。


 食後、汐里がふと思い出したように言った。


「母の部屋に、まだ見ていない小箱がありました」

「小箱?」

「手紙とか、髪飾りとかを入れてたらしい箱です。昨日はそこまで開ける気になれなくて」

「今日、見ますか」

「はい。一緒にいてもらえますか」

「もちろん」


 母の部屋の箪笥の奥から出てきた小箱は、掌に乗るくらいの桐箱だった。

 蓋の縁が少し欠け、長い時間のあいだに白木が飴色へ変わっている。汐里は一度深く息を吸い、それからそっと蓋を開けた。


 中には、古いヘアピン、貝殻、小さな鏡、それから何通かの封筒が入っていた。

 封はされていない。

 一番上の便箋を広げると、澄江の字で短くこう書かれていた。


 ――春口の待合室で、また亮介さんを見た。

 ――千紘の帽子のことを、まだ覚えている人がいる。

 ――忘れないでいることが、供養なのか呪いなのか分からない。


 湊はその文を読み、胸の奥が小さく痛んだ。

 忘れないでいることは、たしかに美徳のように見える。

 だが、忘れられないまま生きることが、そのまま人を縛ることもある。父も澄江も、そのどちらにいるのか分からないまま、何十年も過ごしたのだろう。


 もう一通には、こうあった。


 ――千紘は、待つことに慣れていた。

 ――慣れていたから、あの日も怒らなかった。

 ――怒らなかったことが、いちばん悲しい。


 汐里が、かすかに息を呑むのが分かった。


 怒らなかったことが、いちばん悲しい。

 その一文は、白い帽子の少女の静かな顔を、そのまま言葉にしたようだった。

 子どもが大人の都合に慣れてしまうこと。待たされることに抗議できなくなること。

 父も澄江も、その表情を見てしまったのだ。

 だからこそ、そこから先を記せなかった。


 部屋を出ると、海の匂いがいつもより濃く感じられた。

 昼に近づく光の中で、春口駅の赤い屋根が遠くに見える。待合室の前には誰もいない。だが湊には、そこが「人の不在」よりも「人がいたあと」を抱えているように思えた。


 海の見える待合室。

 そこに残っているのは駅の機能ではなく、待たされた表情の名残だ。

 父が何度もそこへ戻った理由が、少しだけ分かった気がした。

 列車は来て、去る。

 船もまた、出て戻る。

 だが一度そこへ取り残された時間だけは、どこへも行けずに残る。


 その午後、湊は父のノートに新しく書き足した。


 ——待合室には、いなくなった人ではなく、待たされた表情が残る。

 ——父は千紘を探していたのではなく、あの表情に責任を感じていたのかもしれない。

 ——「すぐ戻る」は、大人がよく使う最も危うい約束だ。


 書き終えたとき、窓の外を一本の列車が通った。

 海の近くを、島影の縁をなぞるように走っていく。

 白く光る車体は、何も知らないまま、何も語らないまま、今日の時刻表の上を進んでいく。

 だが湊には、その音が以前より少しだけ重く聞こえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ